<2024年>

岐阜空襲を記録する会、発足50周年を迎えました!
 岐阜空襲を記録する会は、戦災29年にあたる1974年発足以来、順調に活動を続け、
今年50周年を迎えました。新たに若いメンバーも参加し、戦争の愚かさしと、悲惨さ、平和の尊さを
伝える活動を更に積み重ねるてまいります。
 50年の活動の要約です。


岐阜空襲を追って
             −「岐阜空襲記録する会」の活動−

1,岐阜市平和資料室開設までの経過
(1)「岐阜空襲を記録する会」の発足(1974.9) 上松市長、平野知事呼びかけ人に
「資料の永久保存などを目指す資料館の建設---」(第四条)を目指し
対県・対市交渉、調査・記録活動、「体験を語る会」・「空襲展」の開催、ニュースの発行、 書籍の出版、スライド・パネル・ビデオの作成と貸し出し
「被災30周年 岐阜空襲展」中日新聞、丸物百貨店と三者共催 4万人の入場(75,8)

(2)岐阜市が、「岐阜市平和都市宣言」(1988.6)
    岐阜市非核都市宣言請願署名運動(1983.7〜84.2)
「岐阜市非核都市宣言をめざす運動推進センター」(記録する会が事務局)
呼びかけ人325人、請願署名27.471人提出
「常設展示場---を市当局や議会に要求し、---」 この時は 22対25で否決しながら
市政100年、岐阜市議会が、「岐阜市平和都市宣言」を決議(1988.6)

(3)岐阜市は、平和都市として何をするのか
   岐阜市は年間500万〜700万円の「平和都市宣言啓発事業費」を予算化する
    野村市議が平和資料館の設置を、蒔田・淺野市長に迫る
    岐阜教組ら7団体が「平和施策に関する要望書」を市長に提出(1992.6.6)

(4)「岐阜市平和館をつくる会」(記録する会事務局)を発足(1993.4.25)
岐阜教組、コープぎふ、母親連絡会、平和遺族会など24団体で署名運動、市長交渉など

市側は 
会も参加し「戦争・戦災資料収集に関する委員会」をスタートさせ(1993.9.3)、95年7月までに
329点の資料を市民から収集し、岐阜市歴史博物館で保管。
行政視察として「ピースおおさか」「国際平和ミュージアム」見学

 つくる会も 「平和ミュージアム見学の旅」(93.6 43名参加)
    「岐阜の戦争遺跡」の刊行(93.8 2000部 知事・市長などから推薦文)
    「'94 ぎふ平和展−50年前は戦争だった」(94.8.11〜15 岐阜市文化センター入場者3225人 パンフ4000部)
    「市民平和講座」(94.1〜7 6回開催)
    「子らに伝えよう−ぎふ戦争と平和展−」(95.8.4〜8 中日新聞共催 近鉄百貨店 入場者18.000人)
    「岐阜空襲の夕べ」(毎年7月)
    「空襲・戦災を記録する会 第28回全国連絡会議 岐阜大会」共催(98.7.19〜20) 
         グランヴェール岐山  191人 市長・助役出席

(5)「平和資料室」実現に向けて
「平和資料室」を四次総に位置づける(96.3月岐阜市議会)
「国際交流」の部分に、「本誌は昭和63年に『平和都市宣言』を行いましたが世界に目を向けると平和を
脅かす様々な出来事が起こっており、平和に対する認識を新たにする必要があります。戦争体験者が減少し、
戦争に対する認識が風化しつつある今、戦争という悲劇を繰り返さないためにも、戦争について学び、
平和の尊さを認識する必要があります」として「平和意識の高揚と展示機能の充実=人類にとって永遠のテーマである
平和意識の高揚を計るため飢餓、環境破壊をはじめとする種々の視点から資料展示を通じ、
広く啓蒙活動を行います」と位置づけ、所管を市教委文化課から総合企画部文化行政推進室へ移す。(96.4)

  *岐阜市主催平和展「子供たちへ伝える平和のための資料展」に協力
「岐阜空襲」96.7.9〜30   「戦時下のくらし」(8.5〜30)」
以後開設まで4年間開催

* 岐阜駅西陸橋取り壊しに伴う戦災遺物の発掘(97.3.27 7.26 8.13)

2,「平和資料室」オープン(2002.1.26)  ハートフルスクエアーG
  (1)規模・運営
   *展示室110u 倉庫10u 文化生涯学習課所管
   *岐阜市空襲と戦時下の市民生活をテーマにした展示(常設展)
 ほかに竹中彰元(反戦僧)、サイパン玉砕の郷土部隊、軍隊生活など
 空襲を記録する会制作ビデオ随時上映
   *午前9時から午後9時まで開館、休館日は月1回(最後の火曜日)
   *無人、監視ビデオ
   *4月より「ハートフルスクエアーG」を「岐阜市教育文化振興事業団」へ民間委託するが、     「平和資料室」だけは文化生涯学習課(今は男女共生、生きがい推進課)の所管

3,子供たちに伝える平和のための資料展・特別展展示制作(会制作分)
「戦時中の教科書」(04.8〜)
「開戦、戦中の暮らし、そして空襲」(05.7.9〜31)
「戦争中のお母さんは、大いそがし−大日本婦人会岐阜支部の活動−」(06.7.9〜07.7.20) 「学校もたいへんだった−戦火の中学生日記-」(07.7.22〜08.8.5)
「反戦を貫いた僧 竹中彰元」(08.7.19〜09.7) 
「岐阜の戦争遺跡」(09.7〜10.8)
「岐阜空襲写真展」(10.7〜8)
「焼け野原から再生する岐阜の街−新発見写真から−」(10.7〜11.7)
「岐阜空襲の記録−破壊からの再生−」(20117〜12.7)
「市民と兵士の防空」(12.10〜13.7)
「狙われた故郷−新公開写真−」(2013.7〜)
     「戦争の時の子どもたち~欲しがりません勝までは」(14.7〜)
「戦争の悲しみをえがく板津包信作品展」(15.7〜)
     「”進め一億火の玉だ!〜「本土決戦!」のころの少年少女たち〜(16.7〜)」◆
「戦うぼくら、少国民!〜岐阜空襲と、立ち向かった子供たち〜」*◆
「焼け野原からの再出発〜そして今」(17.7〜)*◆    
「戦争中のお母さんは大いそがし!−戦時の婦人会活動を記録した『梅林文書』より−
(18.7〜)◆
     「お寺さんもお宮さんも火に追われた」−空襲時の寺院、神社、教会−」(19,7〜)◆
     「街も家も焼けてしまった-『芽吹けミヤコよ』より@(21.7〜)◆
「戦後75年・写真展 戦中・戦後の岐阜市民たち」(20.7〜)◆
     「   同   上 」A ◆
     「アメリカ軍は。岐阜市の何をねらったのか-空襲「計画」から「結果」まで(22.7〜     「 10代の戦争体験〜あの日、すべてが焼かれた〜 」23.7〜◆
                            (◆メディアコスモスでも展示)
4,見学ガイド
    小学校、社員研修、教員研修、人権教育研修、県外の戦災・空襲記録する会、メディィア
5、その他の活動
  (1)平和講座   小・中・高等学校、児童館、自治会、企業、民間団体、市民など
  (2)他団体との交流 「全国空襲・戦災を記録する会交流会」(毎年8月)
      「戦災・空襲記録作り東海交流会」(毎年12月)
  (3)資料の貸し出し 長岡市 佐世保市 大牟田市 岐阜県医務課 山県市 美濃市 本巣市ほか 

6,主な刊行物 写真集『岐阜・各務原・大垣空襲』1975年
体験記集『火の海からの証言』1976年()
『岐阜空襲誌』1976年
絵本『芽吹けミヤコよから〜子供たちに伝える岐阜空襲』1985年
(岐阜県学校図書館協議会推薦図書、全国学校図書館協議会選定図書)
『岐阜の戦争遺跡』1993年  岐阜県知事、岐阜市長の推薦文
『岐阜も戦場だった』2005年(「平和資料室友の会」参加で)
写真集『岐阜空襲の記録』2013年(美江寺観音と共同制作)
『戦争中の少年少女たち−「ほしがりません勝つまでは!」の時代に−』2018
映 像 『私たちの街がたかれた〜岐阜.各務原.大垣空襲の記録』(32分)
           『「芽吹けミヤコよ」より』(27分)
           『焦土:岐阜』4分(米軍機空撮) 
『岐阜空襲アーカイブ』2017年(愛知淑徳大國広由紀さん制作に協力)

7,ホームページ開設 1998年 http://yosisi.sakura.ne.jp岐阜平和通信 →岐阜空襲を記録する会
   →岐阜平和資料室
8,表彰  2013年11月 岐阜市教育委員会より「第62回」 教育委員会表彰受賞
(2024.3 篠崎 喜樹)






<2023年>

「広報 ぎふ」に中島さん登場しました!

月2回発行され、市内全戸配ふされます






2023年の報道記事
岐阜空襲に出撃した、アメリカ軍兵士の手記発見(8月8日 中日新聞1面)




7月下旬、中日新聞アメリカ総局の淺井記者より、
「岐阜空襲に参戦した兵士の手記が見つかった。全文を読んで『記録する会』からコメントをいただきたい」
との依頼がありました。日本の空襲に参加した、米軍兵士の生の声はこれまでほとんど伝わっておらず、貴重なものです。

今は亡き元米兵ローランド・ボールさんの手記は驚くべきものでした。
東京、名古屋空襲にも参加したボールさんは、「岐阜はミルクラン(ラクな任務)になる」と軽い気持ちでいたところが、
岐阜に近づくとサーチライトが作動していた!しかもライトにはレーダー機能が付いており、自分たちの搭乗するB29が照らされ、
眩しくて前方が見えなくなった。
そこへ日本側の戦闘機がやって来て銃撃された。機内は爆発や燃料漏れもをこし、他にもトラブルで、墜落も覚悟しながら
なんとかグァムの基地まで帰り着いた。搭乗機は左翼に大きな穴、46個の弾痕が残り、「ダントツにひどい、本当に恐ろしい
経験だった」と記されています。

読んだ最初の感想は、「当時の日本側がこんな攻撃ができたのか?米兵士の見間違いではないのか?」でした。岐阜空襲の
これまでの証言や記録に「サーチライト」「レーダー装備」「戦闘機の応戦」などは一度も出ていないからです。
そこで当時の日本側・帝国軍の、岐阜市周辺の軍備の検証を行いました。東海軍管区情報に詳しい「戦争遺跡研究会」の
清水啓介さんの協力もいただき、以下のことが判明しました。

1.サーチライト(当時は照空灯と呼ばれた)の部隊は、高射砲部隊とセットで配置される。陸軍高射砲部隊は確実に岐阜市鏡島に
配置されていたので、照空灯部隊も近隣に配置されていたのはほぼ確実。

2.レーダー装備は日本軍はたしかに遅れていたが、大戦末期にはレーダー付き照空灯が登場している。(岐阜は末期に空襲)

3.戦闘機は、もっとも近い各務ヶ原陸軍基地が岐阜空襲の1ヶ月前に2度の米軍空襲で壊滅している(滑走路も穴ボコ)。
各務ヶ原から戦闘機を出すのはおそらく不可能だが、岐阜市に近い愛知県の小牧や清洲に小規模な基地があり、そこから
戦闘機を出すことは可能と思われる。

以上のことから、アメリカの記者に
「米軍兵士の手記に出てくる、日本側の迎撃体勢を当時の陸軍がとることは可能だった。ボールさんが見たままを信頼して大丈夫」
との返信をし、篠崎代表のコメントも出して記事になりました。1面のTOP記事でした。
今回分かったことは、これまで日本側の軍は「岐阜空襲にほぼ何もできなかった」と考えられていたことが、
実は「最新の装備まで出して、精一杯の応戦をしていた」ということです。
にも関わらず、ひと晩で900人の市民を犠牲にした。これが戦争なのだと痛感しました。(レポート:中島)



おもと会「戦争体験を語り継ぐ夕べ」 会場いっぱいに!

 
     金森 勝子さん                   岡部 和男さん

「戦争体験を語り継ぐ夕べ(おもと会主催)」が、今年もメディアコスモスで開催されました。8月9日、ナガサキ原爆の日です。
篠崎先生、中島学芸員と共に参加しました。
今年は篠田隆夫さん(91)が岐阜空襲の体験を語り、空襲で炭になってしまった配給米の実物を見せてくださいました。
金森勝子さん(79)は長崎原爆の体験と共に、原爆の被害だけではなく、戦後の被爆者差別についても赤裸々に語られました。

また当会の中島さんが、実際に使われた焼夷弾を用いて岐阜空襲の概要を説明。また前日の中日新聞1面に掲載された、
岐阜空襲に参戦したアメリカ軍兵士の手記発見の記事を紹介し、手記の検証から分かった最新情報を報告しました。
今回私・岡部は、ベティ・リアドン博士の「平和とは、価値創造のプロセスであると考えます。ここでいう価値とは、
人々が幸福になるための条件です。」との言葉を通して、本当の平和とは何かについて研究発表をさせて頂きました。

最後に篠崎先生が講評をされ、「戦争の風化が進んでいる今だからこそ、こういった集いや活動が戦争の抑止力につながっていくと
思います」と、参加者にエールを送りました。
今年度は、ご家族で参加してくださった方も多く、会場はいっぱいで次世代への継承を実感しました。
    (レポート:新会員・岡部和男〈高2〉)





「子どもたちに伝える平和のための資料展」開催されました
  7月
3日〜13





 
今年も7月9日「平和の鐘」の日の前後7月3日より10日間、メディアコスモスで」当会制作
「子どもたちに伝える平和の資料展が開催されました。主催:岐阜市.

 パネル展示では「10 代の戦争体験〜あの日、すべてが焼かれた〜」として、二人の女学生の
体験を体験を中心に、戦争の悲惨さを訴えます。またロシアがウクライナにしている国際法に
違反する空爆を紹介しました。林智子さん描く、復元画が好評です。
 
9日には3時から、浅井彰子さん(アナウンサー)と朗読サークルの子どもたちによる
「空襲体験と茨木のり子さん『わたしが一番きれいだったとき』など平和の詩朗読会」も行われました。
プロジェクターや紙芝居を使っての朗読は、初めての企画でしたが大成功でした。






「平和の鐘」式典、平和への決意新たに

 7月9日岐阜空襲の日は雨でした。会場を市役所1階市民交流スペース「ミンナト」へ移して、して
柴橋正直市長さんや松久宗真市仏教会長さんらの参加のもと開催されました。(市主催)
 
 当会から空襲の概要について話したあと、8才のころ、加納本町でッ空襲にあった松尾美津子さんが、
家族8人の腕を縄でつないで逃げた体験などを話されました。

  また以前当会が平和講座を行った岐阜中央1年から、登吉晃大さんなど3人が
、「平和な社会、平和な世界を築くために、お互いの立場を尊重しあいます」などと元気に誓ってくれました。
 平和宣言都市岐阜市の誇らしい行事でした。


    



「もっと戦争を知り、戦争をしない意識を!」---三輪中
 
 

6月7日、今年も三輪中三年生の平和学習に、浅井、中島、林、篠アでお手伝いにいきました。
 当時の中学生の生活や意識、空襲の実態や被害を生徒さんに問いかけたり、
質問時間には戦中・戦後のくらしなど多くの質問を受けました。不自由な姿勢で
も、メモをしっかり取っていました。

焼夷弾を持ってもらったり、モンペ姿のコスプレ姿や、当時の中学生との背比べバド
参加してもらいながら理解を深めてもれいました。





「学んだことを、しっかり伝えていこう」--- 清流中

 6月16日は、清流中3年生5クラスの平和学習に参加しました。冷房が使えるとのことで、
学校に隣接の日光コミュニティセンターでの計画されました。
 忠節橋北詰の激しい戦火を浴びた早田、則武地域が校区であり、生徒さんたちの関心も高かったようです。

 いつもの浅井、中島、林、篠ア4人がそれぞれ分担し、岐阜空襲の全容や当時の子どもたちの様子を話しました。
生徒さんの反応も良く、戦時子どもの時の楽しみな何かとか、当時の学校の様子とか、質問が続きました。

 終わって市の職員の方から、「メリハリがのある素晴らしい平和講座だった」との評価をいただきました。


 

 


沖縄でも、アジアでも、平和のの輪を広げ--- 中央中

 6月23日、沖縄慰霊の日、中央中学で平和学習でした。会場の関係で、1年生3クラスを2組にわけ、
会のスタッフも2人づつ別れて、通常のの教室で行いました。
 この校区の本郷地区は、空襲になると、避難する市民が集中し、道路がいっぱいになり進めなくなるところに
焼夷弾が激しく投下され、岐阜市内で最も犠牲者の多く出たところです。
 浅井さんは、この日に合わせ沖縄の少女の平和宣言を読みあげ、平和の尊さを訴えました。」
 終わっての質問も活発に出され、戦中と戦後の教育、生活などの違いを深めることが出来ました。