最近いただいた、岐阜空襲体験記を紹介します



“太平洋戦争・岐阜市への空襲とその前後に纏わる微かな記憶” 横田(旧姓:川口)勝さん 大阪府堺市北区百舌鳥西之町1丁39番地

太平洋戦争で岐阜市が空襲を被ったのは昭和20年7月9日、私の年齢が4歳3カ月の時であった。空襲とその前後に纏わる当時の思い出はかなり鮮明に記憶している、と思う。
私が学生時代のある日、その内容を幾つか先輩に話すと、「それは夢であろう、そんなに具体的なことは君の年齢を考えると信じられない」と言われたが、私は決してそうはない、幼少の時であればこそ、あの恐ろしい天変地異を思わせる空襲体験が脳裏の奥深くに記憶として今でも残っているものと確信している。
当時の私の家族は、両親、4歳上の長兄、2歳上の次兄、そして2歳下の妹の合計6名であった。
父は戦前岐阜市内の某銀行に勤めており、偶々出張の日であった。正にその日の夜、岐阜市への空襲が始まったのであろう(記録によると夜11時30分過ぎ)空襲警報のサイレンが四囲からけたたましく鳴り出した。母は2歳の妹を背負っていたものと思われる。私たち兄弟3人は母とともに手を繋ぎ合い、母子5人で避難を始めたのを朧気ながら記憶している。

岐阜市の空襲に纏わる記憶は断面的であるが次の通りである。
1.空襲からの避難の途中、田圃があると、そこに張られた水で“防空頭巾”を濡らし、それを被ったことを記憶している。
空襲に遭う季節を選ぶ訳にはいかないが、7月という夏の季節であったのは色々な意味で不幸中の幸いであったと言えるのかもしれない。冬の季節であったならば寒さで二次的な被害も少なくなかったのではないかと思われる。

2.避難の途中、出張から帰って来た父が「***!***!」、と母の名前を叫びながら私たちを探し求め、全くの偶然であったのだろうか、それとも空襲に備えて予め避難経路を両親または町内で申し合わせていたのであろうか、何れにしても避難の途中で奇跡ともいえる父との再会が実現した。
父が母の名を叫ぶ声が朧気ではあるが記憶に残っている。また父が自転車を押しながら姿を現した時の情景も微かに覚えている。私が父の全てについて知る限り、このときの父が最も頼もしく感じられたように記憶している。
父との合流で私たち一家6人が揃って避難を再開した。

3,けたたましい警報のサイレンが鳴り響き、どこからか「空襲警報発令!」(と叫んでいたのであろう、これは記憶が曖昧である。ただ遠くの方からの警報を告げるヒステリックな金切り声だけが耳の奥に残っている)の狂気じみた大声が発せられると、私たち避難集団は物陰に集まり、皆が膝を曲げて四つん這いになり、前の人の両股の間に頭を突っ込んで難を逃れようとしたことを記憶している。このような行動は避難訓練で予め教えられていたのかも知れない。

4.避難の途中、焼夷弾による火災で民家が轟音をたてながら燃え盛り、炎で照らされ、熱くなった電球がパーンと乾いた大きな音を発して破裂するのを聞いた、そしてその情景も目に焼き付いている。

5.避難の途中、体が不自由と思われる年老いた男性をリヤカーに乗せ、これを引いて避難する老婆に出会った。私たち6人の家族と、老婆たち2人の合同避難が始まった。私たち一家と老婆たちに相互の助け合いが始まったのであろう。徒歩で避難していた私たち一家の中で、最も年少の私は男性の老人とともにリヤカーに乗せられたように記憶している。
その後、私は疲れと安心のためかリヤカーの上で深い眠りに陥り、翌朝までの記憶は微塵も無い。

6.翌朝早く、何処に難を逃れてきたのであろうか、周囲一帯の民家は丸焼けであった。
 何か“炊き出し“が配給されるとの知らせがあったのであろう、母は私を連れて配給の”炊き出し“をもらいに行ったように記憶している。
 母は私の手を取り、配給所を目指したものと思われるが、途中で黒焦げになった人たちの死体が至る所に累々と転がっているのを見た。
また、途中で電柱が焼け焦げて倒れ、電線が地を這っており、もはや電気など流れていないと思われたのに、母は前夜に体験した恐怖心からであろう、過剰な恐怖心から、電線を跨ぐときに「電気が流れているから注意して飛び越えなさい」と言って私の手を取り、それを飛び越えさせたと記憶している。
このとき、私は幼少でもあり、また前夜の地獄のような体験から、その電線が底なしの深い溝で、また恐ろしい得体の知れない何ものかが潜んでいるように感じ、その電線を飛び越えるのに筆舌し難い恐怖を感じた。そのときの計り知れない恐怖心は今でも忘れられない、身に浸み付いてしまっている。
因みに、配給された“炊き出し”の中身は、米の代わりに大豆を炊いた“おにぎり”であった。その味はと言えば当然ではあるが、ご飯のような味は全くせず、塩気のないまさに水臭い大豆の味であったことを記憶している。
それにしても今でも気掛かりになっているのは、空襲に遭った当日、私達はどの方面に逃れようとしたのか、という事である。
私達が住んでいた岐阜市沖ノ橋町は市の中心部から比較的に近く、またその西方向に位置している。従って市の中心部の反対にあたる西方向、長良川の左岸に沿うようにして鏡島方面(当時は稲葉郡鏡島村だったそうである)の郊外に逃れようとしたのではないかと思われる。
北の方面は長良川に阻まれ、また南の方面は岐阜駅や東海道線があり、東方向の市中心部と共に敵に狙われ易いことは容易に想像できる。
ところが、岐阜市の戦災記録資料によると、鏡島には高射砲台が設置されていたため、例外なくこの地域も米軍機により激しい集中攻撃を受けたようである。鏡島の高射砲台設備は軍事機密として一般市民には知らされていなかったのかも知れない。
空襲を受けた当時の避難経路はどの道筋を辿ったのか、そして空襲を受けた翌朝、配給の“握り大豆”を口にした場所がどこであったのか、またそんな危険な方面にどうして逃れようとしたのか、これを知りたく、両親の生前に聞いておきたいと思いつつその機会を逃してしまったのが心残りである。
鏡島方面(と思われる)が激しい空襲を受け、焼夷弾により家並みが燃え盛る光景、そしてその翌朝目にした焼け野原の光景を思い出すたびに、幼少であった私にとって忘れることのできない凄惨な体験をした記憶として蘇ってくる。

余談であるが、空襲の避難中にB29爆撃機がグウオーン、グウオーンと波のうねりのような大きな轟音をたてて襲いかかってきた状況の記憶がいつまでも私の脳裏に強くこびり付いていたのであろうか、その後成人に到るまで長年月の間、平穏な日々にも関わらず、民間のプロペラ飛行機がのんびりと空高く飛翔している時、私が幼少の時に体験した空襲の忌まわしく不吉な騒音を思い出し、一瞬不安な気持ちになり、体が硬直するように感じた。
しかし今ではプロペラ飛行機が飛翔する長閑かな騒音を何の抵抗もなく、やっと受け入れることができるようになった。

7.戦災に遭った直後のことである、それまで住んでいた沖ノ橋町の住所で仮住まいをしていた頃、母方の伯父が戦地から自宅へ帰る途中に軍服姿で立ち寄ってくれた。そして慰労の品であろう、花冠を形取った大きな砂糖菓子“落雁”を一つ置いていってくれた。これを子供たち皆で分け合って味わった。この菓子を口に入れた瞬間、舌にざらつく砂糖の甘さが口一杯に広がった。その甘さは今でも忘れられない。
罹災後しばらくの間、それまで住んでいた沖ノ橋町に掘立て小屋を建てて過ごしたような気がするが断片的で、茫漠とした記憶しか残っていない。またその後、母の郷里である揖斐郡谷汲村(現、揖斐郡揖斐川町谷汲)に仮移住をしたそうであるが、この期間は全く記憶にない。後日に家族からその話を聞いたが全く何も思い出せない。それは小さな子供にとって、余りにも残酷で恐怖に満ちた空襲の体験に対して、谷汲での長閑かな田舎の生活が私の記憶力を鈍らせたのであろうか。
その後、父の郷里、本巣郡根尾村(現、本巣市根尾)に移り、中学校までの平穏で多感な毎日を過ごすことができた。また家族には戦災による一人の犠牲者も無く、全員が無事で安穏な生活を送ることができたのは奇跡と言ってよいのかも知れない。

8.根尾に移住後、戦災の記念として父が岐阜市内から持ち帰った(破裂済みであろう)焼夷弾の残骸があった。村人たちはこれを見て、戦争の恐ろしさ、悲惨さを感じたのであろう、彼らの申し出によりこれを根尾川に架かった自宅近くの橋の上から捨てたことははっきりと記憶している。
岐阜市が空襲を受ける前に、これを予感させるような不安を感じさせる記憶もいくつか残っている。

9.恐らく名古屋の東山動物園であったのだろう。母は私たち子供と近所の知合い家族とともに動物園に連れて行ってくれた記憶が残っている。そこで、恐らく象であろう、私にとっては巨大で得体の知れない動物としか記憶にないが、その前で母たちが「動物園のこの動物たちは戦争が始まると逃げ出して人々に危害を加えるので近々殺されるそうだ」というようなことを話し合っていたのを朧気ではあるが記憶している。

10.岐阜市が空襲を受ける直前のある真っ昼間のことであった。偵察のためであろう、1機か2機(数は記憶にない)の爆撃機B29か偵察機が、グオン、グオーンと不気味なプロペラ音(轟音は鮮明に記憶している)を撒き散らして上空を旋回して飛び去った。その轟音を聞きつけ、私達は母に導かれて防空壕に飛び込んだことを覚えている。

11,名古屋市が空襲を受けたのは岐阜市の空襲より少し早い同じ年の3月であり、名古市街地の空襲が12日、名古屋駅が19日と記録に残されている。そして名古屋城の空襲による消失が5月14日であった。これら名古屋市に対する大きな空襲三件のうち、何れに相当するか明らかでないが、夜、岐阜市街の彼方、南方の空が一面真っ赤に染まり、大人たちは「名古屋が空襲に遭っているのだろう、岐阜も遠からず空襲を受けるのではないか」というような不安に満ちた立ち話を自宅の前でしていたのを記憶している。
夜、名古屋方面の南の空が一面に赤く染まっている状景を視覚としてはっきりと覚えている。
岐阜市が空襲に遭ったのは、名古屋市が空襲を受けた4カ月後(名古屋市街地と名古屋の空襲)、または2カ月後(名古屋城の空襲による消失)ということになる。
 名古屋市が空襲に遭ってから、岐阜市が空襲を受けるまでの二カ月、または四カ月の間、米軍は日本各地の数多くの都市を無差別的に空爆していた事実を成人になってから知ると、負け犬である我々日本人の虚しい敗北感を切々と感じたのも事実である。

戦前、家庭での平穏でほろ苦い、または恐ろしい思い出もいくつか記憶している
1.何歳の頃であったか、金魚鉢の中の金魚を掴もうとしたことを朧気ながら記憶している。金魚鉢に手を入れ、捕まえた金魚を机の上に置いたかどうかは記憶にない、また親に叱られたか笑って窘められなかったか憶えていない。ただ、私のこの悪戯に気付いた母が隣の部屋から飛び込んできたのを何となく記憶している。
いずれにしても鉢の中の金魚を素手で掴もうとしたことは微かに憶えている。戦災直前の冬の季節であったのか、水の冷たさが感覚として記憶を喚起しているのかも知れない。

2.戦前のことであり、上質なラジオなどあるはずもなかったが、当時我が家にあったラジオのケースは鉄板で出来ていた。当然その製造技術も進んでいなかったのであろう、電気がラジオケースに漏電しており、私がそれに触れた時の衝撃が今でも体の隅に残っている。またラジオの外観もうっすらと記憶している。

3.これも岐阜市内での出来事であり、しかも戦災の前であるから私が3歳か4歳の頃であった。
私は偶々家の中で一人だけであったように思う。真っ昼間のことであった。突然、大地を震わす轟音と共に家が激しく揺れ始めた。地震である。
私は驚きの余り、玄関口で泣き叫び、母が外から家の中に飛び込んできて私を抱きかかえて外に連れ出してくれたことを記憶している・・・ように思う。
しかし、この記憶は本当であろうか、それとも悪夢をみたのであろうか。または後日母から聞いたのを単に覚えていたに過ぎないのかも知れない。ただこれを後になって母から聞いた程度の話であればいとも簡単に忘れていたはずであるが、この地震に関してはどうしても私が実際に体験した記憶であるとしか思われなかった。
事実かどうかこれを裏付けるために、関係する資料で昭和20年前後の岐阜市における地震の記録を調べたところ、2件の大地震が1カ月の間を空けて襲ったことを知った。

その1 “昭和東南海地震”は昭和19年12月7日、真っ昼間の午後1時36分、震度5の大地震として岐阜市で観測されている。私が3歳8か月の時であった。
その2.“三河地震”は第一の地震が発生した1カ月余り後の翌年昭和20年1月13日午前3時38分、震度は同じく5であったようである。私が3歳9か月の時であった。
私が記憶している(と思われる)地震に遭ったのは天気の良い真っ昼間であった。これを考慮すると、昭和19年12月7日午後1時36分に襲った“昭和東南海地震”での体験を記憶していることになる。
それでは第2の地震について記憶が無いのはどうしてか、その理由は分からないが、ただ第1の地震に遭遇した時、私は家の中でただ一人であり、真っ昼間であったことを考えると、意識がはっきりしていた状態であったため、幼児なりに限りない恐怖を感じ、それを感覚として記憶していたのではないかと思われる。
一方、第2の地震に遭った時は早朝、午前の真夜中であり、私は熟睡、または朦朧とした意識状態であったのかも知れない。または家族全員がともに寝床に就き、家族に囲まれて寝入っていた、その安心感が恐怖の記憶を鈍らせたのではないかと思われる。
私の幼年時に体験した地震(昭和東南海地震に間違いないと思う)の襲来では余程恐怖を感じたのであろう。初冬、12月の長閑な晴れた日の真っ昼間に突然襲った轟音が伴う家の大揺れに私は玄関口でヒステリックに泣き叫んだように記憶している。そんな幼い時の私が今も自分の体の一部として私の体内にひっそりとうずくまっているような気がしてならない。母親が胎児を体内にそっと宿しているように、幼少であった私を成人した今の私の体内で愛おしく包み込んでいるような気分になることがある。幼児の頃の私の甲高い泣き叫ぶ声が成人した今の私の口から発せられそうな不思議な気分になるときがある。
何れにしても私達人間にとって、恐怖の体験は感覚的な記憶として消え去り難く、生き続ける限りいつまでも記憶に残るのではないかと思われる。
食べ物、そしてその味についてもいくつかの記憶が残っている。何れも戦前での記憶である。今の私はグルメ志向というよりもゲテモノ食いの傾向が強いのであるが。

4.家族全員が揃って散歩に出かけた途中でのことと思われる。レンコン畑(この場所も岐阜市郊外の鏡島方面であったのかも知れない)で、蓮の花が咲き終わり、実を膨らませ
始める頃であったと思われる。父であったのだろうか、蓮の実を剥いて私の口に入れたのであろう、その味は美味くもなく、不味くもなく、ただ今では不思議な味として舌の奥に
ひっそりと残っている。

5.槇の木の実であったか、濃い青紫色をした小粒の木の実を近所の悪童たち2,3人が私に「この実は美味いぞ、食べてみろ」と言われ、私は馬鹿正直にその実を口に入れ、噛ん
だところ、その苦さは飛び上るほどであった。悪童たちが大笑いしたのを覚えている。その苦い味は今でもはっきりと記憶に残っている。

6.台所にあった海苔瓶に、鹿肉を塩漬けにして、天日干しにした乾燥肉が入っているのを見つけ、これを盗み食いしたことを覚えている。これが見つかって叱られたかどうかは
覚えていない。ただ塩辛くはあったが鹿肉独特の淡白な味は今も忘れていない。

余談であるが、私が結婚してからのことである。知人から鹿肉をもらい、一部はすき焼きに(淡白過ぎて美味しいとは思われなかったが)、他の一部は珍しさと懐かしさから塩漬けと天日干しにした乾燥肉にして時々酒の肴にしていたが、あまり減ることもなく冷蔵庫の隅に長い間残されていたはずである。しかしいつの間にか女房がこれを処分してしまったようである。それに付いては女房を詰問しないようにしている。

7,戦前のある日、母に連れられて近くの田圃へイナゴ狩りに行った。イナゴ狩りでは、布製の袋の入り口に節の無い10センチメートルほどの竹筒を袋の中ほどまで入れ、捕ったイナゴをその竹筒から袋の中に入れるのである。入れられたイナゴは竹筒の端が袋の中ほどまで入っているので、袋に入れられたら最後、もはや逃げ出すことができない。
イナゴを入れる竹筒付きの布袋を思い出すたびに、獲ったイナゴを竹筒から入れる所作の愉快さが子供にとっては楽しかったのであろう、その思い出は今でもはっきりと記憶している。
当時は農薬もなく、イナゴが田圃の稲に大量に集っていたように記憶している。
捕ったイナゴは袋の中でしばらくの間生きたままにしておき、脱糞させた後に油で炒めて食べたように記憶している。当時のイナゴはカルシウムや蛋白質の貴重な栄養源として当たり前に食していたのかも知れない。
私(たち兄弟と妹)が母に連れられてイナゴ狩りをしたのはいつの頃であったか。私の年齢に適った記憶力、そしてイナゴが稲に集る季節を考慮すると、岐阜市が空襲を受ける7月の1カ月前であったかもしれないし、10日前、いや5日前であったのかも知れない。また、イナゴを油で炒めて食したのは岐阜市が空襲に遭う1日前、または当日であったのかも知れない。

これも余談であるが、私は大学入学から現在に至るまで大阪に居住している。何年か前に大阪・難波の炉端焼きの店に行ったとき、“イナゴ”とメニューに書かれた甘露煮らしき品があったので懐かしく注文して食したところ、かつてのイナゴの味は全く思い出せなく、ただ小魚の甘露煮と変わることのない味がしてがっかりしたことがある。
これまたまた余談ではあるが、最近の、くだらないテレビ番組(を見ていた)で、タイ国では有名な高級食材の一つとされる“コオロギ”の油揚げを食べさせる内容のものが放映されていた。某タレントが食前はいかにも汚らわしいものを口に入れる不安な様子を大仰に演じていたが、無理に食べさせられ、「ウマア!これメッチャうまいわ!」と、通り一辺倒の驚きを演じていた。
かつての日本人がイナゴを食するのを見た欧米人は同じような目で見ていたのだろうな、と内心納得したような気がした。

8,私にとって少々恥ずかしい思い出の一つである。母が家で作った“おはぎ”を近所に住む親戚に届けるよう言いつけられた。私は言いつけられたとおり親戚の家にこれを持って行き、“おはぎ”を届けに来たことを伝えると、その
家のおばさんは儀礼的に「そんな大層なもの結構ですよ」というようなことを言われたのであろう。私は「そうですか」というようなことを言って、これを真に受けて“おはぎ”を家に持ち帰ってしまった。帰り道に道草を食って、途中で“おはぎ”を1個か2個食べて帰ってきた。“おはぎ”を親戚に届けなかったことがばれたが、その件に関しては親から叱られたのか、笑って済まされたのかは記憶にない。ただ、私が“おはぎ”を家に持ち帰った後、暫くして親戚のおばさんが我が家に来られ、ことの経緯を母に伝えたのであろう、2人で大笑いをしていたような記憶が微かに残っている。またこの出来事を今でも思い出すのは、後日母から笑い話として聞かされ、それが記憶として蘇ってくるのかも知れない。しかし帰り道に、そっと“おはぎ”を口に入れた時のちょっぴり甘い小豆餡の味の記憶は間違いなく残っている。

9,これも戦前のことである。2番目の兄と私2人は遊びに出て迷子になってしまった。私たち2人は迷子になったことを自覚するとともに、一方で母や近所のおばさんたちは大変混乱し、探し回ったようである。近所のおばさんが私たちを先に見つけ、おばさんの家まで連れて帰ってくれた。
母は誰よりも混乱していたのであろう、家に帰ってくるのがかなり遅くなったように記憶している。それだけ母は必死になって私たちを探していたものと思われる。
また3歳か4歳の幼い私にとって、母の姿が無く、母がいつまでも帰って来ない不安な気持ちに絡ませて、迷い子になった体験を記憶しているのかも知れない(反って私は、母が迷い子になったと感じて心配していたのかも知れない)。
近所のおばさんは私たちを自分の家につれて帰ってくれ、そのときご飯を出してくれた。そのご飯にソースらしきものをかけてくれたが、そのときの“ソースめし”が美味しかったかどうか記憶にない。しかしそのソースらしき味だけはまだ記憶に残っている。

10,これも戦前のことである。母が私を連れて親戚を訪れた際に、コーヒーを出してくれたのであろう。大人たちは私にそのコーヒーらしき飲み物を飲ませたようである。そのときの私はよく散見されるように、乳幼児が初めて口にする異物に対して口を尖らせながら顔を歪めたような表情をしたのであろう、これを見て大人たちは微笑み交わした顔の表情を私は見たように記憶している。
あの時に飲まされた飲み物はコーヒーであったと今でも確信している。最後に、戦災に遭う前のことである。家族全員揃って散歩に出かけた時のことと思われる。当時は岐阜市沖ノ橋町に住んでいたので、岐阜高校近くの長良川畔の一水門ではなかったかと思われる。父は愛情の表れとしての所作であろう、「怖いぞ」と言いながら私を水門上で空高く抱き上げたのであろう。私は眼下、水門の深い底を見て心底怖いと感じた、その時の恐怖心は今でも記憶から消えない。
しかし私は父を決して恨んでいるのではない。むしろ父に対して尊敬の念を強く、深く感じている。アルバムに残された慈愛と家長としての自信に満ちた当時の父の写真を覗い見つつ、そのように感じている。
今この小文を読み返しているとき、ふっと思い出したことがある。それは、父の青年時代の写真、両親の結婚記念の写真、そして戦前の私たち兄弟や妹たちがともに写った写真などが戦災による焼失から免れ、かなり豊富に残されていることである。両親は戦災に遭うことを予期して写真や貴重品などを予め父の故郷に疎開させていたのではないかと思われる。
父は57歳で他界した。私は今78歳で今だに元気である。このギャップはどうしたことか。生きとし生ける者、生ける者に課せられた責務の一つは自分が生きていたことの証しを、そして私が関わって来た多くの人たちとの思い出を子供たち、孫たち、そして多くの人たちに知ってもらうことではないだろうか。そんなことを父から教えられたような気がする。
 一方、母についてはどうか。
 母は91歳まで生きて天寿を全うした、と思う。
私は高校時代から家を離れ、岐阜市内で下宿生活を送り、続けて大阪の大学に進み、大阪に住み付いてしまった。高校入学以来家族との生活は離ればなれであったが、家族の中で、取り分け母は他界するまで私の心の中でそっと寄り添っていてくれたように今も感じている。
太平洋戦争での空襲を実際に体験し、これを記憶に残しているのは我々の世代がそろそろ最後になるのではないだろうか。それだけに戦争の勝者、敗者を問わず戦争を体験したその悲惨さ、虚しさを生の口で次の世代に語り継ぐことが我々の責務であると私は考えている

橫田さんは、昭和16年4月、岐阜市沖ノ橋町3丁目でお生まれになり、岐阜空襲で住まいを失う。その後父の在所本巣郡根尾に住まい中学卒後、岐阜高校、大阪大学工学部、博士課程も終え工学博士。大阪大、国立高岡短期大学,
富山大学で定年を迎えられ、名誉教授に。現在はアジア鋳造技術学会会長を務められている。、




 
"学徒勤労動員で体験した火炎地獄"     田中 とみ子さん(岐阜市)

 岐阜県郡上郡八幡町の郡上高等実科女学校三年生だった私は、岐阜市内にあった倉敷紡績の寮に入り、糸つむぎの作業に従事していました。
 昭和29年3月9日東京大空襲を始めとして、名古屋、大阪、神戸など大都市はB29 の爆撃を受け「大被害を被った」と聞いていましたので、「その内、岐阜もやられるのではないか」と嫌な噂がささやかれていました。しかし「流言飛語は敵の謀略よ」と噂は忘れようと、私たちは16才の純真な乙女の血を燃やし,頑張っていました。

 7月9日深夜、一旦発令された空襲警報が解除され、「やれやれ」と防空壕を出て寮へ戻り、うとうとした途端、けたたましいサイレンの音に飛び起きました。あの忌まわしいB29の爆音が,不気味に辺りの空気を震わせていました。一機、二機の爆音ではなく、大編隊のようです。私は大急ぎでモンペを履き、防空頭巾をかぶり、非常袋を肩からかけました。「避難してください,早く避難してください」と慌ただしい声が駆けて行きます。私たちは大急ぎで廊下を駆け下り,敷地内の防空壕へ駆け込みました。
 そのとき、ものすごい地響きとともに防空壕が揺れ,出入り口に閃光が走りました。ヒューヒュー、ダダダダァーッという音が壕の周りを包みました。「ここにいては駄目」、一人が壕を飛び出すと、後は雪崩を打って外へ出ました。見上げた空には、低空で飛ぶB29の銀翼が炎で赤く染まり、黒い雨のように焼夷弾が降ってきました。アッという間に周りは火の海です。無我夢中でしたが,足は避難場所と決められていた加納西小学校に向かって走っていました。小学校は鉄道線路を越えて南へ500メートルほど行かねばなりません。

 同級生とは,すでに離ればなれ。両側の家は燃え上がり、電柱は倒れ道路を塞ぎ、逃げ道も,足の踏み場もない所を、「避難所に行けば誰かに逢える」という気持ちだけが,私を避難所へ走らせました。熱風が左右から覆い被さってきます。街路樹と街路樹の間を走り抜け、苦しくなると街路樹にしがみついて息を整え,また走りました。途中、私を呼ぶ金切り声を耳にしました。声のする方を見ると、顔を真っ黒焦げにして、前進裸で亡霊のように立つ女性の姿がありました。逃げる途中、衣服に火がつき,何とか衣服を脱ぎ捨てることができたのでぢょう。瞬間、「同級生の誰かだろう」という意識が頭をかすめましたが、私も自分自身、火の海から逃げるだけで精一杯。「すまない」とは思いましたが、足は止まりませんでした。街路樹の茂みで、妊婦らしい婦人を守るようにうずくまる家族がいました。「気の毒だ」と思った途端,私の防空頭巾に火がつき燃え上がりました。とっさに頭巾を取り、遠くへ投げ捨てました。走る道も火の海で、靴の下が熱く、つま先立ちで跳ぶようにして走りました。小川に沿って走る道路に出ました。火に追われて走る人は、次々に水に入りました。私も命がけで飛び込みましたが、幅1メートル足らずの小川の水は,お湯でした。
 右往左往と逃げ惑う人、人、人。もう全身焼けただれ、あっちこっちで折り重なって倒れ,地獄絵です。頭上では厭きることなくB29が乱舞し、焼夷弾の雨を降らしています。「同級生のみんなに逢いたい。避難所に行かなければ」そう思って必死で走る私の目に、避難所の門が見えました。

 生きていた喜びに抱き合う友の顔は、皆すすで真っ黒。焼け残った講堂に寝かされた友もいました。衣服はなく、全身焼けただれて息も絶え絶え。苦しさのあまり、突然立ち上がり、また倒れ苦しむ人もいました。
 夜も明け始めたころ、避難民に向けて戦闘機が機銃掃射で襲いかかってきました。「無抵抗な非戦闘員に、それも傷ついた我々に機銃掃射するとは。いくら戦争とはいえ---」釈然としない怒りが、亡くなった友へのともらいの気持ちとともに今も残っています。

田中さんはお亡くなりになりましたが、10年ほど前に、「ゆい遺言のようなもの」として、この文を残されました。、






田 光雄さん   名古屋市中村区名駅南2-3-2 CBM株式会社
      
         ”母の決断でで九死に一


日常化していた空襲警報
 その頃、私たち家族も夜になると、いつでも避難できるように、枕元に携帯食料や水筒の入っだリュックサックを置いて寝ていたものだ。
 ところが、空襲警報が鳴るようになって、最初のうちは、誰もが「それ大変だ」と大慌てで防空壕に入っでいたのが、やがて警報が鳴ることが日常化し、その上、空襲がない口々が続いていた。そうなると、次第に警報なんて当たらないとバカにするような気分になってくるものである。
 しかし、ついに私にとって生涯忘れることのできない恐怖に直面する日がやってきたのである。目付は、昭和20(1945)年7月9日、終戦の僅か1ヵ月余り前のことであった。

岐阜空襲の夜
 夜10時頃に警戒警報が鳴り、続いて10時半頃に空襲警報が鳴り出「しかものの「またいつものようにどこか他の都市が空襲されるのだろう」と高を括っていると、警報解除となったので、私はそのまま寝入った。
 ところがその日の真夜中近く、警報のサイレンが鳴らないのに叩き起こされたのだった。その時には、既に町の周囲は夕焼けのように明るく、爆弾が落下する音と、B-29爆撃機の轟音が鳴り響いていた。
 岐阜は130機程のB-29に襲われ、町の周囲には、あっという間に火災が発生したのだった。
 当時、米軍が日本の都市の爆撃に使っていたのは焼夷弾。所謂、今で言うナパーム弾で、直径1 5Cm、長さ120㎝程の金属製パイプに火薬と引火力の強い油脂を混ぜた6角形の筒が数十本入った弾倉が、爆撃機から投下された。 
弾倉は空中で開かれ、中に収容されていた焼夷弾がバラバラになって落下して、民家に直撃し、発火するのである。
 発火した油脂は、いったん火がついたら激しく燃えるため、木造の日本家屋などひとたまりもなかったのである。  
しかも、その焼夷弾を町の外周から中心に向かって投下していく戦法で、攻撃を受けた都市は、僅か数時間のう
ちに消滅していくのであった。

地獄絵図のごとき防空壕
 私か目を覚ました時には、既に岐阜 市の南方、岐阜駅方面は、真っ赤に燃 え上かっていた。私たち家族は一目散に家から50m程のところにあった公共の防空壕に避難した。
 防空壕の中には、近所の住民およそ30人程が避難していたが、おおかたが女と子ども、そして年寄りばかりだった。私たち一家は、学徒動員で名古屋の軍需工場に行っていた長兄を除く母と私、そして3人の兄姉のみ。
ともかくも母に連れられて防空壕に辿り着いたものの、実はそこはまさに地獄の人□だったのである。
 防空壕の中でじっとしていると、次々と焼夷弾が周囲に落ちてくるのが分かった。猛烈に家が焼け落ちる轟音は、防空壕の中まで伝わって来た。まるで火事の真っただ中にいるような熱さであった。
 私自身は、子どもだからそのような状況下でも、死ぬとは思わなかった。あるいは死ということが実感として理解できていなかったのかもしれない。しかし、その時、私は子ども心に人間が絶体絶命の危機に陥った時に、どうなるかということを知るのである。今、
思い返しても阿鼻叫喚、地獄絵図のようである。
 泣き叫ぶ者もいたが、同時に大人や年寄りたちがみんな、自然発生的に念仏を唱え、合唱しだしたのである。あの悲痛な祈りを伴った念仏は、今でも消えることなく鮮明に私の耳に残っている。
 やがて、B-29の爆音と火災の音て近くで響き始めた。それはもう、近くで火薬庫が爆発したみたいなひどい音だった。このまま、この防空壕の中にいても、輻射熱で焼け死ぬのは目に見えていた。
 かと言って外は火の海だ。どちらを選んでも生き残れる可能性は少なそうだった。

勇気ある母の決断
 その時、私の母は、防空壕を出る決断をする。 4人の子どもたちを連れ、当時34歳たった母が、独白で下した決断だった。そして、その決断が私たちの命を救うことになったのである。
 爆弾は依然として続いていた。シュルシュル・ゴーという爆弾の落下音と、バリバリと焼け落ちる家々の間を必死で駆け抜けた。見上げると、真夜中のはずの夜空が火災による炎で、まるで夕焼けのように明るかった。そして、その中を悠然と低高度を低速で飛ぶ、
B-29爆撃機の編隊。その風防ガラス越しにパイロットの顔が見てとれた程だった。
 必死に走っていても、火災による熱風が燃えるように熱く、洋服が焦げ付きそうであった。途中、防火用水の水を頭からかぶるなどして、燃え盛る火と爆発音の中を約1km程であろうか、懸命に走って、ようやく山裾に辿り着き、伊奈波神社近くから山に逃げ込んだのだ。
もちろん山に逃げても安全とはいえず、恐怖から逃れられたわけではなかった。
 私たちはそこからさらに標高200m程の山を1つ超え、梅林公園の近くまで逃げたのだった。何と恐怖に駆られて柳ヶ瀬から約4km以上を彷徨したのである。
 しかし、それで助かった。途中やっと一息ついて、山の中腹から眺めた岐阜の町は、9割程が火に包まれていた。私は今まで住んでいた岐阜の町全体が赤々と燃え盛るその光景を見て「きれいだな」と思ったことを覚えている。こうして悪夢の一夜は過ぎ、私たち兄弟は、母の直感的な行動によって九死に一生を得たのであった。

焼け跡の街に戻つで
 一夜を山中で過ごした私たち家族は、空襲による火災が鎮火するのを待って、昼頃に山を下りた。
 子どもだった私は、家に帰れると思ったのか、はしゃいでいたという。町の様子は、文字通り一変していた。岐阜の町は、全くの焼け野原となっており、遥か向こうまで見渡すことができるほどだった。
 家に戻る道中の景色は、それは悲惨なものだった。焼け落ちた建物がいまだくすぶり続け、街頭のあちらこちらに焼死体が転がり、大やけどを負った負傷者が、全く手当も受けられないまま倒れていた。
 私たちの家と店舗の一心亭は、影も形もなく、建っていた場所すら分からない有様であった。可愛がっていた飼猫のタマも行方不明、記念写真等もすべて灰になってしまった。
 私の子どものころの写真や、亡くなった父親が写った写真類も当然焼失し、私は父親の実物はおろか写真すら見ることができなくなった。ゆえに今でも父親の顔や容貌を全く知らないのである。また、後で知ったことだが、私たちが最初に逃げ込んだ防空壕に最後まで残っていた数名の方々が焼死されたらしい。誠に人の運不運というのは紙一重である。


<避難経路> ① 柳ヶ瀬の自宅(一心亭) →②若宮大通り(防空壕) →③橿森神社 →④水道山 →⑤梅林

成田さんは岐阜市柳ヶ瀬で出生され、明徳国民学校3年生在学中、空襲で学校も家業の食堂、自宅も失いました。戦後ほどなくして母親の実家の名古屋に転居、笹島中学、明和高校、南山大学に在学、母子家庭で苦学しながら、特に高校・大学ではラグビーに熱中されたようです。卒業後外資系の事務機器会社に勤務の後起業され50年、現在は代表権もご子息に譲られて取締役会長を務められている。最近社史『私の履歴書とCBM株式会社50年の歩み』を上梓され、それに書かれた空襲体験をお許しをいただいて書き込みました。






山田 弥寿子さん  養老郡養老町鷲巣1168-10

        ”帰ってこない妹と弟を探し歩いて”


昭和二十年、私は十七才の折空襲にあって、焼け出された。空襲警報が鳴り、焼夷弾が落ち始め、周りに火の手が上がり始めたとき、私は一つちがいの妹に七才の弟を連れて先に逃げるように言った。
 焼夷弾は真向かいの家々に落ち、すぐに大きな火の手が上がった。バケツの火で消せるような、生やさしい火の勢いではなかった。
 戦時中私達はこんな訓練をした。焼夷弾の火を消すために、バケツリレーとバケツの水のかけ方の練習をした。バケツの水をまくというのではなく、一度にドバッとかけて火を消す。今思えば、焼夷弾の火の手はバケツの水で到底消せるほど、生やさしい火の勢いではなかった。
 神社の境内に集まっては、バケツで消火訓練と、竹槍の使い方などを教わった。
 今思えば、何と愚かな訓練をしたものと笑えてくるが、竹槍の訓練などアメリカ兵は素手で立っているとでも言うのだろうか。兵は銃を持っているのに、竹槍や棒を手に飛び出せば、銃で先に撃たれるのが必定である。「撃ちてし止まむ」の精神、生命を惜しんではならぬ時代であった。
 周りの家が燃え始めた時、とても消される勢いではないのに気付き、父と二人で逃げることにした。その時私の家はまだ燃えていなかったが、火の手に囲まれて逃げられなくなると思い、父と二人で逃げることにした。
 私の家は県町にあり、新岐阜駅に近いところであった。始めは南に向き岐阜駅のある方に向かい、更に西の方角へ行くつもりであったが、焼夷弾が身近に落ち、火の粉をかぶることもあった。父が家々の軒下にある防火用水の水に自分の防空頭巾を漬け、その水で私の防空頭巾の火の粉を払ってくれたのを覚えている。
 駅方面に火の手が迫り、逃げる方向を西から東に替えて、火の粉の飛ぶ中を走った。
 当時の薬専(今の梅林中学)の運動場に着いた。そこは周りに火の気はなく、寂かな闇の夜であった。
 西の方を見れば、もう一面の火の海。私の家もその火の海の中かと眺めながら、朝までじっとしていた。
 明るくなり火の手も納まったので、家に戻った。すべてが焼き尽くされ、残っていたのは土台の石、神社(県神社)の手水鉢、境内にあった松の大木、あまたの樹木すべてが跡形もなく焼き尽くされていた。
 先に逃がした妹と弟が戻ってこないので、心配になり捜しに焼け野原を歩き、伯母の家が市民病院の近くにあったので、そこをめざしてまだ煙のくすぶっている防空壕や、道やらを歩き伯母の家にたどり着いた。伯母の家は幸い焼けていなかったが、妹と弟は来ていないということで心配になり、どこへ行ったのかと道を引き返しながら、道中の焼け残った防空壕の一つ一つをのぞき探し歩いた。夕方近くなって妹と弟が焼けとに帰ってきた。
 どこに避難していてのか聴いたところ、鷺山の亡くなった母の実家へ行ったという。
 何もない、食べるものもない一面の焼け野原、その夜から私達4人は亡母の実家へお世話になることになった。
 焼け跡の整理に父と私は、毎日鷺山から通い、そこにバラックのような家を父が建てた。

     
前略御免下さいませ
早速ながら十一月八日中日新聞にて「大垣空襲」の記事拝見いたしました。その中で、「岐阜空襲を記録する会」を知り、私もお仲間へ入れて頂けたら有難いと思い、原稿を送らせて頂きます。駄文ながらよろしくお願い申しあげます。
<2016.11.12>

 山田さんはの父君は県神社の宮司で、一家で住んでいました。県神社の玉垣などに、猛火の跡が残っています。






近藤 三千子さん   京都府城陽市寺田高田町7-4

        ”戦争だけは忘れてはいけない”



 私は昭和十一年十一月十六日岐阜市千手堂南町三丁目で、父日比謙二、母日比シゲの三女として生まれました。
 町内は右隣が小酒井さん、一・二軒おいて武藤さん、大きなオオムがいました。きれいな鳥でよく見に行きました。次にお友達の近藤みどりちゃんの大きな家は、我が家の前で、双子の男の子がおられました。我が家の左に道を挟んで大きな小屋が、奥に進むと江崎さんの大きな庭があり、一面にいろいろな木が植えてあり庭師だったと思います。その奥も何軒かあったように思いますが覚えておりません。
 我が家の前を少し下ると、左に井上酒屋、前を右に出ると大通りがあり小学校が見えます。酒屋の横を下ると昭和町通りがあり、店が並んでいたように思います。小さい時は江崎のおばさんに、田舎にイナゴを取りに市電に乗り連れて行って貰いました。当時は物がなく、炒っておやつでした。私は可哀相で食べれませんでした。
 昭和十八年四月岐阜市立木ノ本国民学校に入学し、しばらくは楽しく学校にみんなで行きました。担任は遠山雪子先生です。食べ物が少なくなり配給が始まった日がいつか覚えておりませんが、大人の方に並び買ったのを思い出します。
 父も各務原軍需工場に行き次第に戦争の声が近くなり、学校に行く時は防空頭巾を胸から肩にかけ登校、運動場で集合訓練です。ワラで作った人形に向かい一列に並び、竹槍で突く訓練です。警戒警報が鳴ると走って家に帰ります。夜は黒い布で電気を覆い、明かりが外に漏れないようにします。学校の西の方に軍需工場が並んでおり、姉も学校から皆さんと学徒動員で行きました。警報は昼夜関係なく、次第にきつくなりました。鵜飼で有名な長良川に架かる忠節橋までよく逃げました。
 
 空襲警報が多くなり昭和二十年七月九日午前十一時過ぎだったと思います。サイレンの音で防空壕に入りしばらくすると、敵機で暗くなったと思うまもなく光が飛びちり、恐さにおびえていたその時、前の家の外壁の上に雨のようなものが降ってきたと思うまもなく、火柱が降ったと思ったら一面火につつまれ爆弾の落ちる音とと重なり、敵機来襲です。恐さにふるえました。(父がお茶、燃料の商売をしておりましたので大きな小屋があり、その入り口近くに防空壕が掘って有りましたので、外のことがよくみえました。)
 逃げる人の声、音がかさなり、おびえました。少し静まった問に、父の声で外に逃げました。外は火の海です。道がふさがり、横道より大通りに出ました。両側の家が皆燃えている中を逃げました。
 母は妹を背に弟の手を引き、私と姉、おじいさん、おばあさん、隣の小酒井さんのおばさん、時ちゃん、皆んな手をつなぎ逃げました。横道の火の中を通り過ぎ小学校のある大通りに出てしばらく行った時、目の間に爆弾が落ち母の大声「伏せ」でみんな伏せ事なきを得ましたが、それからどうして走ったか覚えておりません。
 父が家を見とどけて遅れてきました。前に逃げる家族の姿を見つけ、胸をなで下ろしたと喜んでおりました。
 小学校の手前から横道を右に入ると畑があり、皆さんが火を消しておられる中防空壕に子どもを入れて頂きひと息ついた様にに思います。並んで水をかけておられる声が聞こえました。入れて頂いている内に少しずつ敵機の音も遠ざかり、外へ出ると一面火の海、全滅です。只ぼうぜんとしておりました。ひと休みしてから家を見に帰りましたが、火の海くすぶり続けており、ウサギ、ニワトリも亡くなっておりました。防空壕のあった小屋も消え、小屋を出た道に大きな爆弾の穴が有りました。戦争とは何も残らずきれいなものですね。友達も多く亡くなられたとあとで聞きましたが、名前は聞いておりません。 江崎さんの二人のお兄ちゃんも、戦争で亡くなられたと後で聞きました。

 その後、父の親類の大垣市の牧(まき)というところにしばらくお世話になりました。小酒井さんのおじさんは裁判所勤務でなかなか帰ることが出来なかった様で、マキ迠伺いにこらられ帰られました。
 その後、父、姉、弟で疎開させてあった荷物をリヤカーに乗せ養老の父の実家のあった親類迠運びました。遠く大変だったと思います。父の生まれ故郷養老は沢田です。バスで降りた時、あまりにも田舎で驚きました。疎開してから生まれた弟の正夫は、栄養状態が悪く亡くなり可哀相でした。悲しく家族皆泣きました。
 人の手に渡っていた父の実家の土地も、両親、弟のおかげで買い戻し広くなっております。疎開してからの家族は大変でした。姉も女学校に通学できず退学し可哀相でした。私は三年生の二学期から養老小学校に入れて頂きました。当時は疎開している子が何人かいたのですが、一人減り二人減りして私だけが転校生で残りずいぶん苛められ辛く悲しい思いをしました。面白がって物を隠すのです。悲しいことでした。
 当時は給食がなく食料も少なく、母がいない時は姉が汁だんごを毎日作ってくれ、おいしかったです。「おかゆ」を弁当箱にに入れ布でつつんで手にさげて持っていきました。何でも食べるだけうれしい事でした。
 真北側の堤防の近くを村の人達も開墾しておられ、その中に入れて頂き野菜を作り、肥料も買えず便所のくみとりを運びました。取れた物が弁当になり、サツマイモをよく持って行きました。皆もそうでした。
 学校から帰ると宿題をすませ、村の人が山の木を薪にして束にし、山から近くの道まで運ばせ、一束(一円)お金を下さったのです。その運び役に小さな細い体で(せた)という木で作った背負に一束ずつ紐で止めて背負い、道まで出すのです。おじさんがたによくして貰いました。ノートと鉛筆を買いました。
 
 家では父が早朝より多良村時村まで、坂が多く四・五里は有ったでしょうかお茶の仕入れをして、翌日大垣方面に売りに行くのです。家族の為とはいえよく働いてくれました。
 父の親類が近くにあり、良くして貰いました。お風呂に入れて貰うために、山に枝をひろい持って行きました。母も風呂敷に商品を包み、背に負い牧田方面に行きました。
 ある時、心ない人々が父の事を何か言われ様で、その時一人のおじさんがあの人の働きぶりが君達にまね出来るかと言われ、誰一人何も言う人がいなかったと言うことを人づてに聞き、父母に感謝しました。父は遠方に商いに行き事故に遭い途方に暮れましたが、養生のかいが有り、元の様に元気になりました。その後食料品の商売を始め、リヤカーを引き、弟も大きくなり皆で一生懸命手伝いました。
 牧田側の橋をを渡った牧田村皆様がお客様で可愛がって頂きましたが、大雨、台風になると木の橋が流れるのです。その時は、川の上に巾の狭い板で作った道が出来るのです。家族で品物をその板の道で運んだものです。その後バイバスが出来、商売も弟が自動車を運転して皆様に可愛がられ潤ったようです。
 多くの村の人達に成功者と言って頂き、涙したことを思い出しました。

 
戦争は多くの人に、悲しみ苦しみを与えます。 
 私たちは苦労の末に助かりましたが、いろいろな家族が有ります。孤児となった子、戦死された方の家族、傷痍軍人となられた方々、主人を亡くされ途方にくれた方々、戦争を起こした方々は結果はどうあれ満足でしょう。でも、その巻き添えに逢った人達は、只悲しみ苦しみを長い間背負い生きて行くのです。怒りのの心でいっぱいです。当然です。
 日本もあの時代に生きた人は少なくなります。今の若い人、戦争に遭ったことのない人は判らないでしょう。
 どうか二度と戦争を起こさないように願います。人間は苦しかったことは忘れます。それで良いのですが、戦争だけは忘れてなりません。心安らかに、今の時代を過ごしたいと存じます。
 戦争に反対します。忘れません戦争を。 <
2015.9.7記>



戦後70年の9月、京都府城陽市にお住まいの近藤さんから、次のようなメモとともに、手記を送っていただきました。
 「岐阜空襲を記録する会が有る事を知り、思い出したくない空襲を今一度思い出しながら書きました。よろしくお願いします。」




金岩 忠夫さん 本巣郡北方町芝原東町3丁目43

          艦載機グラマンの機銃掃射をうけて   被災場所:華陽国民学校運動場

昭和20年の4月下旬より、華陽小学校の講堂に予備兵?といわれる年とった兵隊(40才台)が居住し始めた。北舎1階は1年生、2階は私たち6年生であるため、「北舎北側や講堂あたりは行かないように」と言われていたが、掃除のため水道口を利用するため、兵隊さんたちと顔緒を合わせることがしばしばあり、彼らが上官に叱られるのをよく目にした。
 兵隊たちは時々,運動場の正面玄関前に重機関銃を置き、ベニヤ板で作った戦車をひもで引っぱられていくのに向けて射撃の訓練をしたり、手りゅう弾を投げる練習をしていた。

 この兵隊宿舎になっていることを米軍は知っていたようだ。
 昭和20年6月9日の第4限に運動場南の防空壕作業があり、昼食時間になるため,終わった班から教室に戻った。先生の指示でもう一度防空壕に行った時、サイレンが聞こえた。12時20分、空襲警報のサイレンと共に、学校の南東端にあって奉安殿の西側あたりから、米軍の艦載機グラマンのすさまじい音と共に機銃のバリバリという音がして、運動場の真ん中で腹這いになった私の2mほど前を砂けむりが西北の方へ移動した。顔を上げると操縦士の顔もはっきり見えた。グラマンが南舎西あたりで急上昇し、南へ機首を向けて飛び去った。一瞬のできごとであった。運動場には4~5人の児童がいただけであったが、全員無事であった。急降下して射撃をして、うまく校舎を避けて急上昇したのだろう。
 この体験は,私たち数人だけなのか。こうした証言が今まで何もされていない。人々にも知られていない。(グラマンの音は、ラジオでしっていた)


『岐阜県史』『岐阜市史』『火の海からの証言』『岐阜空襲誌』梅林小学校の『学校日誌』にも書かれていない、児童数人の体験談を記しておきたい。月日が確信もてなかったので
今まで記さなかったg、梅林小の学校日誌から日時に確信がもてたので記してみた。



金岩さんは、後華陽校区で空襲を体験、その様子を岐阜空襲を記録する会発行の体験記集『火の海からの証言』。」(1967年8月)に寄せられています。今回は、艦載機の襲撃を受けた体験記を寄せていただきました。






花井栄一さん(83歳)  岐阜市美島町二丁目十番地

             岐阜空襲の記憶  
                   被災時住所:岐阜市忠節町一丁目四十二番地

 昭和20年7月9日午後11時過ぎのことでした。私は空襲警報発令とともに父とともに自宅の大屋根の上にあつた「監視哨」に駆け上がり夜空を仰ぎ見ていまいした。下のラジオからは「敵機は伊賀上野付近上空を東北進中」と報じていました。と、同時に頭上でB-29爆撃機の低い爆音が聞こえ、暗い夜空に線香花火のようにピカピカと赤くて細かい火花が見えました。ラジオ放送の時にはすでに敵機は岐阜市の上空に飛来していたのでした。
 
 慌てて大屋根から駆け下り裏庭にあった防空壕の中に飛び込みました。その時点まで、空襲が爆弾か焼夷弾かは分かりませんでした。防空壕の中では、訓練で教えられたとおり目と耳を両手で塞ぎ、息を殺して着弾音を確認すべく一家が身を寄せ集めていました。
 間もなく東南方向の岐阜駅方面が明るくなつたので、これは爆弾ではなく焼夷弾だと確信し、頭上ではザアーザアーと雨が降り注ぐような音で落ちてくる焼夷弾の中を長良川畔へと逃げました。長良川の川の中や河原にはかなりの焼夷弾が落ちて燃えておりました。

 爆撃が終わつた頃、堤防まで様子を見に戻りました。その頃、岐阜の空は赤く染まり市内は一面火の海でした。自宅は長良川の堤防の下にあつたため自宅付近はまだ燃えていなかつたので、熱風が吹き荒れている中荷物を取りに自宅へ戻りました。一往復は出来ましたが二回目は危険だからと制止され、やむなく堤防に積んであつた丸太に腰掛け我が家が燃えるのを呆然と見ておりました。やがて家中に火が回つたのか屋根瓦の間からぺロペロと蛇の舌のような火が見えてきました。そして間もなく自宅全体が火に包まれて見えなくなりました。

 翌朝、堤防から南を見ると町内では1軒の家と1棟の蔵が残り、あとはまだ燃え燻つていました。遠望すると、岐阜駅のプラットホームが見えました。途中には十六銀行本店、丸物百貨店など鉄筋コンクリートの建物が焼け残つていましたが、あとは全て焼け尽くされていました。焼け残つた1棟の蔵も2~3日後に火をふき焼け落ちました。

平成25年8月15日記す










田村 昭三さん  滋賀県甲賀郡土山町北土山933-11

       
    母子の死体を掘り出す


 
当時私は17歳の少年にて、昭和19(1944)年10月1日に各務原の現在の航空自衛隊の場所にありました岐阜陸軍航空整備学校に入校し、翌年4月1日に陸軍上等兵となり、学校名も東海第564部隊と改名されました。
 当時は沖縄戦の最中にて、連日沖縄方面へ二度と生きて帰らぬ特攻機の見送りの日々でした。その後B29の大空襲やアメリカ軍戦闘機の銃撃等を受け、南にある三井山に逃げ込む有様でした。
 忘れもせぬ7月9日夜の岐阜市に行ったB29の大空襲は、各務原の我々の兵舎よりありありと望見でき、B29の焼夷弾攻撃により一晩中岐阜上空が明々と燃え上がっているのが望見できました。
 翌10日は早朝より非常呼集で営舎前に集合して、トラックの荷台に分乗して岐阜市へと向かいました。市内は一面焼け野原となり、生き残った人々が呆然と焼け跡に立ち尽くしておられました。我々は各班に別れて、当時の場所はどこか忘れましたが、消防団や近所の人々の指示で、死体の掘り起こし作業にかかりました。焼け焦げた死体が焼けトタン板の上に何体も並べられました。
 この場所に防空壕があったとの近所の人の指示で焼けた瓦土等を取り除くと、生き埋めになり焼けた死体が出てきました。ご主人は兵隊に行き不在で、奥さんの膝の上に防空頭巾を被った子どもの遺体が二体ありました。取り出してみると無残にも子ども二人の顔面は焼け焦げて骸骨となっており、また母親の座った上半身は焼けて無くなり見るも無惨な有様でした。思わず南無阿弥陀仏と両手を合わせて死体を取り出しました。
 何年たってもあの可哀想な母子の死体は忘れることができません。当日は一日中死体の発掘作業に従事して夕方帰隊しました。しかしながら当夜の夕食は無残な死体を思い出してのどを通りませんでした。
当日10日は、私の17歳の誕生日でした。
 現在は平和日本として国も繁栄し、平和な生活の明け暮れですが、当時、日本の各都市は悲惨な焼け野原であったことは、今の若者たちには理解できないと思います。
 我々は焼土の中から立ち上がって、現在の日本を築き上てきた一人と自負しております。後世に二度と悲惨な戦争が起こらぬよう語りついで行かねばなりません。






高木 慈興さん  岐阜市矢島町1丁目75

              岐阜空襲・防空壕・岐阜空襲以後


岐阜空襲
7月9日は、よく晴れた暑い日であった・
定刻に仕事が終わり、ぐったりして三三、五五、高山線沿いに岐阜駅方面に帰宅する我々は、東陸橋付近で異様なものを見た。駅付近の何本かある軌道の真ん中あたりで、一両の有蓋貨車が燃えているではないか。積み荷は何なのか、消防はどうしているのか、本気で
消す様子もなく、数名の人が、バケツの水を掛けていたが、かけると別のところから火の手が上がる、という風になかなか消える気配はなかつた。「ハヨ消さな、空襲の目標になるガヤ。Jと心配する人もあった。本当にその通りになつてしまつた。その夜、空襲の第一弾は駅付近といわれているから、貨車炎上も無関係だったようには思えない。
  *今日に至るまで、この貨車炎上に言及した人はない、つまり空襲の時点で、貨車は空襲の目標になるほど燃えていたかどうか、と いうことだ。
10時過ぎ空襲警報が発令された、がラジオは四日市が空襲を受けていると報じ、ヤレヤレと胸をなでおろした。だがB29の爆音が一過すると、(記録に依れば)第1弾は、11時34分投弾されたことになつている。
  
「駅の方におちたぞお-」との声が、どこからか上がった。南の方が、ポッと明るくなる。グォングオンと複数の爆音が空を圧し、かなり火の手も広がったと見え、煙に覆われ、機影は全く見えない。雲間から、火の粉がバラバラと散って、ヒューンという音とともに落ちて来、地上でバーンと破裂する。それがどれほど続いたものか、騒然たる音に追い立てられるように、壕の蓋を開け、飛び出す。依然として回りは、ヒューンと高い音が渦巻いて、追い立てられるように、暗い裏口を潜る。「逃げるな、消火に当たれ。」いきなり塀越しに班長から怒鳴られた。スゴスゴと壕に戻り、蓋をした。ドオーン、パァーン、ヒューン、様々な落下音、家の倒れる音、相変わらずB29の爆音。壕の蓋をそっと上げて、覗いて見ると、南の空は沖天まで真っ赤な炎に満ちて、真昼の様な明るさ。
戸が開げ放っであるので、うちの中ははっきりとみわけられるほど明るいが、いつ焼夷弾が落ちてくるかもしれないので、怖くて、うちの中のものを取りに、飛び込むことが出来なかった。
投下音が一層激しくなり、隣の町内にも落ちた様子、「水、水」「ハシゴォ」と絶叫が聞こえる.金華山中腹に点々と火が見える。山にも投弾された、火に四方を囲まれた。庭一面煙が立ちこめ、いよいよ危険だ、誰が何といおうと逃げ出さねば、と覚悟した。ところがその頃からすこしづつ煙が南に流れ、薄れて来た。煙の切れ目から、東北東に悠々飛んでいくB29。弾倉の開いているのがハツキリ見え、焼夷弾が音もなく夜空に広がっていく。不謹慎だがキレイだ。まわりの煙がなくなり、家々がはっきり見えるようになった。
最後のB29が去った。(記録によると、10日の1時20分とのこと)しばらくは呆然として、うち中を見回し異常の有無を確かめ、南の空一面に燃え上がる、炎の幕を大人の人々と声もな<見上げた。もう物音も人声もほとんど聞こえず、静寂の中を、炎は燃え広がり、燃え上がっていく。
2丁目のMさんが焼夷弾の直撃を受けた、と連絡があり、2丁目まで出てみた。表通り、あちこちに人が固まり、ひそひそ話している.この町内は余り避難しなかった模様。南へ200米からは、一面の焼け野原。ほとんどの家は焼け落ち、所々勢いよく熾きが火を吹いている。そしてその火の原の先にはるか、丸物が黒く見え、窓という窓から、火を吹いている。
Mさんは老齢で避難するため、店先に腰を下ろしている、その膝の上に、屋根を突き破つた焼夷弾が直撃したとのこと、町内の内科医に担ぎこんだが、先ほど亡くなられたとのこと、言葉もなく帰宅して、何はさて一旦寝る。                -

朝目をさますと、かなり高く昇った太陽は、黄褐色でいかにも異様だった。空は高曇り、かなり大量のほこりが舞い上がったままなのであろう。
級友のKが来る。爆撃中心点が近いので、いち早く家が危険となり、まだ焼け残っていた金園町を東に逓げ、梅林から山に入って、金華山中を必死に逃げ回り、一休みして、ここへ来てくれたのである。朝食を共にし、学校を見に行こうということになる。
堤防の上は、荷物を抱えた避難者が一杯、呆然と立ちつくしている。道一杯にアルバムが何冊も散らばっている.所々煙りが燻って立ち上っている。そして焼け跡が、その特有の悪臭とともに遙か南、東海道線まで真っ平らに広がっていた。その中に焼けこげたコンク
リートの建物、土蔵、幸運な焼け残りの一軒家、などが点々とみられる。
学校は、夜間中学、理科校舎を除き、本館、校舎、誇堂、体育館全て焼失、グランド南半分は足の踏み瀕もない程、6角の焼夷弾が散らばり、その間を、ふとんやお釜を抱えた被災者が行き来していた。
なぜか、ここでKと別れている。
  *この日、巣南町に避難していた人は、B29は真上で弾倉を開け投弾した、と明言している。ここから岐阜市内まで約10キロであ る.
  *鏡鳥に高射砲陣地が出来たばかりであった。張り切ってずいぶん撃ったらしい。
   鏡島に投弾されるといけないので、もう撃たないでくれ、と村民が陣地に申し出
   て来た、と当時の将校Y氏は語っている.
  *本館の直前にこ、防空壕があった。我々が見たとき、かすかに煙が上っていたが、
   数名の方が、被災死したとのことであった。

防空壕
戦時生活のキーワードの一つに、「防空壕」がある。
つまりそれは爆弾弾の爆風から我が身をまもるものであるから、凹地であればよいわけだ
が、ついでに上を覆い、中の居住性をよくして、長時間の爆弾攻撃に耐え、かつ寝起きももここで兼ねようと、次第に大がかりなものになっていく。穴をほるだけなら、探さ1米、畳1畳もあればじゆうぶんなのだが、中には側壁を堅固にし、上も充分に土を盛り上げ、直撃をくらっても安全なようにした。
屋敷内の空地に作るのが当然であるが、狭いうちでは、畳を上げ縁の下を掘り下げ、上に板を渡して、壕のつもりになった・何より大部分の壕は、爆弾攻撃を予測して掘られていたので、焼夷弾攻撃にはほとんど役に立たなかった。
まず縁の下の壕は、家屋が炎上したとき、強い火力で一緒に燃えてしまった.例え家から離れていても、野中の一軒家ならともかく、隣家の家屋の炎上で、類焼した。中には、猛烈な火の粉が、僅かな隙間から乾燥しきった壕内に入り、可燃物を一瞬に燃え上がらせる。
火の粉が侵入しないように密閉すれば、中の人間は蒸し焼きになるか、窒息する。つまり、壕は焼夷弾攻撃に耐えられないものなのである。
伯母の妹一家は、金園町に居住していたが、舅を含め11人家族であった。12人目のご主人は、当時徴用で名古屋方面の工場に住み込んでいた。岐阜が空襲されたと聞き、ご主人は家族の安否を確かめに来岐、心当たりを探したが避難した様子がない。空襲以来3日間、ひょっとしたら、と焼け落ちた自宅の縁の下の壕を掘ってみたら、一家11人は、完全に作られた自慢の防空壕の中で、蒸し焼きになっていた。一人ひとりは完全に黒焦げていたので、火の手はかなり高温だったらしい。母親に抱かれ赤ん坊の頬に、割烹着の襟のレースが張り付いて焦げていた。「余り完全に作ったので、壕を信頼して逃げようとしなかったのがいけなかったのでしょうか。」とその場でご主人は泣き崩れた。
空襲の最大の対処法は、ひたすら逃げる事しかない、それも安全圏へ、だ。
私は中2の夏以来、公私とも11ケの防空壕を掘った。公私というのは、そのうち3ケが自宅の分だからである。第1の壕は、側壁が掘り放しだったので崩れて放棄、第2の壕は地下水が湧きだし池となって(ガマ蛙が住み着いた)これも敢えなく放棄、中3で作った第3の壕は、柱をしっかり入れ、市の指図で壊した天井板をふんだんに使って側壁とし、天井も梁をしっかり入れ、1米ほど土を盛り上げた。入り口も蝶番を使い、入り安くし、床 も付けて、中3が独力で作ったにしては上出来だった。
戦争が終わった秋、この壕を埋め戻すときの、辛く情けない気持ちを忘れることができない。

岐阜空襲以後
岐阜空襲は、市民を恐怖のドン底に陥れた。空襲前は、どうせ焼かれる、焼かれりやかえってサッパリする、とうそぶいていた市民も、警報が発令されると、いち早く貴重品を持ち夏布団をかぶって、堤防や河原に逃げ、群がった。
この退避で、印象に残っているのは、まず7月12日。夜半B29少数機が岐阜に飛来、白山、長森付近に投弾した。近所の人々と、忠節橋を渡り、北岸堤防上で、その火を眺めていた。小雨の夜で、溝旗町の火見櫓が印象的に浮き上がっていた。
7月28日夜も忘れがたい。大垣一宮が同時にやられた。四屋堤防上に避難していたが、東西の地平が、一面に明るく燃え上がっていた。「大垣がやられとるに。」低い声で誰か
が言った。「あのひときわ大きい炎が、大垣城やろな。」
やや遅れて、水道山の向こうが、ぼお-と明るくなった。一宮や、一宮がやられとる、と人々がざわめいた。当時10歳であった愚妻は、母に連れられて東の郊外に逃れ、池にはまって、回りの人々に助けられた。実家は丸焼けとなり、いわゆる羅災者になった。



 高木さんは日蓮宗現正寺ご住職。戦時下の岐阜中学生として学徒動員や空襲を体験され、このたびその様子を「大空の護り」としてまとまられました。その一部を掲載させていただきました。1944年8月岐阜駅を発った44歳の父親の遺骨を受け取ったのが1948年4月、レイテ島で戦死と。その「白木の箱」の中には姓名を記した白木の位牌のみ。レイテ戦の死者のほとんどは餓死またはゲリラのなぶり殺しだったという。「父の遺体はレイテに朽ちているだろうが、靖国にいるはずはない。その霊は、日蓮宗総本山の身延山にいるものと、私は堅く信じている」とも。









山本 寿満子さん 福岡市南区三宅1丁目16-27

        岐阜市も空襲を受ける

昭和20年7月9日、この日は岐阜市か空襲を受けた日です。7月に入って連日の空襲に備えての防空壕掘りに忙しく、兵隊さんに来ていただいて松並木の中に幾つかの防空壕を掘りました。ちょうど9日に完成の予定だったので、完成したら兵隊さん方に私達産業戦士が慰労の演芸会をして差し上げるということで、一週間程の練習期間がありました。わたしも一緒に入社した高井さんと二人で、五年生の運動会に踊った「空を仰いで」のレコードがあったことで安心して踊りました。

プログラムは歌あり、踊りあり、コントありで順調に進み、兵隊さんたちは涙を流さんばかりに喜んでくださいました。あと二つ程出し物が残っている時でした。ついに警戒警報が空襲警報に変わってしまいました。

今夜は情報が悪いとみんなが緊張し、訓練を受けた時の樣に掛布団を巻いて背負い避難し始め、防空壕を目指して懸命に走りました。気がついたら同室の仲間ともチリヂリになってしまい、友の名を呼びながら田植えの終わったばかりの田圃の中を膝までズボッ、ジボッとつかりながら夢中で走りました。

頭上を群れをなして敵機が飛び、工場が「バリッ、バリッ」と音を立てて紅蓮の炎を上げて燃えていました。わたしは被っていた布団を静かにあけて前方を見た瞬間、線路を隔てた向い側の家に焼夷弾が落ち物凄い音を立てて燃えだしたのです。それを見てわたしは「あつ ああ!」と声にならない声を出し、初めて怖い胸の動悸を体験しました。

左の方でも工場が「バリッ、バリッ」と、炎が狂った様に工場をなめ尽くしていきました。わたしは恐ろしさ震えながら姉の名を呼び続け、一生懸命に本荘の駅の方に走りました。その時堤防の方を見たら逃げ惑う人でごった返していました。

やがて敵は遠ざかり、工場の焼ける音も幾分衰えて来たようでした。それでもまだあたりは燃えている家々の炎でとても明るくなっていました。わたし達は一度は本荘の駅まで行ったのですが、またぞろぞろと工場の方へ重い足を引きずって帰ってきました。

大事務小の前まで来たとき、正面に寄宿舎の事務室の先生が立っておられ、
「何です敗残兵のような格好して---もっとしっかり歩いて---」と注意をされました。とわ言われても昨夜が楽しい演芸会だっただけに一層ショックも大きかったのです。舞台でコントをやった人の中にはまだ借衣装の軍服姿で居られ、わたし達もお化粧がはげたままでした。

 夜の恐ろしい出来事があったというのに、今朝の太陽はいつもと変わらす高く昇り、カンカンと照りつけていました。工場の中は製品の焼ける臭いがプンプン臭い、そんな中でわたし達は工場長や舎監の先生方のお話を聞き、家の近い人から順に帰宅が許されました。

岐阜県から来ているわたし達の外は、遠く長野県、新潟県、秋田県、山形県からこられていた人達が寂しそうにわたし達が帰るのを無言で見ておられました。わたしはこの二年余り遠く故郷を離れて来られ、この工場で苦楽を共にし、よき友となってくださったかたがたに、もう二度とお逢いで出来ることはないだろう、涙をこらえ深く深く頭を下げで無言のさよならを告げました。

岐阜のまちはすっかり焼け野原になり、まだあちこちに余塵がくすぶっていて、そんな中にも筵をかけられた焼死体のそばで肉親と思われる方が、悲しみをこらえておられる姿に涙が出ました。

わたし達関町(現関市)出身者八人は、かたまって変わり果てた岐阜の街を驚きと悲しみの心を抱いて歩きました。北一色まで来た時、ここからは美濃町線(柳ヶ瀬から関経由美濃町まで)が動いていると聞きほっとしました。


 
山本さんは79歳、これまでの自分史を「戦中戦後 わたしの歩み」(400字原稿用紙84枚)としてまとめられていますが、その中から空襲体験の部分を引用させていただきました。山本さんは関町立尋常小学校卒業の1943(昭和17)年、産業戦士としての第1回集団就職で岐阜市本荘の新興人絹岐阜工場(後に三菱化成岐阜工場となる)に入社、岐阜空襲を体験されました。ご主人の仕事の関係で福岡に移られたが、「望郷の念にかられて暮らすわたしのありのままの存在を知ってもらいたいと、ついペンを執りました」とお便りをいただきました。


 






奥田 郁子さん  羽島市江吉良町914


                焦  土                            
 
 昭和20年7月9日岐阜市は、一夜にして焼け野原と化した。毎日のようにどこかの都市が焼夷弾を浴びいた。各地で行われていた学童疎開への対策もなく。空襲の切迫した情報も十分に伝えられず、それ故大部分の市民は、家屋もろとも家財を失い、犠牲者に学童・用事が多かったと言われている。最後の最後まで、戦い抜くという信念であっただけに、戦争終結や敗戦が目の前になどということは考えもしなかった。
 
 「おーいそこの娘どこへ行く、そっちはダメだぞ」後ろで呼ぶ声、でも私は走った。軍需工場(航空機の部品)を経営していた父の元へと。住宅と工場は百米程離れており、当夜は学徒動員の任地(大牟田市の東洋高圧=現三井化学)より帰っていた兄に自宅を任せ、工場に行っていた父との連絡係に、女学生とはいえまだ子供のの私がなった。兄を迎えて久しぶりの賑やかな夜が修羅場となったのは、午後9時半頃からだった。
 警戒警報より程なく空襲警報となった様に覚えているが、父のいる工場へ二人の弟を追い立てるようにつれて行った。もうこの頃、工場地帯と住宅地の電車通沿いに、消防車が配置され隊員が何人もいた。
 工場の防空壕は大きく、壕の上に三枚重ねに鉄板が載せてあり、頑丈だと父はいつも自慢していた。弟を工員さん達に頼み、父より細かい指示をもらい、もう一度来るようにと言われた。二度目に父の元へ走っている時「おーいそこの娘---」と後から呼ぶ声。
 ヒュウーヒャアーと甲高い笛のような音が太く長く聞こえたかと思うや、焼夷弾がシャシャシャアーシャシヤーと斜めに落ちてくる。その時、目の前で直撃弾を受け、一瞬のうちに炎となった人の塊。消防車も直撃を受けて火を噴いていたから隊員の一人と思ったが、父には言えなかった。 
 「もう駄目だな、堤防の熊野神社の鳥居にみんな集まろう。お兄ちゃんにちゃんと伝えてくれ、気をつけるんだぞ」
 熊野神社は、長良川の外堤にある神社で、家から歩いて25分ぐらいの所にある。必死の思いで家に着き、兄の顔を見て大声で泣きながら、父よりの伝言を言った。兄は防空頭巾に手をやり、リュックサックが重くないかと労ってくれた。走る度背中を打つリュックサックが急に重く感じられ、うんうんと頷いたのだ。 
 母は少し前に、手術した病身で、あまり仕事が出来ず、兄と姉が色々な物を運び入れるのを防空壕で私は受け取っていた。もう近くに火の手が見えて来ており、壕の中まで煙が立ちこめ息苦しくなっていた。兄の指示で、手拭いを水で濡らしたものを口に当てながら、母と一緒に長良川の堤防へ向かったが、火の中を逃げていくような感じだった。動き回る兄と姉が、すごく立派に見えたのはこの時が初めてだった。
 焼夷弾がバラバラと家に落ちてきた様子や、防空壕に蓋をしてその上から土をかぶせ置いてきたことなど、そしてまわりがどんな状況だったかを、兄と姉は鳥居に凭れながら、父や私たちに説明してくれた。
 「やっぱりなー工場もあかなんだなー、このところ材料も来ずお手上げだったからな」
父と工員さんや兄との会話にも、私たちはただ無事を喜び合っていたが、長良川の堤防は火を逃れて集まって来た何千という人達の、大声で身内を呼び探し合うさまや、家族との再会を果たした安堵と、喧噪の中、輪郭のみの太陽とオレンジ色の空をぼんやりと眺めていた。
 叔父の家は岐阜市隣村の鏡島(現岐阜市)で、そこに落ち着き、焼け跡の整理に毎日みんなで通ったが、全くの焼け野原、はるか南に東海道線が見え、工場の煙突が、ぽつんぽつんとだけ。私は避難先での窮屈さも加わり、失った物への憤りや、惨めさに無口になり、また怒りっぽくなり、ぶつける相手は、弟たちに向かっていた。しっかり土が載せてあった防空壕も蓋を開けてみてびっくり、兄と姉が一生懸命に運び込んだ米袋も焦げて、米があたりにこぼれ、積み上げた生活用品もぼろぼろに焼け焦げて、使い物にならない物が多かった。
 隣の土蔵は、三日間燻りつづけ四日目に大音響と共に、火柱を上げて屋根が落ちたが、思わず耳を塞いで皆逃げた。欠け鉢やひん曲がった鍋を一か所に集める要領の悪さに、兄の怒声をあびたり、姉のあとをうろうろして笑われたり大変な毎日だったが、今思うと、兄や姉はもう完全な大人として行動していた。空襲から一ヶ月と六日で敗戦を知ったのだった。
 家族だけで正月をと、工場の焼け跡の隅に、10坪の住宅(バラック)を建て、父は復興へと日々頑張っていたが、ようやく工場と住宅を建てたのが罹災から1年後の7月初め。だが疲れきった母は、蒸し暑い最中の15日に、まだ家の中が完全でない一室で、私たち5人の息子・娘そして優しい父を残して逝った。
 - 今より54年前(1945年)のこの体験を、夢に何度も見るのだが、直撃を受けた人が、火炎を背にした凄い形相の不動明王になって現れたり、炎だけがなぜか真っ赤にに見え、手をつないで逃げた母の手の感触に、思わず目を醒まして手を合わせる。この体験もこの頃では、記憶が定かでななり、前後も怪しくなった自分自身がさみしく、今一度、振替って体験した此の事実を書くことにした。 
    鳥兎匆匆影のみじかき終戦日    郁子 

 送付させていただきました原稿は、俳句の仲間八人と平成五年より平成十五年まで、年2回第二十号まで出しておりました同人誌に、平成十一年八月(13号)に発表致しましたものです。
                                (奥田 郁子) 








川上 久枝さん   高山市桐生町1-53

    
水に浮かぶ火の流れ

 昭和二十年七月九日、私は十七歳。岐阜県立保健婦養成所第一期第一種の生徒として、昼間は司町にあった県庁舎の一室で勉強し、夜は指定寮生活だった。保健婦養成所第一種の私達は高等女学校を卒業した者、第二種は正看護婦の資格を有する者で、共に保健婦資格取得の為入学した仲間だった。寮は現在の岐山会館 (グランヴェール岐山)のあたりだと思う。敷地続きに村上外科病院があった。この病院は今は別の所にある。


 人間の脳は複雑多岐、忘れることも多い中で、絶対忘れない言葉もある。「九時四十分警戒警報発令、敵機は四日市上空を北上中」、とラジオ放送があった。鮮明に覚えている。警戒警報が発令されれば服装、持ち物の準備をし空襲警報で防空壕に入ることを訓練されていたから、防空頭巾と非常用品の入った肩掛鞄を枕元に置き布団に入った。暫くして村上外科病院が騒がしくなり、「退避々々」とか逃げなさい等と叫ぶ声がするので、外へ出てみた。

 駅の方向に火の手が上がり、敵機の爆音が聞こえた。「外へ出てはいけません警戒警報ですよ。空襲警報ではありません。」と舎監の杁本鈴子先生が寮の奥の方の闇の中で叫んでいた。敵機は駅へ最初の焼夷弾を落とし、岐阜市上空を大きく旋回しながら次々と落としたから少しの間に、三百八十度どちらを見ても真っ赤に火が廻ってしまった。「布団を一枚かぶって付いていらっしゃい」と叫んだ人がいた。又、外へ出てはいけませんと舎監の声も聞いた。一瞬ためらったが外へ出た。

 どちらの方向も赤くて火に囲まれてしまったからもう駄目かなと思ったが、火は遠かった。空にはB29の姿が見え火の玉が無数に浮いていた。頭上に落ちるはずの焼夷弾も真下から見ては落下速度がわからないから軽く浮いているように見えるが、地上に落ちて突き刺さるときはアッという間で、避ける事のできない速さであった。キュルキュルシュルシュルと落下音がする。焼夷弾は落下の途中で三十六ヶに分裂すると後で聞いた。空を見ると花火の様で美しかった。B29の爆音とシュルシュルは今尚、耳に残っているけれど、人々の泣き叫ぶ声や人を呼ぶ声の記憶はない。静かな町を人々は黙々と走った。

 私も布団ををかぶったまま一生懸命に走った。一緒に逃げてくださったのは山県郡出身の看護婦山崎さんだった。爆弾が落ちたら爆風で目玉が飛び出し、耳も聞こえなくなるから両手の人差し指、中ゆび、薬指の三本で両目を押さえ、親指で耳をふさぎ地面に伏せることが常識だったから、命がけで走っている時でもシュルシュルの度に忠実に実行した。爆弾と焼夷弾の区別を知らなかったのである。

 走り始めた頃は火は遠かったのに火は迫り、燃えている家の側を通る時は布団がなければ通れない位、熱かった。炎の中を走りながら、どこまでも火の海だったらどうしようと思っても、後ろを振り返るとやはりもう火の海になっていて引き返す事等出来なかった。山崎さんとはぐれたくなかった。南無妙法蓮華経、南無妙法蓮華経と大声で唱えながら走る人だった。禅宗と観音信仰しか知らない私には最初の「ナン」だけが聞こえるので、何でもいいから走りましょうと励まし合いの言葉と思っていたので近くで唱名をはっきり聞いた時は、おかしくて笑ってしまった。「よう付いて来てくれたネ、私は短距離の選手だったのよ」と山崎さんも笑った。

 焼夷弾の直撃を受け燃えている人を見た。「水をどんなにかけても火が消えないの」を側にいる人が泣いていた。なすすべを知らない通りすがりの者が次々と立ち止まりそして走り過ぎていく、私もその一人だった。この事は後々まで私を苦しめた。あの時、何もしなかった。何かすればよかったと。

 長良川の堤防に辿り着いた。堤防近くには畑と蔵が点々とあり、まだ燃えていない建物の近くには避難してきた人々でごった返し、人々がひしめいていた。低くて暗いところが安全のように思えて、暫くは布団にくるまって潜んでいた。さえぎる物がないのでB29は丸見えで、今までに見た事もない低空飛行であった。

 堤防の上へ登ってみた。火炎の熱気で熱く明るかったが、風はなかった。B29の旋回とシュルシュルは続き、すぐ側にいた人が突然悲鳴を上げた。”直撃弾だ”誰かが叫んだ。背中に火のついた棒状の焼夷弾が刺さり、狂った様にはね回って堤防から転がり落ち、数人の人がその後を降りて行き人垣で見えなくなった。危険を感じて堤防下の川原へ降りた。焼夷弾の直撃を受けたら絶対に助からない事実を目撃してしまったけれど、空を見上げると沢山の火の玉が浮いているのである。安全な所等、なかった。

 川の中にいる人も大勢いた。軍服を着た人がいて、水に入ってもこの場所は流される事はないよ教えてくれたので、浅瀬に入った。膝のあたり迄水に浸り布団を被って立っていたが、次々と多くの人が水に入ってくるので少しずつ前に進み、腰迄水に浸かってしまった。気が付くと、落ちてくる焼夷弾の他に火のついたまま流れてくる焼夷弾があり、そしてそれが次第に数を増して私達めがけて流れてくるのである。これは本当にこわかった。いつ爆発するかわからないと思っていたし、だいたいが火は水に消えるものと思っているのに水の中で燃えるのである。私が避ければ私は助かるが隣にいる人が死ぬと一瞬思ってるうちに、火は私にぶつかってしまった。さすがにキャッと声を上げた。軍服を着た人が近づいて来て、これは黄燐焼夷弾といって水では消えないこと、危ないから直接さわらずに若い人が前の方で協力して、アッチへ行け行けと、手で波を作り押し流しなさいと教えてくれた。片手で頭上の布団を支え、絶え間なく流れてくる火を水で押し流しているうちに思わず両手を使ったりして布団は裾の方から水を吸い、重くなってしまった。敵機が去り空からの焼夷弾は落ちてこなくなっても、水に浮かぶ火の流れ続いた。

 川原へ上がった。足がぬける様にだるかった。川原の石の上にずぶぬれの体を休め、空を見た。夜明け前なのに暗くはなかった。濡れた布団の端を絞り石の上に拡げ、死んでいるのか眠っているのかわからないけれど多くの人がごろごろしている川原で、全く無防備のまま長いこと眠った。不思議と恐怖感はなかった。学徒動員で船津高女から各務原の川崎航空機岐阜工場に約十ヶ月いた経験があり、今思えば十七歳でも銃後の乙女としての気丈さがあったのだろうか。

 堤防に登ってみた。敵機が去ってからも近くの家や蔵に新しく火がついては燃えた。この近くの人はもっと遠くへ避難したのだろう、この火災は消火するのではなくて燃え尽きて鎮火するのを待つだけだと悟り、眺めていた。冷え切った体には、火災の熱風が心地よかった。

 夜が明けてみると一面の焦土と化した岐阜市街は、ずっと遠くまでみわたす事ができ、焼け野原という言葉がぴったりの光景だった。唯一、高い建物の丸物百貨店が目立つ存在だった。忠節橋の少し下流にいる事がわかった。堤防の上は人を捜す人で混雑していた。布団を被って歩いていると、声をかけられて驚いた。
「飛騨の久枝ちゃん?布団に見覚えがあるの」と走り寄った人は、叔母の家のお針子さんだった。叔母は和裁を教えていて、布団は叔母の晴れ着で作った夏布団だった。救護班の腕章をした医学生が、けが人の手当をしていた。すごくかっこいいと思った。私も防空鞄の中から、三角巾と脱脂綿をどうぞと差し出した。黙って受け取ってくれた。その人は角帽をかぶっていた。

 夕方、まだ熱い焼け跡の中に入っていった。電車道は電線が焼け落ちて地をはい、踏まないよう注意して歩いた。驚いた事に、焼け跡には舎監の杁本先生と同級の山崎さんがいた。近くに幅二米位の堀割用水があり、その水の中に沈んで濡れた布団をかぶって熱風を避け、水面と布団のわずかな隙間から呼吸し、病院も寮も付近の民家も焼け落ちる中で一夜を過ごし生きているのである。信じられない思いだった。上司の命令がないのに勝手な行動は許されない時代だった。空襲警報が出ないうちに岐阜市は燃えはじめ、隣の病院の逃げなさい逃げなさいの声で飛び出してしまった私達寮生への監督責任もあり、又火のまわりが早く逃げ道がなくなってしまった事もあったのかも知れない。「命令を待たずに四散した貴方達が全員無事とは考えられない、申し訳が立つように私はこの場を離れなかった」と言われた時は素直に謝った。一緒にいたのは郡上のお医者さんのお嬢さんで寮生だった。二人とも目は充血し瞼は赤く腫れて、殆ど目が開けられない状態、顔全体も第一度の火傷位、のどが痛くて声は殆ど出なかった。

 行方のわからない者は確認の仕様がなく、戻った六・七人でバラックを作り泊まる事になった。木造の家が殆どだからよく燃えて柱一本も残っていない中で、レンガとトタンを拾ってきては小屋を作った。座る場所が出来た。焼土の何と暖かく清潔なことか。蟻一匹もいない完全消毒のバラックは、医学を志す私達に似合う素敵な空間だった。その夜は敵機もこないので何の不安もなかった。夜になっても丸物の窓は火を吹いていた。

 翌日、何処かの味噌屋さんの焼け跡で味噌が頂けると聞いて行って見た。私達の身長より大きな桶が焼けて家もない処に味噌が露出し、香ばしい匂いを放っていた。どこからか乾パンを持ってきてくれた人がいた。食物についての記憶は他に何もないから不思議である。道路は危なくて親戚の消息もつかめない儘、又どちらへ逃げたか行方のわからない寮生を待って、一日が過ぎた。夜雨が降ってきた。バラックは穴のあいたトタンを載せただけだから、布団の上に雨が降る。長々と寝る訳にいかない狭い所で寄り添ってもたれ合って寝ていて、ふと目を覚ました。焼け跡から拾った鍋や食器が布団の上に載って眠れない友人が、それを支えていた。よく笑う年頃だったのだろう、皆でおかしがって笑った。

 雨のお陰で大地が冷えて、焼け跡を安心して歩ける時がきた。案じていた叔母達の家へ行くのは今だと思って歩いた。県庁より少し手前で水道山を目標にしようと暫く歩いた所で、声をかけられた。従弟も全く同じ思いで捜しにきたという。叔母の家は堀端町全員無事、預かり物の婚礼衣装を手分けして背負い、ミシンを堀割用水に沈めて水道山へ避難したという。家財総てを消失しても明るく、持ち出した反物と婚礼衣装を全部呉服店へ返した心の美しい叔母だった。

 敵機はまだ来るかも知れないので、幼い従妹達と私は飛騨へ帰る事になって、翌日の汽車に乗った。非常時なので、多分岐阜駅で乗る人は、どこ迄かはキップが要らなかったと思う。罹災証明書という紙片は持っていた。下呂を過ぎた頃から何度も駅員が廻ってきた。岐阜駅で汽車に乗る時は全員が罹災者だったのに、気がついてみると、それとわかるのは私達四人だけで、好奇の目で見られているのだった。
                                            当時の新聞はどの様に書いたかわからないけれど米軍爆撃機B29百三十機が姿を現し、低空から焼夷弾が八百九十八屯が投下され市内八割が消失、十万人が被災したと後で聞いた。役場へ寄った。旧式の手動式電話が役場から自宅へ引いてあった。罹災から三日目、消息がつかめなかった者が帰ってきたのである。役場の人たちは大騒ぎをして迎えてくれた。家へ帰った私は暫く放心状態で、家の前を流れる高原川(神通川の上流)の水ばかりを眺めていた。

 保健婦養成所が再開されたのは八月のはじめ、加茂郡西白川村河岐(今の白川町)にある旅館封の県の保養施設だった。八月十五日の終戦の詔勅はここで聞いたのである。


  同時代の人が命をかけた戦争を、生きて幸せな者が語るのは不謹慎だと思っていました。
 「みんな大変だったのよ」位しか言わずに過ごした年月が、あまりに長くて五十数年。本当にこれでよかったのだろうか、今満七十歳を迎え、物を書く事も、人前で話す事も昔の様には出来ない自分をみて、始めて悔いを感じます。
  せめて戦争を知らない子や孫が、平和の意味を考えてくれる事を期待して、岐阜空襲を思  い出して書いてみました。(川上 久枝さん)    
                            







佐藤 信次郎さん  岐阜市京町1丁目(NHK岐阜放送局裏)で被災

          空襲体験の手記

 遂に来るべき時が来た。昭和二十年七月十日-詳しく云へば九日午後十時半より十日午前二時半までの四時間に亘り、B29約六十機の焼夷弾攻撃を受け岐阜市の殆ど全部が焦土と化し、京町の家も全焼して仕舞った。冬の衣類や、当座不要の家具家財など大部分は揖斐へ疎開してあったが、それでもまだ相当の身の廻り品や、ラヂオや時計や現金や夥しい書籍や、持出すべく用意してあったリュックサックの二つ三つを勝手道具等の生活必需品と共に、その一物をも持ち出すことが出来ず全部烏有に帰して仕舞った事は一つの「運命的な事情」のためとはいへ、それが自他共に許した完璧の防空壕であっただけにあきらめ切れないものがある。

 既に今日あるを予期してゐた私達は、四月岐阜へ帰ってくると同時に、裏の物置場にしてあった亜鉛屋根の下に、あらゆる場合を想定した可成り大仕掛けな防空壕を作り作り、万一家が焼かれても、この防空壕さえ残れば、当分此処で生活が出来る様にと構造上堅固であるばかりでなく、防湿、通風、採光の点にも注意し天井、壁にはベニヤ板を張り、棚には花器を置き、席掛の一幅すらかけられる様な心遣ひまでしてあったのだ。遮光設備が完全なので警報中でも煌々と電灯を照らし、お茶でも飲みながら悠々とラヂオが聞けるといふ調子で、ウチの防空壕は壕といふには似つかわしくない程完備したもので、隣り近所でも評判になって居り、今までも警報が入ると隣り近所から大切なものを運び込んで来るといふ有様だった。

 その夜も警戒警報が発令されると同じ町内の泰子が赤ん坊を連れて来たり、三四町離れた野坂氏の細君が三人の子供を連れて駆け込んで来るなど可成り賑やかだったが、空襲警報に移ると間もなく、虫が知らせたのかこの人達を長良方面の安全地帯へ退避させて肩の荷を一つ下ろした様に一安心していると、そこへ全く予期もしなかった「運命的な事情」が突発したのだった。
 それは隣家から明日入院するために泊まりに来てゐた知合いの重病人を擔ぎ込んで来た事である。否も應もない、あっといふ間に壕の中に擔ぎ込んで来て、あっといふ間に敷いてあったウチの布団に寝かし込み、あっといふ間に、お願いします一言も言はずに呆気に取られている私達を尻目に壕から飛び出していって仕舞ったのである。文句をつける隙もない。結局お隣りサンは最後まで顔を見せずこの病人を私達に押付けて何処かへ雲隠れして仕舞ひ、そして結局そのためにこの完備した防空壕の入り口に土を被せることが出来ず、焼かねばならぬ事になり、そして結局、愛蔵のエルヂンも、自慢のラヂオも、先月末貰ったばかりのボーナスも何も彼も一物をも持ち出すことが出来ず防空壕と運命を共にすることとなって仕舞ったのである。―
――が兎も角、その時私達は途端にすっかりユウウツになって仕舞った。お隣サンの知り合いといふばかりで元より一面識もないその夫婦、明日をも知れぬといふ重病の男は、青ぶくれた様な顔を苦痛に歪めながら濁った眼であらぬ方を見つめているし、その付添いの細君が中風のため半身不随で自分の身一つさえ自由にならぬ上に、永の看護疲れの故意かヒステリカルな不愉快な顔をして一言も口を聞こうとはせず押し黙っている。この二人に防空壕を占領されて、私達は片隅に小さくなってウンザリしてゐた。
 いつもならば時計や財布はポケットに、その他の貴重品は雑嚢に入れ、鉄帽とと共に肩にかけ颯爽とし防空服装で待機してゐるのだが、その夜はそんな気持ちにもなれず、まさかといふ油断もあったがただイライラしてこの疫病神の様な病人と顔をつき合わせてゐた。

 ラジオは四日市攻撃中を報じてゐた。その時私は状況偵察のために二階へ上がって窓から南の空を見ると、近い!岐阜駅から加納の辺りが真っ赤に燃えてゐる!大変だぞと取って返へして階段を玄関まで駆け降りた途端、家の棟を擦る様な爆音と、つんざく様な焼夷弾の落下音と炸裂音、--瞬間、家の中が真っ赤に明るくなった。

 素破!靴を穿く暇もなく防空壕に転がり込んだ。「来たぞっ!」と叫ぶのと、電灯が切たのと同時であった。再び身を翻して真暗の防空壕から飛び出して見ると、既に東隣の三軒長屋、西側の京町町筋、北側の愛盲寮方面、周囲一帯に火の手が揚って居り、屋根といふ屋根、空地といふ空地に火の塊が降りそそぎ折からの烈風に燃え上がり、燃え拡がり最早手の下し様もない。まさ子と子供達も同時に防空壕を飛び出してゐた。初期防火に敢闘するつもりかバケツを手にしてゐたが、この状況では最早何とも処置なしである。
 町内の凡ての人達はみな退避して仕舞った。

 まさ子と子供達は東の三軒長屋の火焔を背に、唯一つ残された活路、南への露地の南に立って、「父ちゃん逃げよう--一緒に逃げよう!早く早く--」と促してゐる。
 猛火、猛火、火焔の怒涛であり、火焔の烈風である。今にして逃げ得なければ焼死あるのみである。
然るに、嗚呼如何にせん!この壕には二人の病人が居るのだ。「この壕に居ては危ない.逃げて下さい---」と幾度か奨めた。けれど身動きも出来ない重病人と、自分の身一つが漸くの半病人に何としてこの猛火の中が逃げ得よう。しかし、この二人に係って居ては自分の生命が危ういのだ。

 (一面識もないこの二人を見捨てて逃げたとて、私たちにはなんの責任もない筈である。しかも半病人とはいへ付添い人が居るのだ。その人が何とでもすればいいではないか。大体この二人を無理矢理に押し付けたお隣利の人が、何とか処理すべきなのだ。責任は当座お隣の人が負ふべきなのだ-)とは思ふものの。みすみす焼け死ぬであろうこの二人を猛火の中に残して私たちのみ逃げる事は、人情としても出来ることではない。一刻を争ふ危急の際、私の心は千々に乱れた。

 まさ子や子供達は半狂乱の様になって地団駄を踏みながら私を待って居る。が遂に私良心は叫んだ。(たとえこの身は焼かれようとも、この二人を見捨てることは出来ない)と。そう決心すると「先に逃げよ!」と家族のものに云ひ捨てるや真暗な防空壕に飛び込んだ。何うして外まで助け出したか、今思へば無我夢中であったが、兎も角隣に下宿してゐた学生にその病人を背負わせ、付添いの細君と共に美江寺方面に退避させる事が出来たのであった。が、既に周囲は炎々と燃え盛り、入口の鉄扉を閉めるのが精一杯で土を被せる暇さへなく、僅かに身をもって火煙の中を潜り脱け、漸く公会堂(今の市民会館)の付近まで逃れる事が出来た。

 が、見ると風上の県病院(今の岐大病院)図書館、郷土館、美江寺仁王門等の火勢が参道と道路を越して南側のプラタナスの並木に物凄い勢で吹き付けて居るし、今小町の電車通りは仁王門以遠、紅蓮の焔に包まれて見透すべきもない。
 南も西も家並みのある所一面の火で、殊に風下であり、到底逃れ得る途ではない。此処で全く進退極まって仕舞った。
 仰げば空を覆ふ渦巻く煙、この煙の空に、無数の火の粉が烈風に吹き飛び、吹き散り、火の星の如く、火の雪の如く、天上天下、火ならざるはなく、煙ならざるはなく、正に火焔の世界、焦熱地獄の恐ろしくも美しき風景である。

 右すべきか左すべきか、一瞬立迷ふ頭上を、火煙のため姿も見えぬ怪鳥の唸りが襲うよと見ると、白熱の閃光と共に焼夷弾落下、炸裂-「アッ!」と叫ぶと一緒に美江寺小公園の入り口にあった、未完成の防空壕の穴へ転がり込んだ途端、二米と隔れぬ所に一弾落下、炸裂と共に油脂の火団が雨と注ぐ、引続いて息つく間もない程、敵機の来襲が続いて、一寸も動くことが出来ず釘付けとまったまま、火の雨の洗礼を受けて居た。
 気が付くと冠った鉄帽の外に、どういふつもりで持って出たのかも一つ鉄帽を持ってゐたので、その鉄帽で肩の辺りを覆ひ、この二つの鉄帽で全身守る様に、出来るだけ身体を縮めて降って来る火の粉を防いでゐ
た。

 こうした必死の間にも気懸りなのは家族の安否である。私より何分か早く脱出しては居るが、この周辺を嘗め狂う火勢の中を何処へ無事に逃れ得ただろうか、煙に巻かれ焔に包まれて三人とも悶絶したのではあるまいか、或は誰かが火傷でもして他の二人が負い抱え漸く安全圏内に逃れ得てでも居るだろうか不吉な予感、連想、---不安は募りつのって心を痛める。
 また自分もこのまま此処にこうして居ては直撃を受けるか焼死するより他ないと思ったので、敵機来襲の合間を覗って素早く傍の公共待避壕に移った。

 壕内には約二十名ほどの人達が闇黒の中に蠢いて居たが、刻々に加はる熱気のために油汗を流し、烟にむせながら、或る男は利己的な叫びを揚げ、或る女は子供のひきつけに気も顛倒し、或る者は熱気に耐え兼ねて猛火の中に飛び出そうとするなど、恐怖と絶望の底に呻吟して居た。この壕の入り口は幸い風下に面して居り、火の粉や煙が真正面から吹き付けないので安心していたが、やがてこの入口も、熱気のため枠の廻りがパチパチと音を立てて燃焼しかけてきた。ここに燃え移っては万事休すである。私たち二三名で猛火の中を挺身し、付近の貯水槽の水を例の鉄帽で汲み出し注ぎかけ消火に敢闘して、漸く入口を守り抜いた。

 又時々この入口から、吹き荒ぶ焔の暴風の中へ半身を乗り出し、「今、医師会館が燃えてゐる。仁王門は焼け落ちた。教育会館の窓から火が噴き出したがこれは鉄筋だから、建物は大丈夫だ。公会堂も、警察署も無事である。燃えるものは大方燃えて仕舞った。もう大丈夫だ。もう暫しの辛抱だ。我々は助かるぞ---」と壕内の人達を励ましながら攻撃が終わるまでこの壕で頑張ってゐた。

 その時火は美江寺本堂に燃え移ってゐた。既に伽藍の内部を焼き、天井を焼いて、屋根の中央から焔が噴き出した。時を失った鳩の群れが明るく焼け焦れた空に舞い上がり、本堂の上を飛び迷ってゐたが、その本堂の焔の中から突如背中に本尊を背負った男が阿修羅の様に飛び出して来た。そしてその本尊を小公園の待避壕資材の材木に持たせかけると一心不乱に貯水槽から水を注ぎかけ、遂にこの国宝、等身大の木彫、三十三面観世音菩薩を守り通したのであった。

 斯くして敵機の来襲は熄んだ。火勢も漸く衰へ、やがて暁が訪れた。煤けた太陽が伊奈波山の上に真赤に姿を現し、焦土となった岐阜の街を照らし始めた。私は焼け残ったパーゴラのべンチの上に、煙のため痛めた目を閉じてジッと横になって居た。昨夜からの出来事が悪夢の様に思い出され、生命を取りとめた自分が夢の中の自分の様に思はれ、極度の疲労と困憊に空虚の様になった私の頭は、まだハッキリせず夢と現実との間を彷徨して居た。いつの間眠ったのか目が覚めて見ると、もうすっかり朝になってゐた。
 あヽ、助かった!そう意識すると共に、いきなり家族の安否が、不吉な予感が、頭一杯に拡がって来た。若し幸に無事であったなら、或はもう焼跡にでも帰ってゐて、却って私の事を心配してゐるかも知れない-そう思ふともうジッとしてゐられなくなったので急に身を起こすと、急いで焼跡へ行ってみた。

 焼け崩れたポーチのコンクリートや、風呂場や台所の煉瓦積に依って僅かに我が家の跡と見分けはついたが、まさ子や子供たちの姿は見えず、住み慣れた我が家は、あはれ跡片もなく焼け失せて、松や梅や銀杏が炭の様に黒焦げになって物の怪のように立ってゐるのみである。又、裏庭の防空壕はあの「運命的な事情」の結末を見せつける様に無惨に焼け落ちて、崩れた覆土の隙間からあきらめ切れない余燼がブスヌスと焼け燻ってゐた。家族を失ひ、家を失ひ、一切のものを失った悲嘆とも後悔とも形容の出来ない感情に襲われたまま、私は只一人呆然としてその焼跡に立ってゐた。

 町内の人達もそろそろ集まって来た。別れ別れに逃げた人達も、この焼跡邂り逅ってお互いの無事を喜びあってゐた。まさ子や子供達は未だ帰って来ないのだ。
 町内の人達もいろいろ心配して呉れたが、何人とも致方ない。そこへ揖斐から自転車で高橋氏が駆けつけて呉れたので早速心配して探して貰ったが、これ亦徒労に終った。半ばあきらめて、握り飯の配給を受けなどして焼跡へ帰って来ると、「奥さん達が御無事で帰って来られましたよ---」と町内の人が渾んだ声で告げて呉れた。
 十時頃の事である。


 この手記は故佐藤信次郎さんが日記風に雑記帳書かれたもので、1945(昭和20)年7月25日の日付が書かれています。岐阜市京町1丁目、佐藤和子さんか保存されていました。
 
 佐藤さんの経歴は、次のようです。

 1898(明治31)年6月 東京・京橋に生まれる。1917(大正6)年6月 工手学校(現工学院大学)建築家卒業。1924(大正13)年6月 岐阜市において建築事務所創設。1951(昭和26)年5月 1級建築士。1962(昭和37)年10月 株式会社協和設計事務所所長となる。
 
柳ヶ瀬の丸物百貨店の建築などを手がけ、戦争中は各地の飛行場建設に走り回っておられたそうです。



   



村田 秀雄さん   犬山市五郎丸二タ俣1-64

心に残った空襲の怖さ




 戦後50年、これだけはどうしても後世の人々に言い残して戦争の悲惨さと人類の愚かさを知って貰い、絶対に戦争のない平和な世界の継承を監視続けて欲しい願望に駆られて、この一文をものした。
 
 昭和20年の夏には私は岐阜市の繁華街柳ヶ瀬に近い玉森町に住んでおり、川崎航空機工業㈱(現在の川崎重工業)の田神疎開工場(当時の大日本紡績岐阜工場)に勤務していた。岐阜空襲の日は夜勤で、夕食後、警戒警報のラジオを聞いてから徒歩で十数分の工場に出勤した。暫くすると空襲警報に変わり、工場長と私、それに4名の配属将校の6名を除いて全員が近くの水道山に避難した。

 今夜あたり岐阜がやられるのではないかと話し合っていたら、B29の爆音が聞こえてきたかと思う間もなく、ザァーッという焼夷爆弾が頭上をかすめる音に続いてドドーンという爆発音が盛んに聞こえるようになった。早速屋上に設けられた監視哨に駆け登って市内の方を眺めると、もう火の海で、私の家のあたりも火災に包まれていた。家には両親と妹がおり、うまく逃げてくれたかなぐらいに考えていた。私自身も今ここに落ちてきたら死ぬのだろうなと軽く考えていた。戦争末期の殆どの国民は、本土決戦になったら、どうせ死ぬ運命という覚悟が知らぬ間に出来ており、死の恐怖は薄れていた。今、オウム真理教のマインドコントロールが問題になっているが、日本全体が命を軽視するよう洗脳されていたかとおもうと、独裁全体主義の恐ろしさが改めて思い知らされる。21世紀にはこんなことが絶対に繰り返されないよう、絶えず監視をするように頼みますよ。

 2時間ほどして敵機は去り、夜が明けて帰宅してみると、家はスッカラカンに焼け尽くされ、庭の防空壕の中に疎開した家財類の殆ども焦けて使い物にならず、飼っていた数羽の名古屋コーチンは丁度よい丸焼けになっていた。

 両親は金神社の防空壕に30人ぐらいの人と避難していたが、大阪弁の男の人に「もうここを出ないと危険だっせ」と言われ、そこを出て近所の協和銀行に入れて貰い、シャッターを閉めて命拾いをし、私より先に家の焼け跡に帰っていた。

 妹は夕方近くなってフラーッと帰ってきた。六角焼夷弾が雨あられと降り注ぐなかを「ナンマンダブ、ナンマンダブ」を唱えながら、岐阜市の西端の市民病院付近の麦端まで逃げて助かった。途中、すぐ前を幼児を載せた乳母車を押して、赤ん坊を背負ったお母さんが走っていたが、お母さんの肩に六角焼夷弾が直撃し、「ギャッ」と叫ぶと同時に、道路脇の溝中に乳母車もろとも転落していったのを横目で見ながら逃げつづけ、全く生きた心地がしなかったと話してくれた。水道の水は出ていたので、丸焼けのコーチンを齧りながら死臭ただよう夜を明かした。

 両親が一旦は入った金神社の壕には頬がほんのり桜色の窒息姿態が30人ほど折り重なっていた。大阪の人の忠告を聞かなかった人たちに違いない。近所の真鍋産婦人科の2つの防空壕には、生まれたばかりの赤ちゃんをしっかり抱きしめた2組の母子が静かにベットで窒息していた。また近くの豆腐屋さんの壕には焼夷弾が直撃し、首から上は鼻も口も目もない赤黒い球がついて手足は桜色の10体ほどの死体を、兵隊がきて一体ずつ抱きかかえるようにして壕から運び出していた。

 南は国鉄岐阜駅から北は伊奈波神社あたりまで一望できる焼け野原で、丸物百貨店と商工奨励館のビルだけが聳えていた。

 翌々日の夜に警戒警報がなり、空襲警報に変わった。冷静に考えれば、こんな焼け野原に爆弾なんか落とすはずがないのに、この二日間に知らぬ間に、心底に恐怖感がしみついたのか、爆弾が自分の頭上に落ちてきそうな気がして、忠節橋を渡って、島地区の桑畑の中まで命がけで走り続けた。警戒警報となりおもい足を引きずって西野町の電停付近まで帰ってくると、高さ2米ばかりの壁にぶつかった。近寄って闇明かりにすかしてみると、焼死体の山と判り、ぞーとするまもなく、公会堂の前まで来ると、今度は足にぶつかるものがあった。見ると小学生ぐらいの背を丸めた焼死体が1体転がっていた。こんな所へ親たちとはぐれて迷う込み、只一人で焼け死んだのだろう。目頭が熱くなった。このような悲惨な光景は50年たった今でも脳裏に焼きついている。

 戦争末期では、義捐金など思いも及ばず、救援物資などあるはずもなく、敗戦直後の無警察状況につけ込んで、専売公社や味噌会社の焼け跡から塩や味噌を略奪し、製麩工場で焼け残った澱粉粕を頂いたりして半年ほど防空壕内で命をしのいだ。人間の脂の焼けたあの嫌な死臭がその後3年ほど市内に満ちていたが、そのうちにその死臭もうすれたある夏の日、梅林公園付近の道路に戦後最初のアイスクリーム屋ができた。何年ぶりかで味わうアイスクリームの薫りと味を噛みしめながら、平和のよろこびに浸ったことfだった。




終戦後五十周年の平成七年に愛知県が募集した終戦五十周年記念戦争体験記「草の根の語り部たち」に応募しましたところ、小生の「心に残った空襲の怖さ」が採用されました。愛知県全体で二五七人の、犬山市だけでは六人の貴重な体験談が集録されました。
( 村田 秀雄さん )





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