国民学校になって教科書が変わった−尋常小学校教科書と比較するー
@父親がいなくなった(国語)
上は太平洋戦争が始まった1945(昭和16)年から使われた国民学校一年生の「ヨミカタ(国語)の教科書、下はそれより8年前の昭和8年に発行された、尋常小学校一年の「国語」の教科書です。
どちらも挨拶を学ぶページですが、国民学校本では挨拶も「オトウサン」への呼びかけはなくなり、「オカアサンタダイマ」となりました。挿絵からもお父さんはいなくなります。家庭的な温かさも感じられなくなりました。家庭よりも国家が優先され、母子家庭が当たり前とされているのです。
A表情が消えました(国語)
これも同じ教科書の女の子の「糸電話遊び」から言葉使いを学ばせる教材です。
下の尋常小学校本は表情も明るく、着ているもていねいに描かれ、持っている人形もこどもの指先までも優雅です。
上の国民学校本になると、おもちゃも実にいい加減に」描かれ、こどもに表情が無く、2人が後ろを向いてしまいました。糸はぴんと張っていないと、振動はは伝わりません。
B桜を愛でる余裕もなくなりました(国語)
下は尋常小学校の最初に学ぶよく知られたページです。春が来て桜が咲くよろこびをいっぱいに表現しています。絵も丁寧に描かれています。
国民学校になるとになると、桜が咲いても、わきめもふらず体操し、体を鍛えることから始まりました。
C戦争ゴッコが主流に(算数)
国民学校1年生の算数は「カズノホン一」(昭和16年2月発行)になりました。
カズの数え方の基本を学ぶページですが、運動会が戦争ゴッコに変わりました。
少年兵士も敬礼から、抜刀万歳になりました。
D宮城、天皇、日の丸、神社参拝、目指すものは(修身)
一年の修身は「ヨイコドモ上」です。はじめの3ページと一年が終わる最後ののページをあげました。「小サイケレドミンナ日本ノコクミンデス」で終わります。入学時から徹底して「皇道」をたたき込みました。
教室の正面にもこの写真が飾られ、朝礼で「宮城遙拝」をしていました
白馬に乗るのは昭和天皇
登校と神社参拝はをつなげるものは?
1年修身の最後のぺーじです。
私タチハ、日本のコドモデス。
小サイケレドモ、ミンナ日本ノコクミンデス。
先生ノオシヘヲヨクマモリマス。
コンドソロッテ、二年生ニナリマス。
C墨ぬり教科書、「きりとり教科書」(習字)
今回お借りできた国民学校教科書のなかに、「初等科習字四」(昭和18年3月発行)が二冊ありました。一冊は不都合な文字に一部に墨が塗られたいわゆる「墨ぬり教科書」でした。戦後の一時期使わわれたものでした。もう一冊は墨が塗られるまえのもだったので、墨が塗られた部分が再現きました。
またよく見ると、墨ぬり教科書の方は、6ページにわたって切り取ってありました。私達はこれを「きりとり教科書」と名付けました。
墨ぬりの部分と、切り取られたページ、残されたページの一部を紹介します。
切り取られていたページ
残っていたページ
D「君が代」が消えました(音楽)
国民学校「高等科音楽一女子用」(昭和19年4月発行)と「高等科音楽」(昭和21年6月発行)がありました。上の「高等科音楽」は戦後最初に出された教科書です。これまで墨を塗ったりして消した部分を削除して、新聞紙様の用紙に印刷したものを配布、こどもはこれを裁断し、ホチキスでとめて使った仮の教科書です。
「目録」を見ると音楽教材の手直しが分かります。「君が代」や「紀元節」などの式歌、「海ゆかば」、男女共用になったせいもあるのか、「女子青年の歌」「小楠公の母」などが消えました。
戦後の教育改革の始まりが確認できます。
戦後第1号の教科書
昭和19年に使われた教科書