岐阜空襲を追って−「岐阜空襲記録する会」の活動−
1,岐阜市平和資料室開設までの経過
(1)「岐阜空襲を記録する会」の発足(1974.9)
「岐阜県下の空襲により県民が受けた惨禍と戦時下の生活を県民の手で記録して、これを現代に問いかけ
、さらに後世に伝え、再びこのような歴史を繰り返させないように、真の平和を築くひとつの力となること---」(規約第三条 目的)
「資料の永久保存などを目指す資料館の建設---」(第四条)を目指し対県・対市交渉、調査・記録活動、「体験を語る会」・「空襲展」の開催、
ニュースの発行、 書籍の出版、スライド・パネル・ビデオの作成と貸し出し
「被災30周年 岐阜空襲展」中日新聞、丸物百貨店と三者共催 4万人の入場(75,8)
(2)岐阜市が、「岐阜市平和都市宣言」(1988.6)
岐阜市非核都市宣言請願署名運動(1983.7〜84.2)
「岐阜市非核都市宣言をめざす運動推進センター」(記録する会が事務局)
呼びかけ人325人、請願署名27.471人提出
「常設展示場---を市当局や議会に要求し、---」 22対25で否決しながら
市政100年、岐阜市議会が、「岐阜市平和都市宣言」を決議(1988.6)
(3)平和都市として何をするのか
岐阜市は年間500万〜700万円の「平和都市宣言啓発事業費」を予算化する
野村市議が平和資料館の設置を、蒔田・淺野市長に迫る
岐阜教組ら7団体が「平和施策に関する要望書」を市長に提出(1992.6.6)
(4)「岐阜市平和館をつくる会」(記録する会事務局)を発足(1993.4.25)
岐阜教組、コープぎふ、母親連絡会、平和遺族会など24団体で署名運動、市長交渉など
市側は 「平和資料館は早い時期に実現したい。資料の収集、発掘は時期を失すると滅失するので、平成5年から収集を行う」(1992.9)
「戦災50年をめどに、館を前提とした資料収集を平成5年度より」(1993.2.20)
「戦争・戦災資料収集に関する委員会」をスタートさせ(1993.9.3)、95年7月までに329点の資料を市民から収集し、
岐阜市歴史博物館で保管。行政視察として「ピースおおさか」「国際平和ミュージアム」見学
つくる会も 「平和ミュージアム見学の旅」(93.6 43名参加)
「岐阜の戦争遺跡」の刊行(93.8 2000部 知事・市長などから推薦文)
「'94 ぎふ平和展−50年前は戦争だった」(94.8.11〜15 岐阜市文化センター入場者3225 人 パンフ4000部)
「市民平和講座」(94.1〜7 6回開催)
「子らに伝えよう−ぎふ戦争と平和展−」(95.8.4〜8 中日新聞共催 近鉄百貨店 入場 者18.000人)
「岐阜空襲の夕べ」(毎年7月)
「ミス岐阜と青い目の人形−日米人形交流展−」共催(96.9.27〜10.3)岐阜高島屋 入場者 13.000人
「空襲・戦災を記録する会 第28回全国連絡会議 岐阜大会」共催(98.7.19〜20) グラ ンヴェール岐山 191人 市長・助役出席
(5)「平和資料室」実現に向けて
「平和資料室」を四次総に位置づける(96.3月岐阜市議会)
「国際交流」の部分に、「本誌は昭和63年に『平和都市宣言』を行いましたが世界に目を向けると平和を脅かす様々な出来事が
起こっており、平和に対する認識を新たにする必要があります。戦争体験者が減少し、戦争に対する認識が風化しつつある今、
戦争という悲劇を繰り返さないためにも、戦争について学び、平和の尊さを認識する必要があります」として「平和意識の高揚と
展示機能の充実=人類にとって永遠のテーマである平和意識の高揚を計るため飢餓、環境破壊をはじめとする種々の視点から
資料展示を通じ、広く啓蒙活動を行います」と位置づけ、所管を市教委文化課から総合企画部文化行政推進室へ移す。(96.4)
*岐阜市主催平和展「子供たちへ伝える平和のための資料展」に協力
「岐阜空襲」96.7.9〜30 「戦時下のくらし」(8.5〜30)」
以後開設まで4年間開催
* 岐阜駅西陸橋取り壊しに伴う戦災遺物の発掘(97.3.27 7.26 8.13)
*市は「市民文化活動拠点施設整備基本構想(案)をいったんは策定(98.3)
市民会館改築後の施設の2階中央図書館の一角に、約135uの「平和資料室」を配置 →中止
2,「平和資料室」オープン(2002.1.26) ハートフルスクエアーG
(1)規模・運営
*展示室110u 倉庫10u 文化生涯学習課所管
*岐阜市空襲と戦時下の市民生活をテーマにした展示(常設展)
左手−空襲以前=防空、戦意高揚、米軍の偵察と空爆準備、焼夷弾
正面−岐阜市の焼け跡パノラマ写真、空襲遺物
奥の平台−岐阜市焼失地帯を示すジオラマ
手前の平台−空襲遺物(発掘品)
右手−空襲以後=焼け跡、バラック生活
ガラスケース−防空用品、子供玩具、代用品、雑誌、グラフ
ほかに竹中彰元(反戦僧)、サイパン玉砕の郷土部隊、軍隊生活など
空襲を記録する会制作ビデオ随時上映
*午前9時から午後9時まで開館、休館日は月1回(最後の火曜日)
*無人、監視ビデオ
*4月より「ハートフルスクエアーG」を「岐阜市教育文化振興事業団」へ民間委託するが、
「平和資料室」だけは文化生涯学習課(今は男女共生、生きがい推進課)の所管
*「岐阜市平和資料室・友の会」の発足(2004.12.23) 会員128人 講演会、見学会、「空襲の夕べ」、総会
(2)子供たちに伝える平和のための資料展・特別展展示制作(会制作分)
「戦時中の教科書」(04.8〜)
「開戦、戦中の暮らし、そして空襲」(05.7.9〜31)
「戦争中のお母さんは、大いそがし−大日本婦人会岐阜支部の活動−」(06.7.9〜07.7.20)
「学校もたいへんだった−戦火の中学生日記-」(07.7.22〜08.8.5)
「反戦を貫いた僧 竹中彰元」(08.7.19〜09.7)
「岐阜の戦争遺跡」(09.7〜10.8)
「岐阜空襲写真展」(10.7〜8)
「焼け野原から再生する岐阜の街−新発見写真から−」(10.7〜11.7)
「岐阜空襲の記録−破壊からの再生−」(20117〜12.7)
「市民と兵士の防空」(12.10〜13.7)
「狙われた故郷−新公開写真−」(2013.7〜)
「戦争の時の子どもたち~欲しがりません勝までは」(14.7〜)
「戦争の悲しみをえがく板津包信作品展」(15.7〜)
「”進め一億火の玉だ!〜「本土決戦!」のころの少年少女たち〜(16.7〜)」◆
「戦うぼくら、少国民!〜岐阜空襲と、立ち向かった子供たち〜」*◆
「焼け野原からの再出発〜そして今」(17.7〜)*◆ 「戦争中のお母さんは大いそがし!−戦時の婦人会活動を記録した『梅林文書』より−
(18.7〜)◆ (◆メディアコスモスでも展示)
(3)見学ガイド
小学校、社員研修、教員研修、人権教育研修、県外の戦災・空襲記録する会、メディィア
(4)アンケートの反応 (2004.5までの常設展 875通)
*興味をそそられる 88.9% 普通 7.9% 興味を持てなかった 1.4%
*よくわかった 65.7% 多少わかった 25.9% わかりにくい 2.2%
*説明の必要はない 9.2% 文字説明がほしい 38.8%
スタッフの説明 が ほしい 36.3%
*印象に残った展示物=戦災遺物、焼け跡の写真、焼夷弾、丸物の壁、米軍作製の地図、竹中彰元の裁判記録、遺言書、陶器の焼夷弾---
3,その他の活動
(1)平和講座 小・中・高等学校、児童館、自治会、企業、民間団体、市民など
(2)最近の研究・資料収集 大垣空襲時の「通達」 勤労動員中の女学生 当時の玩具
E46収束焼夷弾 M69不発弾 モンペ 防空頭巾 布かばんなど
(3)主な刊行物 写真集『岐阜・各務原・大垣空襲』1975年
体験記集『火の海からの証言』1976年()
『岐阜空襲誌』1976年
絵本『芽吹けミヤコよから〜子供たちに伝える岐阜空襲』1985年
(岐阜県学校図書館協議会推薦図書、全国学校図書館協議会選定図書)
『岐阜の戦争遺跡』1993年 岐阜県知事、岐阜市長の推薦文
『岐阜も戦場だった』2005年(「平和資料室友の会」参加で)
写真集『岐阜空襲の記録』2013年(美江寺観音と共同制作)
『戦争中の少年少女たち−「ほしがりません勝つまでは!」の時代に−』2018
映 像 『私たちの街がたかれた〜岐阜.各務原.大垣空襲の記録』(32分)
『「芽吹けミヤコよ」より』(27分)
『焦土:岐阜』4分(米軍機空撮)
『岐阜空襲アーカイブ』2017年(愛知淑徳大國広由紀さん制作に協力)
ホームページ開設 1998年 http://yosisi.sakura.ne.jp岐阜平和通信
(4)他団体との交流
「全国空襲・戦災を記録する会交流会」(毎年8月)
「戦災・空襲記録作り東海交流会」(毎年12月)
(2018.10 篠崎 喜樹)