日本のはじめた15年戦争の、最後の年のことです。
1945(昭和20)年6月、東京・大阪・名古屋などの大都市や、大工場への空襲が一通り終わると、アメリカ空軍の攻撃のほこさきは岐阜市などの中小都市に向けられてきました。ねらいは、@「こんな町までやられるようでは---」と国民の戦う意欲を打ち砕くこと、A中小都市の産業を破壊することであり、すでに東海地方では浜松・四日市・豊橋が攻撃を受けていました。
七夕の2日後、7月9日の午後11時過ぎ、熊野灘あたりから侵入してきた129機(アメリカ軍発表、日本軍は70機と発表)のB29は、琵琶湖上で方向を変え、関ヶ原を通り岐阜市上空へ1機か7.8機の編隊を組んで侵入してきたのです。第一撃は照明弾で浮かび上がった岐阜駅の北西、真砂町にあった川西毛織が受け、続いて岐阜駅前の家並みの立て込んだ地域が燃え上がりました。
次々と飛んでくるB29は相次いで北へ進み、県庁(今の県合同庁舎)あたりから忠節橋、島、萱場にかけて、続いて長良橋へ、東へ向かったB29は名鉄田神駅前の川西機械(今の日本キャンパック)を目標にして、白山、梅林校区、南は加納の駅よりの工場地域などを爆撃し最後に中心部を攻撃しました。鏡島一帯も、高射砲部隊がいたせいか激しい攻撃を受けました。129機からの津波のような攻撃で、全市が燃え上がるのはあっという間のことでした。
岐阜の街が、姿を消した!
今は何事もなかったようにビルが建ち並び、買い物客でにぎわう岐阜市最大の繁華街柳ヶ瀬は、この空襲で写真のように、一面焼け野原になりました。
丸物百貨店から西を望んだものですが、当時市内最大の映画館として多くの観客を集めた岐阜劇場(今の高島屋の位置)の残骸の他残る建物はほとんどなく、彼方に長良川の川面がうかがえるほど、焼き尽くされています。
岐阜駅周辺への第一撃につづき、キラキラと花火のように降ってき、ドーンと鈍い地響きとともに一面に火のついた油を飛び散らす焼夷弾は、柳ヶ瀬の周辺部、金神社、明徳国民学校周辺から真砂町や本郷町あたりに集中したようです。この中を人々は西へ西へと逃げようとしたのですが、金神社の森は熱風にあおられてたつまきのように燃え上がり、凱旋道路(今の金華橋通り)も廊下に油を流したように地面に火が走り、道路を横切ることもできない状況になりました。
直撃弾を受けてひろこともいえず無惨に即死した子ども、背に負ったひん死の父親を捨てて逃げざるを得なかった青年、ものの見えぬ老婆をつれて遠くに逃げられず近くの防空壕に入って焼け死んだ子、燃え上がる消防車、子どもの名を呼ぶ悲痛な声、親を捜し求める子供たちの泣き声、雷のとどろくような空の下を、人々は必死に逃げたのです。
柳ヶ瀬中心部の火災は、周囲からの類焼によるもので、丸物百貨店の炎上は明け方の4時頃、周囲の熱で発火、上から下へ燃え広がり、やがて各階の窓から火をふき、翌日になっても内部は燃えつづけていました。
今から70年前の、焦土となった岐阜市の傷痕を見つけることは年とともに難しくなってきました。焼け残った建物も次第に取り壊されていきます。新しい装いの中で、何を見つけだすことができるのでしょうか。
アメリカ空軍はこの夜、岐阜市へE46集束弾2,387発(筒状に分散したM69=6ポンドで90.706本)、M47(100ポンド焼夷弾)12.221発、合わせて898.8dを投下し、建物密集地の74%、目標の107%を破壊したと発表しています。
焼けた地域は四ツ谷公園から権現山、殿町の瑞龍寺入り口から田神駅前の日本キャンパックを結ぶ線から西、本荘、加納にかけての広い範囲に及びました。長良橋北詰、島、合渡、七郷、鏡島の一部を失いました。
京町、徹明、明徳、木之本、本荘、本郷、白山、加納西、合渡、島の子供たちは、通う学校もなくしてしまいました。
こうして、1891(明治24)年の濃尾大震災以来50年あまり、市民の努力によって築き上げられてきた岐阜市は一夜のうちに灰になってしまいました。岐阜駅のプラットホームから長良川の堤防まで、一面見通せる焼け野原になってしまったのです。当時最大のビル丸物百貨店(後の近鉄百貨店、今の中日ビルの位置)が焼け跡の象徴のようにすすけた姿を浮かび上がらせていました。
この空襲による被害は記録によってまちまちですが、まとめてみると死者は約900人、負傷者約1200人、焼けた家約2万戸(約50%)、住む家を失った人は約10万人で市民の約60%になります。たった一夜のできごとなのです。
県病院(今の岐大付属病院)から西を望む
まだくすぶっている翌朝の岐阜駅
徹明町交差点 上が岐阜駅方面
徹明町忠節方面電停前十六銀行
柳ヶ瀬通り
丸物百貨店を東から、撮影日が記されている
この灯籠はどこにあったのでしょうか
裁判所(今の市役所)あと、正面奥は明徳小
建物だけ残った岐阜市役所(今の美江寺公園)
焼け落ちた衆楽館の鉄桟
柳ヶ瀬から本郷校区を(横の道は金華橋通り)
忠節橋付近の土手でのバッラク生活
立木が電柱に、掲示板に
岐阜空襲作戦は、このように行われた
米航空軍第21爆撃機集団「作戦任務報告書」より作成
作戦任務番号 | 260 |
中小都市空襲 | 第7回(仙台・堺・和歌山・四日市とともに) |
攻撃部隊 | 第21爆撃集団 第314群団 |
基地発信機数 | 135機 |
目標爆撃機数 | 129機 (1機は他目標へ、5機は無効) |
攻撃日時(日本時間) | 7月9日23時34分〜10日1時20分 |
爆弾投下高度 | 4.000〜5.300m |
天 候 | 晴れ、視界を妨げるものなし |
爆撃中心点(MPP) | 061062(徹明町通りと金華橋通りの交差点) |
投 下 弾 | M47焼夷爆弾 12・221発 477.4トン E46集束焼夷弾 2.387発 421.4トン 計 14.608発 898.8トン 他に照明弾 54発 |
破壊面積 | 5.0ku (建物密集地 6.76ku) 建物密集地の 74% 北東、東および南の小地域が無傷で残った |
反 撃 | 10機から15機の敵戦闘機から3度高家機を受けた 地上からの対空砲火は不正確だった |
損 失 機 | 1機 帰路エンジンに被弾,火は翼にひろがった。脱出後空中爆発 乗組員は救助された。 |
原文の計測値は米国式のヤード・ポンド法で記してあるが、1フィート≒0.350m、1平方マイル≒2.590ku
1インチ≒2.54p、1米トン≒0.907tで換算して示した。
はっきりしない空襲被害
昭和20年8月30日 岐阜合同新聞 |
戦災復興誌 (建設省) |
米軍調査団 報告書 |
経済安定本部 | 松尾吾策「八十年の回顧」 | |
死 者 (人) |
818 (0.5%) |
863 | 856 | 887 (不明17) | 890 (0.5%) |
負傷者 (人) |
1.059 | 515 (0.3%) |
1.205 | 540 | 5.600 (3.2%) |
全半壊家屋 (戸) |
20.363 | 20.476 | 20.427 | 19.525 (49.3%) |
20.530 (51%) |
罹災者 (人) |
100.000 (57.2%) |
86.197 | 99.730 | − | 85.237 (48.8%) |
焼失地域 | − | − | 1.93平方マイル 倒壊= 74% 目標の107% |
− | 170万坪 |
昭和19年の岐阜市人口=174.576人 戸数=39.604戸
周辺都市と比べて けた違いに高かった
投下弾1トンあたりの被害
死 者(人) | 負傷者(人) | 全半壊家屋(戸) | 罹災者(人) | |
岐 阜 | 1.0 | 1,3 | 17.8 | 110.9 |
一 宮 | 0.4 | 0.4 | 6.2 | 25.8 |
桑 名 | 0.3 | 0.2 | 4.4 | 19.4 |
大 垣 | 0,2 | 0.4 | 7.5 | 37.7 |
岡 崎 | 0.1 | 0.2 | 7.4 | 31.5 |
平 均 | 0.4 | 0.5 | 7.9 | 40.3 |
岐阜市空襲直後の空撮映像入手しました
このほど、徳山空襲ビデオをつくる会の工藤洋三氏を通じて、米国国立公文書館から1945年8月28〜29日米陸軍偵察機撮影の岐阜市市街地の映像を入手しました。早速ビデオに編集しました。これまでに見たことのない新しいアングルで、焼け跡の状況がつかめます。1月オープンの岐阜市平和資料室で公開しました。
とりあえずここでは、その中から取り出した静止映像を紹介します。
丸物(旧近鉄)百貨店から長良橋通りを北へ望む
左上が長住町交差点。十六銀行本店が建つ。白山町上空。
下が長良橋通り、上金華橋通り、上中央が徹明小学校、右上が金公園
千手堂交差点、左下に徹明小学校
岐阜一中(現岐阜高校)
戦災遺跡を訪ねて
猛火に耐えた教育会館(美江寺町2)
大正の終わり(1925年)ごろ、岐阜県図書館として建てられ、ユニークな設計で話題となった鉄筋2階建て。
南面には大きな亀裂や剥離、窓や入口から吹き出た炎で黒ずんだこげあと、北面には弾痕と思われる傷が残っており、焼夷弾攻撃のすさまじさが分かります。2階にあがると大広間がありますが、天井や壁面にすすけた跡がはっきり残っています。(20011年取り壊さされました)
鏡島弘法・乙津寺
大師堂の周りに新四国八十八ヶ所の石仏が並びますが、その中に一部欠けたものやひびの入ったもの。顔がkろくすすけたものをいくつも見ることができます。香炉所の近くに立つ大きな石柱も、大師堂に面した側だけ、ひび割れが走ったり、ははがれ落ちたりして破損がひどく、炎の勢いのすさまじさがわかります。
国重要文化財の十一面観世音菩薩などの仏像は、当時駐屯していた高射砲隊や信徒達が、火の粉をかぶりながら、裏にあった池や長良川河原に運び出し、守りぬきました。
溝端神社の狛犬
溝端神社の裏手にある庭に置かれている狛犬です。熱のため割れたり、剥離しており、こわれないように縛り付けてあります。
本荘神社
本荘神社参道には、焼けた後に残るうろのある木が何本も残っている
旧岐阜近鉄百貨店の壁を切り取り、岐阜市平和資料室に展示
2000年の12月14日、空襲で焼け野原になった岐阜市の真中にすすけた姿を残し、市民お心の支え、戦後復興のシンボルともなった旧近鉄百貨店のビルの一部の切り取りに成功した。
8階屋上出口にある社員用の階段のおどり場で、ここの天井・壁面だけが空襲当時のまま真っ黒にすすけた状態で残っているのを、「被災30周年空襲展」を開催した際みつけていた。近鉄閉店を知り、解体するならその一部でも今度できる岐阜市平和資料室での展示・保存を岐阜市に申し入れてきたものが、市・近鉄のご努力で実現したもの。コンクリート壁面の表面に漆喰が塗ってある為切り取る際にくずれてしまわないか、また火災の熱でコンクリートにヒビが入っているが大丈夫かなどの心配も、技術的に解決され、32センチ×32センチ、高さ1000センチのものが切り取られた。
展示までは岐阜市歴史博物館に保存される。
市中心部に照準
900人が犠牲、53年前の「岐阜空襲」米軍史料から判明
太平洋戦争末期の1945(昭和20)年7月9日夜、岐阜市中心部を火の海にし、約900人もの犠牲者を出した岐阜空襲は、市街地のど真ん中の金町・徹明町交差点を照準にしていたことが3日までに、山口県徳山市の研究者が発掘した当時の米軍史料から初めて分かった。
この事実を突き止めたのは、「徳山空襲のビデオをつくる会」事務局長で徳山高専教授の工藤洋三さん(48)=山口県徳山市久米三五三八=。
工藤さんは、全国の地方都市の投弾照準点参照用集成図ともいえる、何枚かの写真を組み合わせて作った市街地のモザイク写真を石版印刷によって印刷複製した「リト・モザイク」と呼ばれる写真を米国・ワシントンの国立公文書館で初めて見つけ、コピーを入手した。
44年11月23日に撮影された岐阜市のリト・モザイクの各辺に、152の目盛りがある。工藤さんによると、岐阜空襲作戦任務報告書にある野戦命令書の末尾に記された「061062」という6個の数字の最初の3個は、このリト・モザイクの横軸の61目盛り。後の3個の数字は縦軸の62目盛り。この交点が投弾照準点であることが、工藤さんらによる全国地方都市空襲の研究から最近になって解明され、岐阜市の場合もこの写真によって明らかになった。
工藤さんは、「岐阜空襲に参加したすべてのB−29がこの点を狙って投下すれば、焼い弾の約半数がこの点から半径4,000フィート(約1,200メートル)の円内に落下し、岐阜市街地を焼き尽くすことができる、と考えられていた」という。
「岐阜市平和館をつくる会」の篠崎喜樹代表世話人(63)=岐阜市五坪町=が3日までに、工藤さんからこの写真を入手。照準点を読み取ると、岐阜市金華橋通と徹明通の交差点だったことが分かった。
岐阜空襲を記録する会の事務局長でもある篠崎代表世話人は「空襲は軍需工場が目標というのは名ばかりで、当初から市民が標的だった証拠。照準点の金華橋通りは油を流したようで、地面に火が走ったという体験者の証言とよく合う。従来、退路を断つ包囲攻撃との見方があったが、実は一点集中作戦だったことも分かる、。戦後53年。戦争体験も風化しつつあるが、戦争は過去の話ではない。体験を次代に語り継ぐためにも、こうした事実を大切にしていきたい」と話す。
岐阜空襲の投弾照準点を参照できる岐阜市街地のリト・モザイク
(1944年11月23日撮影、米・ワシントン、国立公文書館蔵、工藤洋三さん複写)
岐阜新聞 1998年8月4日号より
空襲1ヵ月前の岐阜市:1945年5月には完成した神田町通り、若宮町通りの家屋疎開(約3000戸)の跡が あざやかに写し出されている。
空襲直後の岐阜市:焼失地域が白っぽく写っている。(同)