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岐阜空襲を記録する会  2013.14、15.16   2017 18年はこちらで     
                                                                                           
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              岐阜空襲を記録する会~12

岐阜市平和資料室
岐阜空襲とは?
このサイトに寄せられた体験記
                                                                                                    
平和講座のご案内   



<2016年>

<行ってきました!学校&市民の平和講座 >
 



"防空壕は危険、加納城へ!"と自治会長

◆加納小学校6年生

 
 12月14日、稲垣澄子さんと篠﨑は、加納小学校へ招かれました。
 加納小(当時は加納第一国民学校)は稲垣さんの母校、加納城三の丸の跡にあります。
岐阜空襲時は、高砂町の国鉄官舎に住まい、女子師範めざして県立岐阜高等女学校に通学されていました。

 その時の様子を、対談形式で6年生2クラスの生徒さんに聞いてもらいました。
 岐阜空襲の夜、近くの防空壕に入ったところ、町内会長の中島良夫さんに「この防空壕は鉄道の枕木が柱などが
使われているので危ない。すぐに加納城に逃げなさい」といわれ、シューバリバリと火の降るなかを、夢中で加納城に逃げ込み助かた。
家も焼け、学校も焼けここで3日間、食べる物もなく過ごした。その後しばらく続いた衣食住すべてにに苦しんだ体験を話されました。
焼ける前の女学校の講堂や校舎は工場になり、朝は7時から飛行機の翼をつくるためジュラルミンの板の切断、磨き、プレス、組み立て、検査などを、
作業が少なくなると日赤病院の看護講座などを受けたとの話に、生徒さんは驚きの表情、終始よく聞いてくれました。
 懐かしい校門を後にして、命の恩人中島さんの消息を知りたく、国鉄官舎の跡に建った住吉神社を訪れましたが、
71年前のこと、明らかになりませんでした。 

 後日、稲垣さんのもとへ27名分のお礼と感想の手記が届けられました。いずれも真剣に戦争をイメージし、繰り返してはけないこと、
後世に伝えるべきこととして捉えていてくれていました。その内7名の方のものを書き込みました。
稲垣さんは絵手紙教室の仲間の協力を得て、一人一人の生徒さんや、先生に絵手紙を差し上げたとのことです。

◆今日は加納小学校6年生に戦争の様子、戦後のくらし、その時の気持ちなどのたくさんのことを教えていただきありがとうございました。
 私は授業の内容で、「戦争が終わり国民は幸せになれたのか」というもので、もう焼夷弾なども投げられず安心することができると思い、
最終的にまとめの構造図で「国民は幸せになった」と書きました。
 しかし、今日の稲垣様のお話を聞いてその考えが変わりました。苦しい地ごくの戦争がやっと終わり安心できると思うのに、
店からは「売るものなんて無い!」と追い出されて、周りの人からもいじめを受けたりして、戦争が終わっているのにまた苦し
い思いをしなければいけません。この状態は、「国民は幸せか?」と言われると、「幸せでない」と答えます。
いま戦争を語り継ぐ人がとても少なくなってきていると聞いています。なので、次はこの教えてらった知識を他の人に語っていきたいです。
ありがとうございました。<SO>ん)
◆(前略)今日のお話で分かったことがいくつかあります。
 まず、何もしていない国民も戦争に巻き込まれたと言うことです。授業では少し習っていましたが、実際に体験された方のお話を聞くと、
その様子も頭に浮かんでこないくらいです。その時の家族思いの稲垣さんに感動しました。弟や妹のために自分は食べないなんてです。
私は次女なので、なおさらそんなことはできません。
 岐阜空襲で岐阜が焼け野原になったなど、想像がつきません。爆だんが落ちてくるのを見た時どんな気持ちなんでしょう。
絶望?それとも何も考えられないか。そんなことを考えたくありません。私たちは、二度と戦争が起きてほしくないと持っています。
だから、この戦争の残こくさを伝え、平和な世界を守っていきます。本当にありがとうございました。<?>
◆(前略)いながき様の実さいに経験されました戦争のお話を聞いて、もっともっと戦争がきらいになりました。
その理由が、3つあります。1つ目は、戦争のせいで、生活が大変になることです。食料などが配給制になって、
おなかがいっぱいに食べることもできないくらいまずしくなるから、生活がが大変になっていく。2つ目な、学校のことです。
校で、男の子は戦争の授業などもしなければいけない。女の子は工場の手伝いをしなければいけない。
ふつうの授業をしたいはずだけど、ふつうの授業ができないからです。
 3つ目は、戦争のせいで多くの人が亡くなることです。戦争、空襲のせいで、多くの人の命が奪われて、家族なども失うといやだからです。
私はこの3つを思って、前よりもっともっと戦争がきらいになりました。(後略)<?>
◆(前略)私は稲垣様の話を聞いて、”戦争”とは人類の最悪の過ちということを感じました。私はこの戦争に怒りを覚、悲しみを抱きました。
私たちができることは、今度後世に伝えるということです。稲垣様のおっしゃったことを後世に伝え、
二度とこのような戦争を引き起こしてはいけないぞをいうことを伝えたいです(後略)<RH君>
◆(前略)稲垣様が必死ににげて後を振り向くと火の海だったなど、戦争について語ってくれました。
稲垣様が語ってくださった戦争のひどさやこわさは、僕には想像がつかなかったです。戦争とは、住む家、友達、家族。
命すべてうばっていったことが分かりました。 今の日本が平和であるのは、稲垣様など戦争を体験した人が平和がどんなに素晴らしいことか、
もう二度と戦争はしていけないということを教えてくださったおかげです。ぼくは話を聞いて今が平和であることがありがたく思い、
もう二度と戦争はしてはいけない、この世から戦争がなくなってほしいとあらためて思いました。(後略)<YM君>
◆(前略)私がお話の中で一番印象的だったのが、岐阜空しゅうのとっきの様子です。”B29”という飛行機が2万個ほどの爆弾を落としたと聞いて
とてもびっくりしました。それが今自分たちが住んでいる加納の町の近くでおきていたのが自分でも考えることがっできません。
一面”火の海”の町中をひいしでにげている様子を考えると、とても恐ろしいことだと思います。
 また、戦争後の生活にもおどろくことばかりでした。すむ所も、食べる物も着るものもない生活、とても苦しく貧しい生活だったんだろうなと思いました。
 私は、稲垣様のお話を聞いて、今、当たり前に楽しく暮らしている生活がとても幸せなんだなあと改めて実感しました。
戦争のひどさ、苦しさなどをいつまでも忘れず過ごしていきたいです。そして、次の世代の人々にも、伝え続けていきたいと思いました。後略)<KNさん>
◆私は、稲垣さんの戦争体験のお話を聞きながある想像をしていました。わたしは、自分の家が焼けて燃えているところ、
近所の人が爆弾でひふ方だれてしまっているところです。そんな想像をしただけでも私はとてもつらい気持ちになりました
戦争の恐さをしみじみと感じました。私はもう二度と戦争は起こしたくないと思いました。今でも戦争のひがいでつらい思いをしている人がいると思うと,
戦争は、人の人生までうばってしまうものだと思います。私はは稲垣さんのお話を聞いて、やらなければいけないと思ったことがあります。
 それは、未来の子どもやまだ戦争を知らない人たちに伝えていくことです。年がたつにつれて、実際に戦争を体験した人たちは少なくなって行きます。
私たちは聞いて分かったことや感じたことなどをより多くの人たちに伝えていきたいし、絶対にどんな理由があったとしても、
争はもう起こしてはいけないんだということを伝えていかなければならないとおもいます。そして世界の人々、
一人一人が戦争はもうしないという思いを持って行きたいと私は思います。<?>
稲垣 澄子さん画



「これからも平和をつづけます!」→2年連続で、虹が出ました。

◆本荘中学校2年生

左)焼夷弾の実物資料を掲げて、爆発時のようすを説明します。
   このあとこの焼夷弾は、生徒全員に回して手にとって実感してもらいました。
(右)講座が終わって、生徒を代表してお礼の言葉。「平和がつづけられるように、私たちも努力します」

 
11月25日、今年も本荘中学校からお招きを受け、平和講座を行いました。
生徒さんたち、今年の修学旅行は長崎に行かれるそう。その平和学習の入門編として、お話ししました。
「70年前、皆さんがいる頭上に、焼夷弾(しょういだん)が落ちてたんですよ」
近年見つかった、アメリカ軍の爆撃機から焼夷弾(火の爆弾)が100発近く投下されている写真を写すと、先生も含めてビックリ!
ヒロシマやナガサキだけでなく、まさに今いるところも、戦場になっていたのです。

『戦争中の中学生』のお話にも、生徒さんたちは熱心に聞いていました。
〈戦時の中学生と背くらべ〉や、〈女学生コスプレ〉も盛り上がりました。
最後のあいさつでは、代表の女生徒さんがやさしく力強く、宣言してくれました。
「戦争をしないことは、私たちの家族・友人を大事にすること、ふるさとを大事にすることと同じです。平和を続けるためにがんばります」
講座が終わって校門の外に出ると、大きな虹が出ていました!


(左)今年出た、大きな虹。 (右)学校の中庭から見た、去年の虹。






<この夏、様々な企画に参加しました>

全国の研究会で発表しました
★「空襲・戦災を記録する 全国連絡会議」仙台大会

 
(左)『各地の活動報告』 中島より、岐阜の今年度の企画展の紹介
(右)『戦時防空のシンポジウム』 篠崎より、大垣空襲での人命優先のケースを紹介。

 
8月27日と28日、第46回『空襲・戦災を記録する 全国連絡会議』が仙台で開催されました。
会場は、仙台市戦災復興記念館。岐阜よりも早く、地域の戦争体験を後世に伝えるために作られた平和施設です。
各地の『記録する会』や戦時研究者たちが、全国から160名以上集まりました。

◆『少年少女展』と、女学生の記録を紹介
27日の「各地の活動報告」では、岐阜からの報告としてパネル制作担当の中島が登場。
今年度企画展の『戦時の少年少女展』の紹介と、戦後70年の一年間にたくさんの平和展パネルの貸し出しや、平和講座の依頼が激増したなど、うれしい報告をしました。
また今年入手した資料のなかから、「女学生の学徒動員日誌」を取り上げ、過酷な環境で少女たちの月経が止まった記録を紹介。
「同様の記録が各地にありましたら教えてください」との問いかけに、全国から多くの反応をいただきました。
今後これらの記録を、可能な分まとめていきたいと思います。

◆大垣空襲での被害者を最小限にとどめたシンドラーは?
28日には、『戦時防空についてのシンポジウム』が行われました。
ここでは篠崎より、今年詳細が見つかった記録、「大垣空襲で50名ととりわけ被害が少なかった理由、人命重視の避難指導」があったことを報告しました。
そして、「被害が増えた理由だけでなく、最小に押さえたケースについても明らかにしていくことが必要では?」との問いかけに、こちらも多くの反応をいただきました。
全国からのさまざまな報告や意見交換に、まだまだ時間が欲しい、たいへん充実した大会でした。




ささゆり公開平和講座

今年も71年目の広島の日に当たる8月6日 、ささゆり文化講座に招かれて
ケアハウスささゆり地域交流センターへ行ってきました。
「本土決戦のころの少年少女と岐阜空襲」というテーマでしたが、
今年は特に空襲被害が桁違いに少なかった大垣空襲と「防空法」の関係について
新発見資料を使って、無謀な戦争指導の実態を明らかにしました。
「撃ちてし止まぶ」から「進め!一億火の玉だ」の時代を体験した方もみえ、
お話も聞けました。


この時の報告をの内容が 11月8日の中日新聞一面と、社会面に掲載されました。
「防空法」に反して、避難を命じた「通達」や、軍人による避難誘導など、大垣市の
空襲犠牲者が他都市と比べ桁違い少なくすんだ原因を探りました。

 







岩倉市第3児童館で、「平和を考える会」

8月3日、岩倉市の100人余りの子どもたちに、平和を考えてもらう催しに招かれました。
始めに岩倉語り部の会の中山さんの戦中の国民学校の様子を語られたのに引き続き、
当会から3人が、愛知、岐阜の空襲や、当時の子どもたちの生活などについて、
子どもたちにも参加してもらい、体験を通じて戦争を考えてもらいました。
1~3年生の子どもさん、とても積極的に参加、質問にも答えてくれました。
締めくくりは、語り部の会の馬路さん、当時の子どもが読んだ詩を朗読され、
馬路さんの指揮で「鐘の鳴る丘」を全員で合唱しました。
昼食を取って、第二部の映画鑑賞と続くようでしたが、ここまでで失礼しました。
この子たちのためにも、平和をいつまでも守っていかねばと痛感しました。

 





7月16日~29日(火)午後3時 『進め一億 火の玉だ!』

メディアコスモスから会場を、ハートフルGキュービックギャラリーへ撮し展示しています。
パネルのほかに、戦争遺品などを追加し、展示しました。
7月30日、岐阜市平和資料室に撮しました。

 





岐阜市主催 子どもたちに伝える平和のための資料展 inメディアコスモス
⒎月3日(日正午~12日(火)午後3時  メディアコスモス どきどきテラス 

会制作オリジナルパネル
 ”進め一億 火の玉だ !「本土決戦!」のころの少年少女たちと、
岐阜空襲
” の展示が始まりました。
さすがオープン1年の岐阜市中央図書館です。連日子ども連れも多く、しっかり見てくださる観客でした。ご覧ください。


.

金子龍之介君(小5)と、金子小次郎君(小3)


7月9日には、平和を祈念し岐阜空襲犠牲者を追悼する

「平和の鐘を鳴らしましょう」
のセレモニーが、この会場で行われました。

     中央中1年生の皆さんが参加していました。






⒎月1日(金)11:00~16:15
「なごやか文化交流」 於:岐阜市文化センター
          
主催:退職教職員互助会岐阜支部 


「なごやか文化交流」では初めての展示発表です。
会制作のオリジナルパネル「欲しがりません勝までは!」とともに
岐阜空襲写真パネルや焼夷弾も展示し関心を呼びました。
さすが先生たち、しっかり見て下さいました。







<行ってきました!学校&市民の平和講座 >



「平和の誓い」で最後を盛り上げてくれました ★岐阜中央中学

  

71年目の岐阜空襲の日の前日、7月8日今年も中央中1年の皆さんに岐阜空襲と
その頃の中学生活についてお話ししました。
最後に代表者が、翌日の「平和の鐘」セレモニーでも発表する「平和の誓い」を読み上げてくれました。

1.自分やまわりの人の命を大切にします。
  ・戦争で命を落とした人のこと、命が粗末に扱われたことを忘れないようにします。

2.平和を願う気持ちを忘れません。
  ・戦争があったことを、僕たちが次の世代に伝えていきます。
 
3.お互いを尊重し合うことを大事にします。
  ・戦争を起こさないためにも、理解し合う努力を続けていきます。
 
こんなような感じです。上手で心のこもった、素晴らしい誓いでした。

後日、たくさんの感想文を届けていただました。その一部を紹介します
◆今日の篠崎さんの話では、とにかく戦時中の生活が、僕の心に響きました。 男子は軍服を着ていたり、
あばら骨の体操であばら骨がそのまま見えてしまっていて、本当に食べ物がなかったんだと分かりました。
トウモロコシのしんなどを食べるなど、僕にはできないと思います。B29 からおとされたしょうい弾は、実際さわってみて、
重くて、あれが頭に直接当たると、予想を上回りそく死という結果でした。
 僕達は、戦後今71年たったが、まだまだ後の世代もいる。でも、あと10年20年すればもう実際に見た人はいない。だからあとは僕等だ。(HM君)
◆今日の「 篠崎喜樹さんの講演」を聞いていくつか思ってことがあります。1つ目は、「戦争のおそろしさ」です。
「今まで暮らしてきた岐阜の町が、一夜にして、焼け野原になったらどうなるだろう。」「今まで仲良く遊んでいた友達と
会えなくなったらどんなに悲しいだろう。」考えるだけでぞっとします。
 2つ目は「これからの時代は君たちがつくっていく」という篠崎さんの言葉です。どうしたら、私たちで「平和な時代」をつくれるだろう。
じっくり考えて見ました。まず、「一人一人の事を大切にする」「いじめをしない」「プラス発言を増やしていく」。
これらのことを、一人一人が意識して生活すれば「平和な時代」がつくれると思います。明日からこれらのことを---。<以下コピーもれ>(KTさん)
◆戦争を知らない私にとって、今日の講演はとても大切な経験になりました。私は今を当たり前に生き、明日をふつうに迎えています。
でも、戦争をしていた頃の人々は、いつ死んでもおかしくない。そんな状況でした。そう考えると、明日が来るのを当然だと思っていた私が恥ずかしく思います。
71年前、そこに住む市民は、自分の命を捨ててでも、岐阜を守ろうとしてくれました。今を生きる私たちは、戦争と戦った人々の思いを背負い、
この大切な岐阜を守っていかなければなりません。そして、次にの世代を生きる人々に、戦争のおそろしさ、命の大切さを伝えていかなければなりません
これは、生きている私に任された、一生の任務です。この国が平和であるために、今、私にできる事、それは、わたしが、笑顔でいること。(HKさん)
◆今日の講演を聞いて私たちくらいの子たちが戦争の訓練や兵士におくられる。今では考えられません。
また食料もほとんどが兵士の人たちに送られ中々食べられなかった、そう聞いて、私たちは、毎日いろんな食べ物を食べられるだけで
感謝しないといけない、とても幸せだとおもいます。
 今日の講演をきっかけに、私たちの時代は私たちがつくらなければいけないことがわかりました。
また、日本だけでなく、世界が平和になってほしいなと思います。(ASさん)








7月7日(木 ) 13:30~15:10 瑞穂市瑞穂大学寿講座第5回「岐阜空襲を知ろう」
於:瑞穂市総合センター・サンシャインホール

瑞穂市では、教育委員会が主催する成人教育講座「瑞穂大学」があり、高齢者を対象にした「寿学部」での
講座を担当しました。空襲野戦寺体験者もいらっしゃり、当時を思い起し、平和の有り難さ共有していただきました。
瑞穂市は岐阜空襲と大垣空襲時にかなり広範囲に焼夷弾が投下されたことを当時の地図などで示しました。









オバマ大統領広島訪問の翌日、平和について考えました

 
★岐阜聖徳学園高校


右)焼夷弾の画像も大迫力。実物の焼夷弾筒は、生徒さんたちに回し、全員に手に取って 確認してもらいました。
(左)平和講座のラスト。ナガサキの少年。「声なき声を聞きたい」。痛々しい表情で見上げる生徒さんたち。

5月28日は岐阜聖徳学園高校へ招かれました。オバマ米大統領が広島訪問、慰霊碑に献花をした翌日のことです。
71 年後の米大統領の平和公園での演説と、被爆者との対話、マスメディアも大騒ぎをしましたが、
広島1ヵ月前の岐阜空襲は無論、各都市を襲った空襲の悲惨さに触れることはありませんでした。
そのことを話す良い機会となりました。

2年生、普通科と商業科、8クラスのの生徒さんたち、沖縄修学旅行での事前学習でした。
会場は聖徳学園大学の階段状の大講義室、大画面のスクリーン、プラス計5ヵ所の画面が連動し、
どこからでも見やすく、機器も整い話しやすい施設でした。
すべて生徒さんにより運営され、始めに各グループの代表から沖縄戦についての学習テーマや計画など報告があり、
平和学習がかなり進んでいることを知りました。
70分の時間がいただけたので、余裕を持ってサイパン島での郷土部隊の玉砕戦の凄惨な様子や、大垣市空襲が
同じ日に攻撃された青森などの他都市と比べ犠牲者の数が桁違いに少なかった原因などにも触れることができました。
生徒さんからは、「今後も平和を続けていくためにはどうしたらよいか」などの質問や、
「大統領も『核なき世界へ』といいことを言っていた。岐阜空襲や沖縄から戦争を繰り返すことのないように
平和学習を深めていきたい」などの発言がありました。

後日、たくさんの感想文を届けていただました。その一部を紹介します
◆当時の同じ年代のこの話を聞いて、今の自分がどれだけ恵まれているか思い知らされました。
食ぺ物のこともそうだけれど、将来の夢や学校行事まで制限されていて、どれほど辛かっただろうと思う。
真夜中の空襲の恐怖を今の私たちは想像するができない。だから、深く考えることもできず、関心も持ちにくいかもしれない。
ですが、将来、二度と同じ悲惨な出来事が繰り返さないためにも事実を知ることが必要だと思う。

◆戦後、それまで学生でも軍事訓練をしていた状況から、戦争をしない「平和憲法」ができ、
日本は他国よりも先に正しいことをしたと言われたことは、本当にそう通りだと思う。戦力を持だなくなったことで、
今のように日本の平和が続いていると思う。
でも、今は自衛隊の問題もあって、憲法改定とか言っているけど、これからの日本に平和が続くか心配になった。

◆今まで考えられないことがたくさんあって、その状況は、自分が経験をしなくてもわかるような悲惨なことが多いと思った。
たった一枚の写真からでも、その人が思っていると、考えていること、暮らし方などが分かると改めこて思つた。
もっと資料や体験の話を聞くことはもちろん、過去の現伏の写真を見て、自分がその写真から、何を思うか考え、
「平和」であることについて考え、話し合っていくことが大切だと思う。

◆「これからも戦争のない日本であり続けるためには」という質問に、
「戦後71年間を学ぶべきである」という言葉を聞いて、本当にそう通りだと思った。
先のことばかり考えて戦後、日本がイ可をしてきたのかを深く考えていなかったのではないかと感じた。
戦後をどのように過ごし何をしたのか、改めて調べ平和が続く方法を探していきたい。







古戦場関ヶ原で平和を学ぶ 
 ★関ヶ原中学
 
  



 5月19日関ヶ原中学で平和講座に招かれていきました。
 古戦場で世界的にも知られるようになり、今また大河ドラマ『真田丸』でも注目の舞台にもなる地で71年前の戦争と子どもたちの話をしました。
新築間もないぴかぴかな校舎に、アットホームな雰囲気の整った学校でした。
 またこの2年生は、オバマ米大統領の広島訪問の1週間後広島への修学旅行を控えており、核問題にも関心を高めているときでした。
 終わっての生徒代表は、「今日のお話を、僕たちは忘れないようにしたい。将来大人になっても、『そんなに遠くない昔に、戦争があった』こと、
もう決して起こしてはいけない』ことを、忘れないで気を付けて生きていこうと思います」
 訥々と、でも誠実に感想を語ってくれました。
 校門を入ったころに、関ヶ原合戦時の藤堂高虎、京極高知陣地跡の標識があり、古戦場がそのまま校内にひろがているのに関ヶ原らしさを感じてきました。






中日新聞社主催「戦後70年 絵手紙は伝える101の記憶と思い」展に協力しました

中日新聞社では、戦後70年にあたり、平和への思いを込めた絵手紙を募集、
応募作品ののうち101点を3月4日~11日まで、ハートフルスクエアーGで展示しました。
それに協力を依頼され、岐阜空襲を記録する会作成の展示パネル、
新しく入手した焼夷弾や当時の衣服や生活用具などを展示しました。
「70年経ってもこんなものが残っている!」と驚きの声が上がっています。
時間をかけて1枚ずつ丁寧に、絵手紙をいていく方もいました。

 

◆『絵手紙展』で平和講座も行いました
平和の絵手紙展』開催中の3月6日、日曜日。イベントと並行して平和講座も行いました。
ハートフルスクエアGの交流サロンにて、小学生から戦争体験世代まで、幅広い方々に見ていただきました。
会場のすぐとなりには、焼夷弾の実物資料や、空襲の恐ろしさを訴える絵手紙の数々…。臨場感は抜群です。
岐阜空襲を体験された臼井さんのお話や、中日新聞に寄せられた絵手紙を紹介し、あらためて「平和のありがたさ」を感じられる内容でした。
※『絵手紙展』も、『平和講座』も、今回は「中日新聞と当・岐阜空襲を記録する会のコラボ」で行われました。市民の皆さんに見ていただく、とても良い機会になりました。


(左/写真)焼夷弾の実物資料も、見て、さわってもらいながら紹介。
(右/写真)空襲を体験した少女(当時)の絵手紙です。胸に迫ります。



(↑)篠崎さんのことを学校で聞いたと双子の娘さんが来てくれました。もんぺコスプレのパーツを仲良く分け合って記念写真。






M69焼夷弾筒、モンペなど戦時遺品の提供を受けました


のほど会は、大垣空襲を記録する会で長く活躍されてこられた柳瀬博さんのご遺族から、
戦時の遺品を引き継ぎました。E46集束焼夷弾の仕組みがわかる集束用立板3枚と、
M69焼夷弾筒3箇を始め、モンペ、防空頭巾、国民服、コマ・お手玉など子どもの遊具、
防火紙バケツなど貴重なものばかりです。
その一部を絵手紙展に出品しました。
終わって焼夷弾は、岐阜市の了承を得て岐阜市平和資料室に展示しました。
MP69などの文字も読み取れ、当時の緑色系の色も残るもので、
資料室自慢のE46集束焼夷弾の模型とセットで迫力があります。 
岐阜市本荘地域に投下されたものと聞いています。









市民を苦しめなかった 不発弾です

このほど安八町の民家に保存されていたM69 焼夷弾の不発弾の提供を受けました。
1945年7月29日の大垣空襲の際投下されたもので、信管、火薬の発火装置は取りはずして
あるようですが、ストリーマー(リボン)の一部が残り、筒にはナパーム剤が入ったまま
70年眠り続けていたki貴重なものです。
当時は不発弾かこの油脂を取り出して、風呂の燃料にしたと聞いています。
絵手紙展に展示できないか,いろいろ検討しましたが、安全性が完全に保障できないため
止めることにしました。
安全性を確かめる方法を探しています。



 




「平和が続くように、私たちが頑張らないと!」
★青山中学・平和講座
 
左/写真)ズラリと並んだ青山中2年の男の子たち。戦時の中2平均身長と背くらべは…?
(右/写真)戦時の女学生コスプレにも果敢にチャレンジ。雰囲気、分かってもらえたかな?
  
3月2日、昨年につづいて青山中学からのお招きで、平和講座を行いました。
青山中の生徒さんたちはとっても積極的。
戦時の中学生平均身長との背くらべでは、たくさんの男の子たちが参加してくれました。
「僕は小さい方ですが…」という子もふくめて、並んだ結果はご覧のとおり。全員、頭ひとつ分以上大きい生徒が大半でした。
「なぜこんなに小さかっんでしょう?」、戦時の写真や解説イラストでお話しした後は、恒例の女学生コスプレ。
こちらも颯爽とチャレンジしてもらえました。
「こんな格好で、外を歩きにくいです…」
そうですよね。でも戦争していた頃は、この格好でないと逆に怒られたんですよ。

地元の岐阜も爆撃されたお話を聞いた生徒さんたち。
最後には、こんな誓いの言葉を贈ってくれました。
「戦争は、起こしちゃいけない。平和が続けられるよう、私たちも頑張ります!」







<2015年>



<行ってきました! 学校&市民の平和講座  2015> (


岩倉市で『戦争の時の子どもたち』展と
平和講座を行いました。

~『戦争資料展』 in岩倉市民ふれ愛まつり

11月8日、愛知県岩倉市で「市民ふれ愛まつり」が開催されました。
市主催の「文化祭&収穫祭」ともいえるイベントに、今年は戦後70年企画で『戦争資料展』を開催。
そこに、「岐阜市平和資料室からの出展展示」と、「平和講座の開催」を依頼され、当会の篠崎・中島が行ってきました。

『戦争の時の子どもたち』は、岐阜市平和資料室の2014年度・企画展。好評を博して、この秋は岩倉へ。
 資料室にある「もんぺ」や「防空頭巾」も、出張して見ていただきました。


戦時の子どもたちの、「食べ物もない」「将来の夢も制限された」ことを伝える展示パネルを、岩倉の子どもたちや若いお父さんお母さんたちは熱心に見入っていました。
岩倉市は、戦時の空襲はありませんでしたが、戦争を伝える語り部さんが活躍する、平和教育に熱心な「平和宣言都市」です。
平和講座では、日本中をおそった空襲の焼夷弾攻撃の話に、市民の皆さんは真剣に聞き入っていました。
「資料展は初めての試み」だったそうですが、とてもなごやかな雰囲気で行われたイベントでした。


写真)恒例の「戦時の中学1年生と背くらべ」。右の女の子は小4、左の男の子は小6。制服の女の子はイラストと同じ中1です。みんな大きいね-。
(右/写真)焼夷弾(しょういだん)の落とされ方。図解と、焼夷弾筒の実物を見てもらいながら説明します。






全国から集まる平和博物館の研究報告会、
「子どもに分かりやすく」の岐阜の取り組みが注目されました。

~『平和のための博物館ネットワーク』全国交流会2015



(左/写真)岐阜の平和資料室について、10年ぶりの報告。
(右/写真)報告会あとの、懇親会。全国の平和資料館関係者がなごやかに。

  
『平和のための博物館ネットワーク』は、戦争や平和をテーマにした博物館・資料館に協力する市民が、横の連携を強化して、より良い展示や資料館を作っていこうというネットワークです。
その第14回目の全国交流会が、10月24日、愛知県のピースあいちで開催されました。
東京・大阪はもちろん、広島・長崎・沖縄からも参加して各地からの報告が行われます。
各地の資料館の最新の取り組みや、抱える課題もさまざまでとても勉強になります。
ここで、「資料館」ではなく小さな「資料室」ですが、岐阜からも報告をさせていただきました。

実はこのネットワークでの岐阜からの報告は、2回目。
1度目は10年以上前、岐阜市平和資料室のオープンを篠崎先生が発表し、「地方都市では快挙」として全国の皆さんに祝っていただきました。
今回はその後の経過、小さいながらも岐阜が取り組んできた『子ども世代への普及』について報告しました。
子どもでもひと目で分かる図解や写真を用意すること、画像が無ければマンガや再現画を起こすこと、平和講座では体験型を取り入れること…。
また公立の資料室では難しい、戦争の加害部分の展示についても、政治問題にならないやり方でチャレンジしていることなどを、岐阜の課題や限界とともにお話ししました。
報告・意見交流会の後は懇親会も行われましたが、「小さな施設でも、発信は広いですね」と声を掛けていただきました。
沖縄や広島、東京、阿智村の方々ともこれから交流していくことになりそうで、とても楽しみです。(レポート 中島)





東京の全国大会で、
「子どもに伝える」岐阜の企画展を報告しました。

『空襲・戦災を記録する、全国連絡会議』2015東京大会



全国各地の、空襲や戦災を記録し、伝えている研究者たちの報告発表会が、今年も東京で行われました。
8月22~23日、東洋大学で行われた会議で、岐阜空襲を記録する会からは中島裕子さんが報告を行いました。
戦争を伝える『継承者』としては全国的にも若手で、
報告内容も、「子ども世代に伝える、広告手法を使った取り組み」と、異例の内容です。

岐阜平和資料室などで企画展を作っているのは全員が広告制作をやってきたスタッフです。
この広告制作のノウハウが、小さな子どもに『戦争とはこんなものですよ』と伝えるのに、大変役に立つことが多いのです」
と、子どもに分かりやすく見せるノウハウや、実例のグラフやイラスト、パネル例などをスクリーンで紹介しました。
小規模な展示室での工夫や、また悩みや課題などもありのまま報告しました。報告後は
「岐阜は進んでる!」 「うちもパネルを借りられないか?」と、大きな反響でした。
コピーライターの中島さん、イラストレーターの林さん、CGクリエイターの加藤さん、
3人の女性継承者が、これからも子どもたちが飛びついて見てくれるツールを作ってくれそうです。






本巣市「戦争と平和」展に協力しました

 本巣市では「非核平和都市宣言」を受けて、昨年から図書館しんせいほんの森で「戦争と平和」展示を行っていますが、
今年も当会作成のパネル「戦時の中学生日記」をお貸ししました。
 展示は、8月1日から月31日まで、小・中学校の授業において戦争と平和について学ぶ学習場面を国語・社会・図工の教科書などを使って紹介、
また本巣市の「非核平和都市宣言」の解説もされていました。戦後70周年に相応しい、わかりやすい展示にでした。








平和展-戦後70年 未来にむけて」展に参加

 市民らで創る市民団体「支援グループ岐阜・手と手」の平和展に今年も協力参加しました。
ハートフルスクエアーGで8月11日~16日、日本国憲法の平和主義、国会で審議中の戦争法案、
原発再稼働問題とともに、岐阜空襲を記録する会は、「岐阜空襲と子どもたち」をテーマにした展示を行いました。

 


「支援グループ岐阜・手と手」(代表丹原美穂さん)は、8月15,16日、「70年未来へのキャンドル」として、
JR岐阜駅信長ゆめ広場で200本のキャンドルと、子どもたちの平和メッセージ300本を展示しました。
通行人も参加して点火された灯りは、平和への願いを込めて、何時までも輝いていました。









70年岐阜空襲「平和の鐘の日」 全市で追悼、平和の誓い


<現正寺>
 
7月9日は岐阜空襲の日。 午前9時、権現山の時鐘楼の鐘鳴を合図に、市内130の寺院・教会でいっせいに鐘の音とともに平和の祈りが捧げられた。寺院が集まる矢島町現正寺周辺では、鐘の音に半鐘、木魚のさながらオーケストラがしばらく続き、荘厳な雰囲気に包まれた。
 
7月9日岐阜新聞夕刊


<美江寺観音>

美江寺観音では「千灯会」
空襲で本堂は焼け、先々代住職の活躍でで危うく重文の十一面観音を救い出した美江寺観音では、恒例の「千灯会」、この日の犠牲者を偲び「1000箇のろうそくの明かりをともす。朝方の激しい雨も収まり、20人余りの協力でたちまち灯明の参道となった。


7月10日中日新聞





記憶がよみがえった岐阜空襲-ささゆり文化講座

8月8日、「ささゆり文化講座」に招かれました。
ここでは、新しく編集した岐阜空襲DVD「『[芽ぶけけミヤコよ」から』を観た後、
岐阜空襲に関してのさまざまな絵やや写真を使って、悲惨で愚かしい戦争の時代について
考えてもらいました。
多くの方は戦争を体験されたり、記憶をお持ちの方で、うなずきながら聞いててくださっていました。
「今の政治はおかしい。絶対、戦争はしてはいけない」と話してくださった方もいました。







岐阜の子も、フクシマの子も、
地元のおじいちゃんもおばあちゃんも!
(

 ~円徳寺で『キッズな』特別講座


↑「みんなで平和の大切さを学びましょう」主宰の若岡さんがあいさつ。 

8
月1日、岐阜市中心部の円徳寺で、平和学習会がありました。
主宰の『岐阜キッズな(絆)支援室』は、東日本大震災で岐阜に避難した家庭の子どもや地元の子どもたちに、無償で学習支援をしているグループです。
「戦争と平和を学ぶ」を夏の特別講座には、子どもたちに加えて地元のおじいちゃんおばあちゃんたちも大勢集まりました。50人。
  
故郷を焼け野原にした「岐阜空襲」と、戦争の時の子どもたちのお話を聞いた後は、参加の皆さんからの意見発表タイム。
『空襲の日、「防空壕には入るな。逃げろ!』と教えてくれた人がいたから、助かった。入っていたら死んでいた」
「私の父は兵隊で中国に行った。その時のことを聞くと、いつも目が泳いでふるえていた」
空襲体験や、家族の戦争体験が次々に語られました。
一番大きな拍手が起こったのは、小学6年生の女の子の意見でした。
「こんなにひどい戦争を経験してみんなが戦争イヤがっているのに、なぜ安部総理は戦争の法律を作るの? あんな人を総理大臣にするな!」
選挙権を持つ私たち大人が、責任を痛感すべきですね。





 
平和について考えました- 市労連「平和展2015」

34度の猛暑のの日でしたが、子どもさんからお年寄りまで幅広い年齢層の方たちが集まり、熱心に聞いてくれました。
 7月25~26日、岐阜市民会館2階で開催された岐阜市職員労働組合主催の「平和展1925 私たちのまちの空襲」の催しです。
33回目になる伝統の行事です。アニメ「ガラスのうさぎ」上映や「折り鶴コーナー」「読書コーナー」などが設けられていましたが、
岐阜空襲を記録する会は「戦争のころの子どもたち」のパネル展示と、岐阜空襲DVD『芽ぶけミヤコよより』上映、「あれから70年 岐阜空襲と子どもたち」の講演で協力しました。
 夏休みの一研究の参考にと熱心に記録する姿も見受けました。体験コーナーにも積極的に参加してくれました。
違憲の戦争法案が強行採決され、平和国家があやうくなろうかという時、70年前の戦時の悲惨で愚かしい出来事をどのようぬ受け止めてくれたのでしょうか。










シイテイタワー43で岐阜空襲写真展と杉山幹夫講演会


シイテイタワー分譲住宅部会委員会では、「70周年をを迎えるにあたり、あたためて戦争の悲惨さ無意味さを知る」ために終戦特別企画実行委員会が主催して、
岐阜空襲写真展と、「杉山幹夫 戦争を語る」催しを開催されました。

写真展(7月6日~12日 5F集会室))には、岐阜市及び岐阜新聞、岐阜空襲を記録する会所蔵のパネルが部屋の4面いっぱに展示され、
DVD「私たちの街が焼かれた」も映し出されました。参加者からは「資料館へ行ったよう」との声も上がり、一般の市民からの見学もありました。

前岐阜新聞社長の杉山幹夫さんの講演は7月12日、会も招かれパネルに囲まれたその部屋でお聞きしました。
話題が豊富で戦争の時代から今日までの長く生きられた時代を、民主主義と平和を守るジャーナリストの視点から語られました。
ジヨークをまじえながらのあっと言う間の90分でした。自治会や管理組合でのこのような催しは、初めての経験でした。






「逃げるな!」---国民を守ろうとしなかった
       70周年語り継ぐ岐阜空襲---岐阜市文化センター


 
退職教職員互助会岐阜支部がはじめて市民にの参加を呼びかけた「なごやか文化交流」が、7月3日岐阜市文化センターで開催されました。
 ステージでは「女性のうたごえ コスモス」など3団体、展示発表では「岐阜円空を掘る会」など4団体が参加しましたが、
岐阜空襲記録する会も70周年の取り組みの一つとしてステージ発表に参加しました。
時間に限りがあったので、空襲に対しての軍・県市、町内会の行った防空対策に絞り、火の雨に対しての対策はほとんど無効、むしろ犠牲を多くしたことを写真などを使い説明しました。








「平和の鐘」に参加の中央中学

今年も「岐阜空襲・平和の鐘の日」が近づいて来ました。
岐阜中央中学では、毎年1年生が権現山時鐘楼前の戦災犠牲者を悼み平和を誓う式典に参加します。
今年は70周年、その事前学習として、6月30日平和講座に招かれました。

前半は、写真や表を使い岐阜空襲の実態や歴史的位置づけ、後半は、食糧不足や開墾農作業、勤労動員に軍時訓練など、
当時の子どもたちが戦争という時代に翻弄されながら健気に生きようとした時代を紹介しました。
全時間がプールでの水泳の授業だったにもかかわらず、集中して聞いてくれました。
生徒さんからは、こんなにひどい時代だとは知らなかった。もっと勉強して他の人たちにも伝えていかなければととの感想をいただきました。
当時の中学生の平均身長との背比べに大勢参加してくれました





長良小学校の全校児童が参加。
「ようこそ篠崎先輩!」


「これが、『しょういだん』?」 「すご~い」 



◆6月10日 長良小学校       <レポート:中島>

長良小の全校児童が参加する、『先輩に聞く』という行事です。
大塚校長先生の招きでこの日、お話しをしたのは当会の篠崎先生。
長良小の卒業生です。
しかも、太平洋戦争が始まった年に、長良国民学校と名前が変わった年の1年生。
5年生で戦争が終わるまで、この学校で徹底した戦時教育を受けています。
 
また校長先生にとっては、高校時代の恩師にも当たるとか。
平和講座は、二人の先生の対談でスタートしました。

 「昔の長良は、どんな様子でしたか?」
「子どもたちはどんな学校生活をしていましたか?」
「『くうしゅう』って、何でしょう」
校長先生の質問に、米軍撮影の航空写真を解説したり、戦争していたころの長良の子どもたちの写真を見てもらったり。
背くらべともんぺコスプレ体験では、いっぱいの手が上がりました。
焼夷弾の実物は、後列の子どもたちには近くで見られなくてゴメンナサイ。
「戦争が恐ろしいものだと分かりました。やらないように、自分たちがしていきたいと思いました」
代表の男の子が最期に、力強いメッセージで締めてくれました。
 
※この日の平和講座には、NHK・東海テレビなどテレビ局2社、中日・朝日・毎日の新聞社3社が取材に訪れました。
 お昼と夕方、また翌朝に、大きく報道していただきました。 

↑国語の教科書で見た、「ちいちゃんのできあがり~」。「わあ~!」

後日、丁寧な校長先生からの礼状と、子どもさんからの感想文をいただきました。どれも自分のの問題としてしっかり受け止めてくれていて、嬉しく読ませていただきました。その一部を掲載します。

◆ わたしは、お話を聞いて特に思ったことが二つあります。
 一つ目は、せんそうはきびしくてこわいなあというふうにあらためて思いました。これまでに国語でせんそうにかかわる物語文はありました。だけど、今回聞いたお話は本当にあったことだから、今までにない悲しさやこわさが伝わってきました。
 二つ目は、自分がもしそのときにいたらどうなっていたのかなと思いました。それは、最後に見せてくれた写真からそう思いました。その写真は、お兄ちゃんが弟をせおっているすがたです。わたしも妹がいるので、自分かもしそうだったらどうなっているのかなと思いました。
 今回とても勉強になりました。これからもこのことをむねに平和な世界でいたいです。
(4年 S.Iさん)

◆ わたしは、戦争中は食べる物がなかったり、食べれるとしても少ししか食べれない、というのが一番いんしょうに残りました。今、わたしたちはあたり前のように食べているけど、戦争中は苦しい生活をしていたので、一番いんしょうに残りました。
 ばくだんがおちていく写真がこわかったです。飛行機から雨のようにどんどんばくだんがおちてくるからです。そんなふうにばくだんがおちてくる場所で生きのこれた人はすごいと思いました。
 一番びっくりしたのは、70年間戦争をしなかったことです。 70年前には長い戦争をしていたのに、戦争がおわってからは争いがなくなって、平和にくらしていたからです。きっと、もう戦争というものはなくそうと、一人一人が思っていたから、70年間戦争をしずにすごせたと思います。これからも平和にすごすためには、一人一人が戦争はなくそうと思わないといけません。だから、一人一人が戦争はなくそうと思ってすごしていきたいと思います。そして苦しい思いをする人がなくなってほしいと思いました。 (5年 K.Hさん)
 

◆ 私は、はじめ戦争はとおい昔の話だと思っていたけれど、先生のお話を聞いて、今生きている人が体験した話だから、そんなに昔じゃないなーと思って、まだ小学生なのに、戦争の訓練をして一番楽しみなうんどうかいなどもなくなって、私より小さい五年生の男の子は、赤ちゃんをせおって、ただ火をみつめているだけだけど、そこから戦争に対する強い思いが感じられた。やっぱり、私は戦争はいけないと思う。一つのバクダンで、何万人もの罪なき命がうばわれ、でも戦争はつづくばかりだから、悲しいことがつづくだけで、楽しく喜べることが一つもないので、なぜ二の時代の人は戦争をしたのだろう?と疑問に思いました。(6年Y.Nさん)





「野に太陽はふりそそぎ---」
平和な世の中を続けていきます



   「これが焼夷弾の実物!」                        戦争中の、中学3年生と背くらべで。

◆6月6日 長良中学校


 長良中学特別授業に、今年も招かれました。
3年4組の生徒さんたちは、とても探究心が旺盛。紹介する資料写真1枚1枚に、しっかりメモを取ります。
中学生には難しい、戦時の国際情勢のについても、2時間余りにわたって熱心に耳をかたむけてくれました。
講座の最後には平和への願いも込めて、生徒歌(校歌ではなく、生徒歌が、同校の伝統です)の
『野に太陽はふりそそぎ』を熱唱してくれました。
同校の第1期卒業生でもある、講師・篠崎先生も、大喜びで一緒に熱唱してきました。
ここで始まった戦後の民主教育や、「あたらしい憲法のはなし」の学習に納得したとのことです。









岐阜市内、4校の中学校で平和講座を。
「戦争では、ふるさとにも火の爆弾がふりました」



3月12日 岩野田中学
 2時限の時間をいただけたので、70周年に向けての改訂版DVD『芽ぶけミヤコよ』を見てもらいました。
さし絵と記録写真で紹介する『岐阜空襲』の記録は、声も映像もクリアになり、戦争を知らない人にも分かりやすなっており、
生徒さんたちは興味しんしんで見てくれました。
『戦時の中学生』のコーナーでは、当時の中学2年生の平均体重が、40㎏に満たなかったことに、生徒さんたちは驚いていました。


岩野田中学で。戦争時の中学生イラストとの『背くらべ』に、背丈自慢の子たちもチャレンジ。格差くっきりです。

3月13日 精華中学
 
この精華中学校区は、戦時にアメリカ軍の爆撃を受けたところ。
今、自分たちがいる場所に焼夷弾(しょういだん/燃える爆弾)がバラバラ落ちている航空写真を見て、生徒さんたちは驚愕していました。
精華中2年生は最大規模の7クラス、2時間の間、集中して聞いてくれましたまたこの日は、当会・篠崎先生の80歳の誕生日。
テレビ局2社(岐阜放送・メーテレ)、新聞社2社(岐阜新聞・中日新聞)の取材とロケを受けながらの平和講座でした。

 後日、精華中の生徒さんの感想文が各クラスから送られてきました。どれも長文で、講座の内容をしっかり受け止め、これからの
生き方にも触れるレベルの高いものでした。今後の平和学習に期待します。


精華中学で、戦時の中学生がやっていた『銃剣訓練』を再現。
  「もっと腰を入れて!」「突けーっ!」号令が飛びます。今の時代だと生徒さんたちもなごやかですが、人を殺すことを学校で教えていたのです。。



★4校の中学校平和講座での、篠崎先生のまとめの言葉です。
「私は子ども時代の最初の10年を、戦争のまっただ中で過ごしました。
岐阜だけでなく日本中が焼け野原になって、その後70年、平和が続いています。この70年続いてきたことの意味を、皆さんこれからも考えていってください」







岐阜空襲70年を機に DVDを改訂、空襲被害マップ、空襲遺跡マップを作成しました

 DVDは①絵本『芽ぶけミヤコよ』をもとに30数年前に作成した「岐阜空襲の記録-『芽ぶけミヤコよ』より」(27分)、画面も河村たか子さんの語りも全面的に作り直したもの、②ドキュメンタリータッチで岐阜空襲の概要を示す「私たちの街が焼かれた」(32分)も30数年前に作成した「岐阜県下の空襲」を全面改定したもの。それに空襲直後米軍偵察機が岐阜市の上空から焼け跡を撮影した「焦土:岐阜」(4分)を合わせたものの2本。平和講座で訪問した学校などにお渡ししています。

「空襲被害マップ」、「空襲遺跡マップ」は岐阜市の地図上の点をクリックすると、その位置から写した写真が見られるようにしたもので、空襲直後の情景や現在も残る空襲遺跡を見ることができるものです。当面平和講座などで使うつもりです。
 どちらも、たとえば岐阜市平和資料室(改訂前のものならビデオで見られます)など公開の場で、どなたにでも自由に見ていただけるようになることを願っています。







開館13周年 「ハートフルフェスタ2015」で 活動発表展示

 1月12日から開かれた「ハートフルフェスタ」で、今年も活動紹介のパネル展示をおこないました。
 70周年の節目の年、岐阜市空襲被害マップ、戦災遺跡マップ(パワーポイントで利用できます)の作成や、
30年ぶりのDVD「『芽ぶけミヤコよ』より」と「私たちの街が焼かれた」の全面改訂版の作成などを紹介しました。


 







<行ってきました! 学校・平和講座2014>




”平和展-戦後69年の不戦と今-” に協力しました



 「支援グループ岐阜・手と手」がアクティブGのコナミスポーツ前で9月11日まで平和展を行いました。
戦後の戦争と平和を巡る動きを、まとめた年表と、会の空襲関連パネルなどを提供しこの企画に協力しています。
「我が家の場所がこんなだったの?」など、驚きの声が上がっていました。







『米軍資料研究』の全国大会で、発表しました。08/22



 毎年8月に行われる『空襲・戦災を記録する会 全国連絡会議』は、今年は神戸で開催されました。
並行して、『米軍資料の調査・活用に関する研究会』も行われます。
アメリカ国立公文書館から随時公開される戦時資料を、解析・研究して、全国で情報を共有するためのものです。
今年は岐阜から、中島裕子さんが報告・発表をしました。
昨年入手した資料写真の分析と、それを活かした展示づくりについです。
米軍の新公開・爆撃写真に対応して、日本側の迎撃態勢まで明らかにしたこと、
また岐阜の展示の特徴でもある、証言から再現絵をつくって、子どもに分かりやすい展示を作ったことなどを。
全国の研究者の皆さんから、「これは子ども世代にアピールできる」と、たいへんお誉めいただきました。







[岐阜空襲を記録する会」の活動が紹介されました。 『岐阜新聞』8月10日号








戦争と平和・憲法」の平和展に協力しました

 
7月26・27日岐阜市民会館で開かれた、岐阜市職員労働組合連合会主催の「平和展2014」に、当会も協力しました。
地元でもあった空襲の惨状の中から、平和の大切さを伝えようようという企画でした。

 7月27日中日新聞






私たちの、町も学校も焼かれた…。

6/25 梅林中学





↑(左) 空襲で焼かれる前の、梅林校区を空から写した写真を見てもらいます。
↑(右) 戦争していたころの、中学3年生と背くらべ。みんな大きいですねー。


  
 梅林中学の3年生が、ヒロシマへの修学旅行を終え、「平和学習の仕上げ」として地元の戦争を学ぶことになりました。
岐阜駅に近いこの地区はしないで最も早く爆撃を受けたところで、昨年公開したばかりの、米軍の爆撃写真にも写っている地域です。
この日は、まずアメリカ軍が空撮した爆撃前の写真を見てもらい、空襲の仕組みと町の惨状もスライド上映で見てもらいました。
その後は恒例の、生徒さん参加の『戦争中の中学生』の時間。多くの生徒さんが参加してもりあがりました。
 「戦争が起こったら、いま自分たちがいる場所も攻撃される
 「子どももおとなも、ふつうの人が犠牲になる。戦争は絶対に起こさないようにします」
生徒さんを代表して、力強く宣言していただきました。





「戦争には、正しいものもありますか?」「正しい戦争など、ありません!」

 6/26 川島中学
 



↑「腰をすえてかまえてー。はい、突撃ーー!」 戦争中の中学校でやっていた、『軍事教練』の再現です。

 各務原市の川島中学で、9月広島への修学旅行を前に、今年も平和講座がひらかれました。
2時限の時間をいただけたので、『戦時の子ども』の内容もたっぷり。戦争で戦う訓練の、再現なども行いました。
また質疑応答がゆっくりできたので、そのなかから、中身の濃かったお話を2つ紹介します。

生徒さん 「戦争を起こさないために、ぼくたちでできることはありますか?」
篠崎  「今日で終わらず、この問題に一生関心を持ち続けてください。戦争と平和について考えることは、『人間とは何か?』を考えることとほぼ同じです。
たくさん本を読み、新聞に目を通して、この問題は一生にわたって考えていってください」
生徒さん 「分かりました。そうます」

生徒さん 「戦争は、良いか悪いかで言えば、悪いものですが、でも正しいか正しくないかで言うと、正しい戦争もなかにはあるのですか?」
篠崎  「戦争は、起こす時には必ず正義の理由があります。宗教を守るためであったり、領土を守るためであったり。歴史上、常にそうです。
でも犠牲になって命を落とすのは、ごくふつうの市民たちです。正しい戦争など、どこにもありません」
生徒さん 「分かりました!」

「分かりました!」の声が講堂に力強くひびき、その後、生徒さんたちの感想文は素晴らしい決意がつづられていました。(レポート:中島)

↓そのほか、川島中学・平和学習のひとコマです。


後日、川島中学から生徒さんたちの感想文が届けけられましたどの作品も単なる感想だけでなく、今後何を行うべきか、真剣に模索するすぐれたものがほとんどでした。すべて掲載したいのですがそうはいかず、その一部を紹介させていただきます。

◆ 今まで体験した人の口から聞いたことがなかったので、教科書で読むことよりもいろいろな細かい状況などを想像して聞くことができてよかったと思います。教科書で読んで知った戦争はすごく遠い昔で、すごく遠い国の話みたいな感じでしたが、実際に体験したこと、自分達が今いる各務原市にどんな被害があったのかを目で見て直接聞くことで、その被害の大きさが、具体的な形で理解することができました。(中略)
 テレビのニュースを観て最近、「このままではまた戦争になってしまうのではないか?」との考えが自分の中にあります。『集団的自衛権』やじゅうなどの武器輸出ななどのニュースを見てそう思いました。日本は平和な国として戦後を生きてきたのに、これでは何のために大勢の人が戦争で死んだのかわかりません。私は大勢の人が落とした命は、私たちが戦争の悲さんさを忘れないようにするためのいのちだと思います。(NEさん)

◆ (前略)私たちが住んでいるこの各務原市にも爆弾が落とされ、岐阜市やその他の地域にも落とされたことがわかりました。岐阜空襲は、このへんの地区よりも被害が大きかったことを知りました。何にも関係のない住民や人々を戦争によって失っていることに、私は戦争が間違っていると思いました。私たちがすんでいる日本は今、戦争の時代に生まれたり、生きていた人々の経験、また戦争をしているときの思いが残っているからこそ戦争のない平和な時をくらしているんだなと思いました。
 また、今後も昔のような戦争をしないようにするためには、私たちが戦争のことを学んで次の世代の語り継いでいくことで、戦争による悲しみから平和であることの感謝を得て、平和な社会になると思います。(AKさん)

◆ (前略)昔、あんなことがおきていたことを、今日講話をうけるまで知りませんでした。今があたりまえじゃないこと、幸せなことを改めて感じました。心が痛む話だったけれど、間違ったことを昔していたということは、絶対に忘れてはいけないことだと思います。そしてこれから私たちが伝えて行かないといけないと思いました。同じことをもう繰り返しちゃあいけないし、これこらこんなことが二度と起こらないように、これからもっと平和について学んで修学旅行に行けるようにしたいです。(NYさん)

◆ (前略)今も南米やアフリカの方で戦争が続いています。私たちに政府などの大人のを止める力はありません。だけど、大人たちの始めた戦争で罪のない子供などが亡くなるのは止めたいです。戦争下で衛生環境の悪化などにより病気にかかった子のために、キャップを集めてワクチンを提供するなど、けっこう直接役に立つこともできるので、そういうところでもがんばってみたいと思いました。(STさん)

◆ (前略)また、篠崎さんのはなしのなかに、「正しいことほど強いものはないということに気づくのが遅すぎた」という話があった。僕は15年しか生きていないし、戦争を経験していないけれど、その通りだと思ったし、世界中の人が同じ考えを持ち、それに気づく事ができれば、「平和」に少しでも近づけると思った。何も知らないからこそ、知る必要があると思うし、次世代へ広げていかなければならないと思う。今後も、「平和」について考えつづけていきたい。(KIさん)









竹槍訓練に勤労動員、本土決戦を覚悟し、子どもも忙しい毎日でした
              母校:長良中学で平和講座

 6月5日長良中学へ行ってきました。今年から始まった年10回の「土曜日等における教育活動」日、全学級が学級独自の活動を行う『 夢ふれあいの日 』に、3年2組に呼ばれたからですs。
 長良中学は篠崎の母校。終戦の翌々年1947年4月、新教育制度6.3制のスタートによって開校した長良中学の1期生、懐かしさ一杯で校門をくぐりました。、ファシズム教育から民主教育への180度の転換、校舎が無く分かれて間借りしての開校、おどろきながら読んだ文部省「あたらしい憲法のはなし」、戦後も続く物資不足の生活難、始めて体験する生徒会活動、,など話したいことは山ほどありましたが、米軍撮影の航空写真を使って戦争末期の長良の状況から話しました。勤労動員で長良国民学校の校庭を開墾して作った畑、旧制岐阜商業や師範学校の校庭にも確認できました。長良川右岸川原にも、県営運動場(今のメモリアル センター)にも私たち国民学校生が開いた畑が写っています---。
 生徒さんたちは2時間もの間、集中して聴いてくれました。また、当時の中学生の生活体験にも積極的に参加してくれました。終わってお礼にと歌ってくれた合唱のボリュームとハァーモニー に思わず拍手でした。65年前に戻った想いでした。

  






ようこそ岐阜県へ!
大阪の修学旅行生に、初めて平和講座
 



★「世界の国々と、憎しみではなく、友情を育てていきます」
 力強い、平和宣言もいただきました

  
5月17日、大阪から市立八阪中学3年生、4クラスの生徒さんが、修学旅行で岐阜県を訪れました。
郡上踊りで有名な郡上八幡を拠点に、歴史・文化と、ラフティングなど自然を満喫するスポーツを体験する3日間です。
その1日目の夜、「平和の尊さを学ぶ時間を、ぜひ作りたい」との、学校からの希望で
当会が宿泊先のホテルまで出張して、平和講座をひらきました。

「皆さんの住む大阪は、大都市ですから、米軍はいち早く攻撃しました。でも岐阜市のような小さな町まで、戦争中は日本中が焼かれたんです」
お話は、空襲と、戦争中の子どもや中学生のこと。
「皆さん今夜は、おいしい夕ご飯いっぱい食べたと思います。でも戦争していた頃は、食べ物がなくてみんなお腹をすかせてたんですよ」
「学芸会や運動会もなくなって、修学旅行なんて夢のような話だったんです」

講座の最後には、生徒さんを代表して「平和の誓い」と、千羽鶴を献納いただきました。
私たちは、地球を平和に満ちた緑の星にするために、毎日の生活の中で、平和をつくっていきます。
中学生のりりしい宣言に、思わず拍手!
いろんなことを学びに、岐阜に来てくださってありがとう! またぜひ来てくださいね。

 
↑戦争していた時代の、中学3年生(平均身長)と背くらべ  ↑いただいた千羽鶴は平和資料室に展示しました。
, 食料不足のために、小さかったのです。             中央の赤黄緑が明るいもの。

平和の誓い

私たちは、
21世紀の二の地球上に平和を生み出寸ためには
広く、大きな心が必要ではないかと思います。
世界の中に敵を作り出すのではなく、
対立と不振の溝を相互理解によって埋め、
自らの在り方を反省しながら、互いに助け合い、具に生きていく
その上うな努力をすべきだと考えます。
私たちは、
地球を平和に満ちた緑の星にするために、
毎日の生活の中で、平和をつくっていきます。
人に対し、怒りではなく、微笑みをもって接します。
互いの命を大切にしていきます。
自ら反省し、理解しあい、許しあっていきます。
愛と信頼の心を持って、助け合っていきます。

以上のことを誓い、私たちの作った千羽鶴をお届けします。
    20T4年5月17日
          大阪市立八阪中学校3年生一同


後日、その後書かれた生徒さんの感想文も送っていただきました。





朗読の会 たんぽぽ 「芽ぶけミヤコよ」の群読会

 朗読の会 たんぽぽのみなさんは、5月23日大洞の生協虹の家での公演に、「芽ぶけミヤコよ」を使われました。これは30年前に岐阜空襲を記録する会が東京法令出版から出版し、全国学校図書館競技会選定図書に指定していただいた絵本です。
8人の方々がそれぞれに、岐阜空襲の火の海のなかで過ごした人たちの必死の様子を、感情を込めて丁寧に語ってくれました。30人ほどの聞き手は、最後まで集中し聴き入っていました。
 69年経ってもまだこうして読まれ語られるあの戦争、その後一度も戦争を経験することなく、一人の犠牲者も出していない平和を刻んできた歴史を,改めてかけがえのないものと確かめることができました











やりました!羽島北高、放送コンクールで岐阜県1位に。→全国大会へ

羽島北高放送部は、当日収録した岐阜空襲を記録する会の活動を編集し、NHK全国放送コンテストに出品しました。
6月7日岐阜県地方大会で審査が行われ、見事ラジオドキュメント部門で県内1位に入賞しました。直向きに取り組まれた成果です。
空襲体験の継承が、若い人たちの手で取り組まれていくのは、大きな喜びです
7月22~24日 の全国大会への出場も決まりました。一層の健闘を祈ります。



<岐阜市平和資料室へいらっしゃい!> 羽島北高・放送部のみなさんが収録に!


  ★「平和を伝える活動で、番組をつくります」

4
月26日、羽島北高校・放送部の皆さんが、平和資料室にやってきました。
目的は、番組づくり。
当会のホームページで『平和講座』の様子を見て、「面白そう!」と思ったとか。
岐阜で起こった空襲や、当会の平和を伝える活動で番組を作り、
今年の夏に行われる、放送コンクールに応募されるそうです。

当日は、資料室の解説とともに、機材を動員して収録。
全員で輪になって、戦時のいろんなお話も聞いていただきました。
さてどんな作品ができるのでしょう。とても楽しみです!


後日参加された生徒さん全員からからの感想文、「取材を通して感じたこと」をいただきました。3年Oさんはこう書いてくださいました。

 私は、取材をするまで岐阜に空襲があったことを知りませんでした。岐阜県民なのに、歴史好きなのに。本当に全く知らなかったので、今回お話や展示物を見たり、いろいろ知ることができて、貴重な体験をさせていただきました。今まで何度か平和学習をしてきて、被爆された方のお話や、戦争のおそろしさを学んできましたが、いつも話を聴くと、言葉に表しにくい何かと共に涙が出そうになります。怖いし、モノも何もない上に、弱音を吐けない自分だったら・・・と思うと、この時代はとても苦しかったと思います。新聞紙をパフの代わりにしたのもとてもおどろきました。
 現在、日本は戦争のない平和な国です。モノもありふれています。それは、あの時代を生きた人がいるからこそです。今、生きていられることにとても感謝しなければならないのに、現代の人は戦争があったこと自体の意識が薄いと思います。戦争がなく、死を恐れることも滅多にないし、モノもあふれています。
 なのに、私を含めた現在の若者はなまけすぎです。私はそう思います。はずかしいです。もっと頑張らなければならないのに、もっと勉強しなければならないのに、もっと感謝して、幸いになればいいのに。もっといろんなことに全力で取り組まなければいけないのに、目の前の誘惑に負けてしまいます。
 不謹慎かも知れませんが、私はわりと戦争の時代のことを学ぶのが好きです。上記のことが思えて頑張ろう!という気持ちになるからです。なので実際の展示物、焼夷弾の模型、もんぺ、パネルなど沢山のことが学べてよかったです。(以下略)







岐阜市教育委員会より
 「岐阜空襲を記録する会」が表彰されました

 

岐阜市教育委員会が主催する表彰式が、2013年11月1日、岐阜駅ハートフルスクウェアGにて行われました。岐阜市の教育、学術および文化の振興発展に貢献した人や団体に贈られる賞の、社会教育の分野で「岐阜空襲を記録する会」が表彰をいただきました。

 当会は約40年、事務局長の篠崎らがこつこつと戦時の記録を集めて公開してきましたが、今回は小中学生に向けた平和講座など、『次世代への継承』分野での表彰です。
 贈呈式では後藤委員長が、「戦争体験を語り継ぐ活動に尽くされ…その功績は大なるものがあります」と読み上げて、賞状が渡されました。
 平和を語り継ぐことが今の子どもたちに有益である、と教育機関に正式な評価をいただけたことがとても嬉しく、スタッフ一同晴れやかな一日でした。(中島:記)










「岐阜空襲を記録する会」の活動報告パンフができました
 

このたび当会の活動や、展示品を紹介する冊子を作りました。
 東海近代史研究会発行の『東海近代史研究 第34号』に会の活動報告執筆を依頼され、その原稿に表紙などを付けて分冊にしたものです。
 B5版オールカラーの12ページ。執筆は会・学芸員の中島裕子さん。林智子さん作のイラストマンガも入ってます。
 会の38年のあゆみと、とりわけ若いスタッフが参加した近年の活動を紹介しています。子どもに分かりやすい展示づくりや、平和講座での工夫や奮闘ぶりなど。
 岐阜市平和資料室の展示品の裏話も紹介しています。ご希望の方にはお分けしています。ご覧ください。

<目次>
◆会のあゆみ
◆展示作品・刊行物
◆岐阜市平和資料室のみどころ
 ~全国でも希有な平和展示施設を支える
 ~日本の平和資料展示に散見される、課題への取り組み
◆平和をつたえる活動
 ~クリエイター女子たちの感性で今の子に伝える、「戦争と平和」










<行ってきました!学校・平和講座2013>




PTA主催『平和講座』に、若いお母さんが150人

  10月24日、岐阜市PTA第2ブロック・成人教育講演会が、西部コミセンで開かれました。
 「岐阜空襲を記録する会」が講師として招かれ、『岐阜の空襲と戦時下の子どもたち』を80分、戦時のコスプレなど体験コーナーも付けてお話ししました。

・会場には台風前の平日というのに、子育て世代の小中学生のお母さんたち(一部にお父さんも)が約150人!
公私に多忙な30-40代の女性は平和問題のイベントにはもっとも集まりにくい世代ですが、「平和の問題」を重く見てもらえたのか、ふだんの集会の倍以上の集まりとのこと。岐阜市PTA現役員でもある、当会スタッフの林智子さんをはじめ、主催者側も力を入れてくださいました。

・岐阜の空襲と戦時の子どもたちの生活を、映像や実物で説明し、当時のキーワード「日本よい国、神の国」などを紹介して、子どもたちや国民を戦争に引きずり込んでいく仕組みを話しました。
 また戦時の子どもは今の子どもと比較してどうなのか、学ぶべきところと、決してくり返してはいけないところなどを考えていただける内容にしました。

・お母さんたちからは、「岐阜に長く住んでいるのに、こんな恐ろしいことがあったことを初めて知った」
「戦時と比べて、今の子どもたちはなんと幸せなことか。一方で、この時代の子たちのたくましさ、我慢強さも見習って欲しいとも思った」などの感想が寄せられました。







5人のお母さんの感想をご紹介します。
 数日後、主催者側k集められたアンケート回答87人分を見せていただきました。その中の5人の方の意見です。

◆毎年7月9日に「平和の鐘」の鳴る時に、今まで以上に平和への思いを込めて黙祷したいと思いました。
 自分もふくめ、我が子も今の時代は情報や物があふれすぎて、戦争中に夢や希望を持てなかった子どもたちより恵まれているのに、自分の意志や言葉を持てていないように思います。
 自分の子どもにも今日の講話を少しでも伝えて、当時の事やこれからのことを考えるきっかけになればと思います。

◆岐阜出身でないので、今まであまり岐阜空襲の事は知りませんでした。
 空襲被害の話を聞いていると、ふだん車で通っている岐阜市の中心地区が攻撃されていたことが分かり、大変驚きました。
 今ちょうど憲法改正が問題となり、戦争放棄の9条が変えられようとしています。
 こんなにひどい被害を受けながら、なぜまた戦争につながる危険を冒すのか?
 今一度、一般人が大勢犠牲になった戦争の恐ろしさを認識すべきだと思いました。

◆現在、息子が大学生、娘が中学生です。
 同じ年頃の子どもたち、もっと幼い子どもたちが戦争の犠牲になったことを思うと、本当に今の生活では考えられないと思いました。
 親はどんなにつらかったか。また子供たちは夢も持てず、生きる希望も持てず悲惨な時代だったと思います。
 教育の大切さ。でも一歩間違うと恐ろしい洗脳になってしまうわけですから、決して戦争に進むような社会であってはならないと、強く意見を出せる大人でないとならないと思います。
 憲法の改正が言われている今、しっかりと平和の尊さを主張しなければなりません。よい勉強をさせていただきありがとうございました。

◆自分がこの戦争の時代に生きていたらと思うととても怖く、自分の子供を守れたか? とても心が痛みました。
 今のぜいたくさを反省し、子供達の恵まれた環境のありがたさを再認識しました。
 子供達に食料が沢山ある有り難さや、物があふれるこの時代に感謝し、大事にしなければいけないともう一度話してやりたいです。
 戦争の酷さを語る経験された方が少なくなられていくなか、私たちが知識を増やし、子供達に語りついで行く必要があるのではと、強く思わされました。

◆大人たちの間違った考えで、軍事国家となっていった昔の日本で…。そのために巻き込まれた多くの一般市民、子どもたち。誤った教育を受け、戦渦に巻き込まれ、人間らしく生きることも否定され…本当に戦争は残酷である。
 平和の今に生きる私達は、こういった先人たちの苦労を知り、二度と過ちを繰り返さないようにしなければ。
 戦争を知らない世代が多くなってきた今の時代、どうやって未来の子どもたちに平和の大切さを伝えていくか、私たちは考えなければいけないと思いました。
 岐阜空襲のことを通して、平和について家族でも勉強したいと思いました。







「辛かったこと苦しかったことは?」「戦争が終わった時の思いは?」-島中学

 10月18日、島中学1年生の国語学習のお手伝いに,スタッフ3人で伺いました。米倉斉加年さんの「おとなになれなかった弟たちに---...」の学習の発展として取り組まれたものです。
 プロジェクターやホワイトボード、遺品を使って、岐阜空襲の実態や歴史的位置づけ、その頃の子どもたちの意識や生活などを話しました。また、当時の平均身長を示した中学生の人形との背比べには、6・7人の生徒さんが参加するなど積極的でした。
 あらかじめ13項目の質問をいただいていましたが、時間の関係もあり十分お答えできませんでした。それでも7クラスの大世帯、終始真剣に聞いてくれました。






クアハウスささゆり「文化講座」へいってきました
 
 7月27日、「まちづくりと健康を考える会主催の「文化講座」に、3年ぶりに招かれました。
 「新公開写真から考える岐阜空襲」というテーマで、篠崎が空襲の瞬間を米軍機が撮影した写真で岐阜空襲の詳細を説明し、中島が学芸員の手腕を発揮した高射砲部隊、防空監視哨などの対応を分析し報告しました。詳細は,岐阜市平和資料室で公開しています。
 終わって、焼夷弾の降る先に写る岐阜高等女学校に在校していたという方が、「学校も家も焼かれたこと,忘れられません。」と話にこれらました。










岐阜空襲の日「平和の鐘」、全市に響く -現正寺では平和講座



 7月9日は岐阜空襲の日。岐阜市と岐阜市仏教会の呼びかける「平和の鐘」の日でもあります。午前9時、権現山時鐘楼前での記念行事で鳴らされる鐘の音を合図に、岐阜市内130を超す寺院や教会で犠牲者の追悼と平和を願う鐘の音が全市にこだましました。鐘の音とともに岐阜市民が68年前のあの日を偲び,平和を誓う尊い時間です。20年続く、伝統行事になっています。
 矢島町の現正寺でも十数人が集まり、交代で半鐘を経過した年の数だけ、68打ち鳴らしました。途中近くの寺からまた遠くから,山の上からさまざまな鐘の音色が入り交じって響き合い、市民の平和への思いが伝わり、厳粛な気持ちになりまます。終わって岐阜空襲を記録する会が発行した写真集を説明したり、米軍の資料などから空襲の全体像を話しました。






◆ 写真集「岐阜空襲の記録」出版しました



  岐阜空襲を記録する会としは、1974年の岐阜空襲-岐阜・大垣・各務原-」以来の写真集、美江寺観音の住職加藤弘春さんの提案で作成しました。若い人向けに手軽に見られ、残るものにしたいといという方針でA4版で一部カラーの写真22枚と簡単な解説を16ページに収めました。最近入手した米軍航空写真も加えています。加藤さんのデジタル画像テクニックで,古い写真がきれいに仕上がっています。希望者に,美江寺観音と岐阜市平和資料室で無料でお渡ししています。<平和資料室分は終了しました。


美江寺観音のホームページから見ることもできます。


新入手の米軍空撮写真の公開、掲載した写真集の出版配布平和資料室での展示(『狙われた故郷~新公開写真から見る空からの攻撃と,地上からの抵抗』はマスコミにも取り上げられ、大きな反響を呼びました。

 8月13日 読売新聞社会面
 8月12日 朝日新聞岐阜版
 7月 9日 中日新聞岐阜県版  毎日新聞社会面  岐阜新聞社会面
 6月20日 NHKTV ホットイブニング
 6月18日 岐阜新聞社会面
 情報誌『咲楽』⑺月号



  





「平和の鐘」プレ行事、体験型で喜ばれる-真性寺(長良)

7月6日岐阜市長良の真性寺で、長良九条の会の「平和の鐘」プレ行事として取り組まれた「長良の空から火が降ってきた その時子どもたちは---!」に招かれ参加しました。はじめに会から岐阜空襲の概要を説明した後、近所で体験された酒井昭八さんが防空壕に避難したものの危険を感じ火の中を逃げまわったこと,その時混雑の中で弟の手を離してしまい行方知れずとなり父親にひどく叱られたこと、また焼夷弾の火のすさまじさを実験して見せてくれるなど臨場感迫るお話をされました。続いて当時の子どもたちの発達不足を実感する背比べ、木銃での軍事訓練、もんぺ姿のコスプレなどの体験をし、戦争をしない時代のありがたさを感じ取ってもらいました。

   









本荘、精華・鏡島地域に降る焼夷弾! -岐阜新聞に大きく紹介されました

 このたび岐阜空襲を記録する会では、日本空襲研究者のニュ-ヨーク大ケリー・カラカスさんから、デジタルデーター化した空襲関係写真をピースあいちの金子力さんの紹介で入手しました。
7月9日11時45分と書き込みのある岐阜駅周辺、白山・華陽地域、本荘・鏡島地域などへの投下弾の確認でき、事後の分析に使われたと思える攻撃順を示す数字かが書き込まれたカラーの航空写真や、焼け跡を写したもの、そのほか大垣市、一宮市などのものです。生々しさに、この時この煙の下、地上では---胸の痛みを感じます。7月20日からの「子どもたちに伝える平和のための資料展」(ハートフルスクエアーG 岐阜市平和資料室)で、消失直前の写真とともに展示します。6月18日の岐阜新聞に取り上げられました。






                                                                         



★ 
各務原への1㌧爆弾の激しさも-緑陽中
 

 2月13日、各務原市緑陽中へ行きました。
 2年生4クラス、3年での広島への修学旅行、平和学習の導入です。
 鵜沼地域の団地の中の学校で、落ち着いた雰囲気がすばらしく思えました。

 ここでは川崎航空機工場など軍事施設を目標にする爆弾攻撃、
岐阜市の夜間焼夷弾攻撃、大垣市への原爆模擬爆弾と、
それぞれ狙いを変えた米軍の空襲についても話しました。

 生徒さんも関心を持ち、当時の中学生の生活に関してには積極的に参加もしてくれました。
 実りある平和学習であることを期待します。