竹中 彰元さんから学びましょう


竹中彰元さんの関係の催しが開かれました


本堂いっぱいに”彰元さんのつどい”

顕彰大会で一つの区切りをつけ、今年から真宗大谷派大垣教区主催の「彰元のつどい」と装いを新たにしています。それを反映してか、本堂いっぱいの賑やかな集まりになりました。お勤め法要の後、「彰元を支えた門徒たち」と題した大東仁さん名古屋教区強化センタ−)の講演を聴きました。

 大東さんは、まず彰元の915日の「戦争は罪悪である」の発言を取り上げ、国も新聞も「聖戦」を大宣伝する時代に全くなじまない価値観「罪悪」とはどこから来た考えなのかと問い、釈迦の言葉から学んだものを、彰元の言葉で語ったものとされた。次いで1010日の発言は「戦争は罪悪」から、これはただの戦争ではない「侵略だ」と当時の新聞から気づき、大乗の教えからも許されないと行動に出たもの、また相手国の命までも考える「彼我の生命」奪うものとして戦争を罪悪とする優しい心の持ち主だったとし、「反戦僧」と言うよりも「平和を求められたお坊さん」というべきだとされた。

 彰元を支えた門徒としては、彰元の罪悪発言に怒り罵倒した村人たちは大谷派僧侶たちと違い誰一人警察や役所に訴えず、戦争協力を強いられていた立派な大日本帝国臣民や大谷派門徒にはなれないが陰で彰元を支えていた。妹の多喜とその子照子の留置所への面会が、弱気が見られた彰元を励まし「失言ではない、仏の教え」と元気になっていく、また友人と村人が協力してつくた明泉寺地下檀徒名による「嘆願書」が大きな支えになったと思われる。これらの力があってこそ控訴審を戦い、執行猶予を勝ち取ることができた。

 彰元のちょっとでも近くにいたいという人たちの今日集まりだ、ちょっとでも近くにいたいという気持ちがあれば彰元は生きるとまとめられました。これまでより彰元さんの思想に深く踏み込んだ、考えさせられるお話でした。



と き 2009年10月21日(水・彰元さんのご命日) 午後2時〜3時30分
ところ 明泉寺(岐阜県不破郡垂井町岩手:JR垂井駅から約4`)

内 容  お勤め(阿弥陀経・正信偈)
      法話 「彰元を支えた門徒たち」 大東 仁氏(名古屋教区強化センタ−)

主催 真宗大谷派大垣教区





◎”戦時下の抵抗 反戦僧侶竹中彰元” シンポジゥム
 
○日時 9月19日(土)14時〜16時
 ○場所 真宗大谷派名古屋別院 東別院会館 (地下鉄「東別院」下車5分)
 

 ○発言 竹中彰元を尊敬する僧侶4名
  
「竹中彰元の抵抗」佐竹 哲(祐泉寺住職) 日中戦争の経過と銃後の協力体制が進む中での彰元さんの反戦発言や      処分、門徒の嘆願書などを紹介し、「戦争の時代への転機であることをを彰元はしっかり観ていた」とされた。

  
「戦争と仏教」松島 勢至(傅香寺住職) 「ただ念仏こそが真実」とされた教えに反し、昭和12年に同心報国運動を     起こし、法主伊勢神宮参拝、従軍僧派遣、貯蓄報国運動など大谷派の戦争協力の様子を映像も使い紹介された。  

  
「家族から見た竹中彰元」竹中 真昭(明泉寺住職)彰元さんの曾孫に当たる現住職さん、今は青森から長崎から、また    バス6台での参詣もあり、水洗トイレを新築したなどの報告に続き、父信雄、叔母駒月照子さんなどから聞く彰元像を    語られた。     

  
「竹中彰元と現代」稲葉當意(信願寺住職) 戦争を仏法を破る罪、また生きる道理そのものからの批判した彰元は現     代の戦争を何というだたろう。今こそ彰元に学び、仏教と人間を根っこから問うことが必要とされた。  
  
 
○「がんこなお坊さん」の漫画を書かれた森田拳次さんも「いい仕事をさせてもらった」と発言され、購入者一人一人に丁  寧な漫画入りのサインをされていました。   

 ○主催 竹中彰元に学ぶ会 
 ・事務局 風媒社 052-331-0008  大東仁 090-6078-3950
 

 
 当日、彰元さんの写った映画の一場面が、初公開されました。
 ・連休ですよね。是非ご遠方からも・・・。「ピースあいち」「岐阜市平和資料室」「竹 中彰元の明泉寺」など、名古屋への平和ツアーはいかがですかという呼びかけもありまし た。(150名ほどの参加でした)
 ・終了後「がんこなお坊さん」出版記念パーティーも行われました。





新しく 彰元さんの絵本が出版されました



「がんこなお坊さん-戦争は罪悪である−」
  
:竹中彰元に学ぶ会
   絵:森田 拳次(「丸出だめ夫」作者)

あとがきから「学ぶ会」の担当は、文章部分と資料の選定。漫画部分は、森田拳次先生が責任を持ってくださいました。森田先生も戦争を経験した方。平和を求めた彰元に対する思いは、「学ぶ会」に負けないものだったようです。「森田先生は、NHKの番組を観て、ものすごく関心を持ってくださった」と、後から聞きました。
 私たちは、彰元を通じて多くの人たちと出会ってきました。そして、もっともっと多くの人たちと出会い、彰元の願いを伝え続けて生きたいと思っています。

定価:1500円+税
発行所:株式会社 クリエイティブ21 東京都新宿区三栄町16 TEL03-3226-5290








竹中彰元さん NHKテレビに 登場しました

   「戦争は罪悪である−ある仏教者の名誉回復」
   
   10月12日(日) 午後10時〜11時
   NHK教育テレビ ETV特集番組
    
岐阜市平和資料室でご覧になれます



彰元さんの本が出版されました

「戦争は罪悪である−反戦僧侶・竹中彰元の叛骨」
  
第一章  真宗大谷派僧侶 竹中彰元
   第二章  反戦僧侶 竹中彰元
   第三章  わたしたちと竹中彰元
 
        著者:大東 仁    出版:風媒社
     頒価:本体1200円+税



「戦争は罪悪である−竹中彰元師 復権顕彰記念誌−」

   巻頭資料
   第1部  戦争の時代と平和の願い
   第2部  竹中彰元師 復権顕彰大会
   巻末資料

        
発行  真宗大谷派大垣教務所
     
頒価  600円







「岐阜市平和資料室特別企画展」公開中

 お坊さんは
 「戦争はもう止めなさい」と云った。
 そして警察につれていかれた。

 
    
”反戦を貫いた僧 竹中彰元”

 
岐阜市平和資料室・友の会は2004「国民学校の教科書」、05年「岐阜県内の空襲」、06年「お母さんは大いそがし」、07年は岐阜市の「子どもたちへ伝える平和のための資料展−戦火の中学生日記−」の制作に協力してきました。今年は、昨年07秋真宗大谷派主催の「竹中彰元師 復権顕彰大会」で名誉回復し、また昨年の「12月のつどい」でも大東仁氏の記念講演で取り上げられた竹中師をひろく市民に知っていただくための特別企画展です。パンフレットも準備しました。

{展示内容}
 展示は3部構成とし、

第1部は、陸軍刑法で有罪判決を受けた師の反戦言動、思想、受けた処罰、またその時代背景
第2部は、師の出生から2つの大学を卒業し全国布教師となるなどエリートコースを歩んだころの活動
第3部は、昨年の復権大会と名誉回復に至った経過

 を取り上げ、戦時下、戦局が厳しくなる中で時代に迎合せず、信念を通し戦争の犯罪性と愚かしさをを主張した師の生涯を紹介します。また、真宗大谷派名古屋教区教化センターや大垣教務所などの協力を得て、宗門の全面的な戦争協力の姿とし、そこで反戦を唱えた彰元さん勇気ある行動を紹介しています。

(竹中彰元 師)





”反戦を貫いた僧 竹中彰元」展 記念講演

楽しくて、よく分かる記念講演でした   「竹中彰元とともに パート2」

 
 話す人  大東 仁さん
   大東さんは真宗大谷派圓光寺住職で、大学卒論で大谷派の戦争協力を研究中竹中彰元師を知り、掘り起こし研究を深め、世に広げた、彰元研究の第一人者です 。この夏、彰元さんの本を出版されます。

”楽しくて、よく分かる記念講演”とキャッチフレーズのついた大東さんの講演は、63年目の終戦記念日を直前にした8月10日、ハートフルスクエアーG 中研修室で開催されました。50人の参加でした。
 昨年12月のパート1に続くもので、前回の事件中心のお話に続き、今回は彰元さんの人となりや彰元さんをとりまく人たちについて、「大東のフィルター」を通しての分析と前置きされて話されました。お話の概要は次のようです。

1,学問好き、新しいもの好み、裕福ではなかった
 幕末に生まれ、明治新時代の激動の続く1886(明治18)年に明泉寺住職になるが向学心旺盛でじっとしておれず、経済的には苦労しながらも大谷派本山の「夏安居」を9年聴講、哲学館(いまの東洋大)、真宗大学(大谷大学)、さらには軍隊・監獄布教のための「教導講習会」などに学び、本山布教師としてエリートコースを進む。日清・日露戦争時には真宗大谷派や他の僧侶と同様、戦争協力に対する疑問・批判は全くなかったと思われる。旅順陥落を祝い、「皆万歳と言い 皇城を拝す」という漢詩を書いている事からも伺える。当時の彰元は反戦僧ではなく年に4〜ヵ月北陸・関西を中心に説教して回っている大谷派のエリート僧であったが、本来の真宗の僧ではなかった。

2,訴えたのは村人ではなく村のお坊さん
 1937(昭和12)年9月15日の「戦争は罪悪だ、人類に対する敵である、止めた方が賢明である」と言われた村人は、「もうろくしている」「やつけてやるからな」と「痛罵難詰」しながらも警察に届けることはしないで彰元を守っている。一方10月10日の法要の席での「戦争は罪悪だ、これ以上の戦争は侵略だ」の発言にその場では僧侶たちは何も言わずに穏やかだったが、その後2人の僧侶が密告して事件になった。本山や国に忠実で、戦争協力を美徳とし任務としていた僧侶たちには、村人とは違い、看過できない問題だったのだと思われる。

3,村人の感覚と国際的視野を合わせ持つ
 檀家の息子の出征を心配したことが反戦行動をするきっかけになったといい、戦争は予算浪費だとか損だとか、普通お坊さんが言わない損得を問題にし普通の村のおじいちゃんレベルで反戦をいう一方、排日・侮日の中国を懲らしめる「聖戦」としているものを「侵略」と言いきり、沢山な彼我(敵も含めて)生命を奪うものと主張する村のおじいちゃんを捨ててしまう国際的視野の持ち主でもあった。
 彰元の死の直前の1945年8月戦争は決着がついた。「おじいちゃんの言うとおりになったね」という孫娘に、「うふふ」と笑ったという。一番大事なのは家族だったのではないか。
新興仏教青年同盟委員長を務め治安維持法で逮捕され、戦後知恩院管長や東海高校校長を務めた林霊法さんが1948年頃明泉寺を訪ねていることを知った。また桐生悠々(名古屋在住反戦ジャーナリスト )、植木徹誠(伊勢市の反戦僧)、河野法雲(神祇不拝の笠松出身大谷大学学長)などとの接触の可能性が考えられるので調べてみたい。
  
主催・岐阜市平和資料室・友の会  協賛 全岐阜生活協同組合連合会 







真宗大谷派、竹中彰元師復権顕彰大会開き、謝罪す

 真宗大谷派(東本願寺)は、10月19日(金)岐阜県垂井町の明泉寺で、竹中彰元師の名誉回復のための「復権顕彰大会」を開きました。処分から69年ぶりのことです。激しい雨の中でしたが、北海道など全国各地から約400人の人たちが参加しました。

 本山からは熊谷宗恵宗務総長が参加、「竹中師の志願に耳をかたむけることなく、非戦をとなえ教えに生きんとした僧侶に対し、処分を下したこと自体が、宗派が犯した大きな過ちであります。このことによって、師はもとより家族と明泉寺同行の皆さまに苦痛と悲しみをもたらしました。さらに今日まで放置し続けてきたことを思いますと慚愧に堪えず、心より謝罪します。」と「復権・顕彰に関する声明」を発表しました。

 続いて野田正彰氏(関西学院大学教授)の「日本仏教と戦争責任」と題する講演に入り、@彰元師は単に戦争に反対しただけでなく自治政府を建設しようとしている中国の民衆や農民、やがて強制労働にかり出されていく保定の人たちに心を配っていた、Aこの日本が犯した侵略戦争の反省を戦後本当に活かしてきたのか、
   (声明を読み上げる熊谷宗務総長)                          
B日本と違い戦後の反省を積みあげているドイツ、Cなぜ仏教者は戦争を止められなかったのか、またベトナム・カンボジア・ミャンマーなどの仏教弾圧に日本の仏教は何をしたのかなどと話され、最後に過去を知ることは、現在を生き生きと生きることだとまとめられました。


最後にお孫さんに当たる前住職竹中信雄氏が挨拶され、厳しかったり腹の据わった人柄である反面、子どものようにうれしがる素直な一面もあったと紹介され、「平和のため私自身も精一杯がんばる」と結ばれました。竹中彰元師を最初にとりあげ紹介し、今回の復権のきっかっけをつくった大東仁さんは、「信雄さんが喜んでくれたのが一番嬉しい」を語ってくれました。また「彰元忌」を主催し、名誉回復運動を続けてきた岐阜県宗教者平和の会からも多数参加していました。




真宗大谷派、竹中彰元師の処分を取り消し、名誉回復 しました

 昨年の署名活動などを受けて、宗派内で名誉回復の声が高まり、今年6月の宗議会で熊谷宗務総長が名誉回復の方針を正式表明。同派は、9月25日付で軽停班と布教使資格のはく奪処分そのものを取り消しました。




 
「これ以上の戦争は、侵略だ」   反戦僧 竹中彰元 師


陸軍刑法違反などで公判に
 1937(昭和12)年12月13日、岐阜地方裁判所予審判事は、岐阜県不破郡岩手村大字岩手(現在は垂井町岩手)真宗大谷派明泉寺住職竹中彰元(71歳)についての予審を終え、竹中氏陸軍刑法第2条、第99条、刑法55条に該当する嫌疑があるとして、岐阜地裁の公判に付すことを決めた。主要な犯罪容疑は陸軍刑法99条の「戦時マタハ事変ニ際シ軍事ニ関スル造言飛語ヲ為シタル者」を7年以下の禁固に処すことにした項にあたり、2条は哨兵への暴行侮辱、軍用建造物・汽車・橋梁の損壊、俘虜逃亡の幇助など、この法律が陸軍軍人以外にも適用する条文を定めた項、刑法55条は連続犯(1947年に削除)への規定である。

 岐阜地裁の「予審終結決定」によれば犯罪の容疑とした「軍事ニ関スル造言飛語」とは、(1)日中戦争開始2ヶ月後の同年9月15日、出征軍人の見送りに村人500人と垂井駅へ向かう途中、ある村民に「昨日千人、今日三千人と沢山な死傷者が出て悲惨なことだ。一体戦争は罪悪である。国家は莫大な費用を空費し、損である。戦争はもうこの辺で止めた方が、国家として賢明である」と語り、(2)また10月10日にも、同村不退寺で開かれた7人の僧侶の会合の席上で、「今度の事変について、各自の決心を定めねばならないが、自分は戦争は沢山な彼我のの人命を損し悲惨の極みであり、罪悪であると思う。今度の予算も厖大なものである。保定や天津を奪ってどれだけの利益があるか。戦争はもうここらで止めた方がよい。これ以上の戦争は、侵略だ」と説いたことをあげている。更にこうした発言の背景に、開戦による出征兵士の苦労への同情、多数の人馬を殺生する戦争への罪悪感、華北の自治政権樹立の動きを援助して, 和平に持ち込む以外にないとする考えがあったことをあげている。今から戦場に赴く隣人を見送る村人の高揚した雰囲気の中でも反戦を説き、僧侶たちの会合で一人一人の平和への姿勢を問う気概の中に、大無量寿経の「兵戈無用」を根拠とした、彰元の高レベルに達していた宗教的確信を見ることができる。しかし時流はこの老僧を受け入れず、直ちに身柄は拘束された。

 ものがいえなくなる世相の中で 当時の新聞紙面を見ると、開戦直後の好戦的な活気あふれる記事が踊っている。彰元が村人に語った6日後の21日付けの大阪朝日新聞岐阜版は、新聞トップに「県民よさらば!勇士征途にのぼる 大歓声の怒濤に送られて 歩武堂々○○駅を出発」の見出しと、岐阜市の目抜き通りの両側を埋め、日の丸をうち振る市民の写真を掲げ、郷土部隊の進発の様子を伝えている。
「進軍ラッパだ。街頭には幾万の人が堵列して 声を限りに「万歳」を叫び小旗を力の限りうち振って激励する。怒濤のごとき歓呼が渦巻く--」
「見送り人に最後の挨拶を交わすのを聞くと、”生きて帰らぬ覚悟です”    ”白木の箱に入って帰ります” ”支那人を斬って斬って斬りまくります”    ”機関銃を土産に持ってくるぜハハ--- ”など臆夫をして立たたしめるといふ文句を思ひ出す。軍国日本なればこその力強き出征風景の氾濫だ。」
同じ紙面の残りは、「ああ護国の花!」として31名の県出身兵士の戦死の報道が遺影とともに埋められている。家族にとっての最大の惨禍を伝えるこうした記事も、「父親は笑顔さえ浮かべて、立派にお役に立ってくれたでしょうか、軍人が戦場で死するのは本望と思ひますと語る」という調子でしか、取り上げられていない。

また、不退寺での侵略発言の6日後、10月16日付けの同紙では、郷土部隊の呉港上陸作戦の戦死者98名の帰還を「悲しみの街に弔旗重くたれ 語らぬ武勲いや高し」と報じているが、プラットホームには2500人が「新聞熱烈に歓送、しめやかな哀悼の誠」を表し、「仏教団僧侶の読経は低く力強く湧き起こって、勇士たちのありし日の奮戦ぶりを人々の胸に呼び醒ます」と書くなど、彰元の意識とは違う次元で生と死が扱われている。

明泉寺檀徒から嘆願書提出
 予審決定が出される前月、明泉寺檀徒名で、岐阜地裁検事局へ嘆願書が提出されている。          仏前での読経では威儀、厳粛、丁重で、三部経拝読には一語一句明瞭に読み遅くても2時間までですむものを3時間かけ、その間経本を両手に奉持し経机に置くことはない。読経中に談話などするものには叱責、作法心得を説く。
 農繁期には保育園を毎年開設し、垂井駅まで4キロあまりの出征兵士者見送りは毎回欠かすことなく、今回の事変に当たり国防献金を呼びかけ、岩手村婦人会よりの献金をまとめるなどなど国家公共のことに積極的に取り組んでいる。 
 昭和11年2月の総選挙の当日、関ヶ原町の檀家の法要に出向いていたが、止めるのも聞かず6キロの雪道を、体の前後に法衣その他の荷物を負いながらかけつけ、締め切り1分前に投票所に到着するなど責任感も強い。
 四十有余年にわたる老師の業績は高く評価され、本山より門跡の名の一字を賜り、「慈元」を「彰元」と改名を許され、現在大僧都の僧位にある。

 など、4000字を越す長文であるにもかかわらず簡潔、要領を得てしかも達筆、内容は老住職への思いのこもったものになっている。「今回何かお取り調べを受けることと相成り」と容疑内容に関しては一切無視しながら、「非違ナキニ非違アリトセンガ如キ輩アルガ為ニ老師ノ晩年ヲ傷ツクルガ如キハ仏モ菩薩モ許し玉ハザル処」と内通者を厳しく戒めている。この判断は後の歴史に照らしても正当であり、またこの時代の流れの裏側にある、明泉寺檀徒の醒めた目を見ることができる。次いで彰元の厳格精励な性格、門徒の善導教化、佛恩報謝、忠君愛国、国民精神高揚にいかに心身を注いでいるかを具体的に述べ、「私共檀徒ノ意ノ在ル処ヲ御汲取被成下、適法ニシテ御寛大ナル御裁断相仰ギ度」と結んでいる。世の冷視を浴びている彰元にとって、檀徒の評価はどんなに励ましになったか、想像に難くない。
 明泉寺のある垂井町岩手は、軍師竹中半兵衛の出身地として知らる伊吹山脈に抱かれた古い集落で、明泉寺は、半兵衛の妹が開基となる古刹である。彰元は1667(慶応3)年ここに生まれ、真宗大学を卒業、早くに父を失い若年にして明泉寺住職を継いだ。本山布教師として全国的に活躍、昭和9年からは最高布教師の任につき、徳を慕い遠近より明泉寺に参詣するものも多かったという。

判決は禁固4月、大谷派本山からも
 1938(昭和13)年4月27日、名古屋控訴院は彰元に陸軍刑法第99条違反の罪で、禁固4月、執行猶予3年の有罪判決をを言い渡し、刑は確定した。下獄は免れたもの、彰元の口は封じられた。戦争協力を積極的に進めていた真宗大谷派本山は、彰元を※1特別黜罰処分(免職)に処した
 1940(昭和15)年皇紀二千六百年恩赦で、名古屋控訴院は2月11日付けでを禁固2月20日、執行猶予3年に減刑しているが、実質的な意味はない。 敗戦2ヶ月後の、1945年10月21日、彰元は79歳の生涯を閉じたが、戦後の侵略戦争への反省やファシズムの全面否定の行われる中でも、過去の陸軍刑事罰の取り消しはなかった。また、※2大谷派本山からの名誉回復も行われていない
 しかし、戦後50年を前にした1994年から大谷派教団の戦争協力、戦争責任を明らかにする「平和展」が名古屋東別院などで開かれ、その中で彰元の事件も明らかにされ、大谷派からの復権が始まった。
                                                   篠崎 喜樹
(これは、歴史教育者協議会編「草の根の反戦・抵抗の歴史に学ぶ」平和文化出版 のための草稿です。)

※1 その後の広瀬顕雄氏の調査で本山の処分特別黜罰処分は、「軽停班3年」というものであったことが分かりましたした。
 僧侶として着る衣、かける袈裟、法要の席で座る位置などは堂班という僧侶の位で決まっています。それを5
年未満の間停止するというものを「軽停班」といいます。したがって法要の席では3年間、一番末席に、一番地味な衣を着て座ることになるのです。
※2 皇紀二千六百年特赦にあわせて「軽停班」処分は半分の1年6ヵ月に軽減されていますが、この処分は今も取り消されていません。



彰元忌の催し


第7回彰元忌の集い


次のように第7回彰元忌が開催されました

と き  2006年10月21日(土) 受付午後1時半より 開会2時
ところ  明泉寺(不破郡垂井町岩手631)
協賛金 1口200円
懇親会 午後5時より(申込は当日 会費2000円の予定)


この日までに実現できたらと期待していましたが、本山では今年度中(来年6月まで)の軽停班という処分の取り消し決定が確実だということです。2375名の署名を提出し名誉回復を求めているこんなに明白なことが、どうしてすぐにできないのでしょうか。本山東本願寺は、本当にあの戦争への協力を反省しているのでしょうか。





第6回彰元忌の集い
と き 10月21日(木:彰元師の命日)午後2時〜4時30分
  ところ 明泉寺(垂井町岩手)
         読経、各界からの挨拶、調査・研究から
     軽停班処分の取り消しを求める署名を集約、本山へ代表派遣を決める 




第5回彰元忌の集い、平和行進(2004)に参加しましょう
,平和行進
  と き 10月21日(木)午後1時
  集合場所 垂井駅  (灯明台まで約30分)

2,彰元忌の集い
  と き 10月21日(木:彰元師の命日)午後2時〜4時30分
  ところ 明泉寺(垂井町岩手)
         読経、各界からの挨拶、調査・研究から

3,懇親会
  と き  10月21日(木)午後5時30分〜
  ところ  垂井町コミュニティ防災センター(垂井町府中)
  会費   2000円(当日受付)

第2回臨川(河野法雲)忌墓参
 
 と き 10月16日(土)午後2時30分〜
  ところ 称名寺(羽島郡笠松町円城寺)

主催 岐阜県宗教者平和の会
     現地事務局 垂井町府中 清蔵寺 羽住一幸
                Tel 0584−22−2215




第4回
彰元忌の集い、平和行進(2003年)
T 第3回ピースロード平和行進
    10月21日(火)」午後1時 垂井駅出発−灯明台(約30分)

U 第4回彰元忌の集い  
    同日(師の命日)午後2時半〜4時半  明泉寺(垂井町岩手)
    読経、各界からの挨拶、調査・研究報告
    師への大谷派からの処分撤回要請の取り組みについて意見交換

V 懇親会 
    午後5時半より 垂井町コミュティ防災センター(垂井町府中) 
    会費2000円

主催 岐阜県宗教者平和の会 Tel0572-65-2236
   現地事務局 垂井町府中 清蔵寺内 羽澄一幸 Tel0584−22−2215


第3回彰元忌の集い、第2回平和行進のご案内

第2回彰元ピースロード平和行進(小雨決行
 時  2002年10月21日(月)午後1時〜1時半
 所  垂井町岩手小学校集合→灯明台まで
雨が上がり、30分遅れて出発しました。

第3回彰元忌の集い
 時  2002年10月21日(月)午後2時〜4時
 所  垂井町岩手 明泉寺(彰元師の寺)
 内容  ・調査、研究からの報告
      ・神祇不拝と河野法雲(教学研究所 山内小夜子)
          河野法雲師は岐阜県笠松町の人、元大谷大学学長

懇親会
 時  集い終了後 5時〜7時半
 所  府中防災センター
 会費  3000円(予定)
   



第1回彰元ピースロード平和行進
 
2001年10月20日(土)10時〜11時半頃まで

 不破郡垂井町岩手小学校集合→垂井駅まで
  1937年9月15日、竹中彰元師が「反戦平和」を訴えて歩かれた道を  「兵戈無用」「憲法9条を守れ」を訴え行進しました。
  雲ひとつない秋晴れのもと、約40人気持よく歩きました。



第2回彰元忌の集い 約50人集まりました
 2001年10月20日(土)午後1時半〜4時
 

垂井町岩手  明泉寺(彰元の寺) 

  


    内容 読経(導師 明泉寺住職)
        
調査、研究からの報告 広瀬 顕雄氏 

  会長の広瀬顕雄氏からは、彰元師の年譜から最高の修学を極めた学者がする専門的な講義を聴く「夏安居」の9回にわたる聴講、哲学館{現東洋大学)や真宗大学などにおける20年にわたる学問の研鑚があり、ここで得られた「妥協を知らず、真理を学ぼう」との姿勢が、師の反戦言動の根っこにあったとされました。
 そしてその「向学の志」は竹中半兵衛の子孫の旗本5000石の当主が家臣の子孫のために天保13{18429年に建て、神田孝平などを生んだ学問所「青義塾」に学んだこと、さらに明泉寺10世住職竹中元補(彰元師は14世)が学者であったことなど、彰元師自身幼いときから学問的環境に育ち、「清和天皇に始まり--源氏の末孫--」とする竹中家と明泉寺の家系についての誇りを身につけるよう育てられたことなどにによるものと話されました。  


        
 講話 「宗教者と戦争責任」 大谷派教学研究所 山内 佐代子氏


 山内氏は、国家と宗教の関係についての研究の一端として従軍僧について触れられたあと、予審決定が出る前月岐阜地裁検事局提出されたと思われる明泉寺檀徒名の嘆願書の持つ意義を強調されました。
 彰元師の発言が村民によって「痛罵難詰」され、特高によって検挙されるような好戦的な時代雰囲気のなかで、 「非違なきに非違ありとせんが如き輩あるが為に老師の晩年を傷つくるが如きは仏も菩薩も許したまはざるところ」と師と一体となって法を説く高レベルの宗教的確信にうたれるし、師の日ごろの門徒への「教化活動」を垣間見る思いがする。
 1937年当時、国家の方針に逆らい戦争に反対する言動がどういう質の「非違」であったかを、門徒は十分に知っていた。だから仏法の言葉を「非違」としていくものを、仏法の眼で見ることのできた。国家を、仏法という眼で相対化して見る視点を持っていた先輩たちがいた。
 この嘆願書は、師の「刑の減免」という嘆願にとどまらず、仏法を謗ろ者への異議申し立てであり、悲嘆であったのではないか--と話されました。
        

   主催 岐阜県宗教者平和の会 現地事務局 垂井町府中2252 清蔵寺 羽澄一幸
                             TEL0584-22-2215 FAX0584-22-2849
 

「第1回彰元忌の集い」が開かれました
   とき   2000年10月21日(土)午後2時〜4時
   ところ    不破郡垂井町岩手  明泉寺(彰元の寺)
 
 日中戦争中に反戦を訴え、禁固刑を言い渡された竹中師の55回目の命日です。
 平和の尊さ、平和を訴えることの大切さを彰元師から学び、胸に刻み込むための集会で、東京、京都、愛知などからも参加され、30人をこえる方々が集まり盛会でした。
 ご住職の竹中信雄さんの三誓偈、挨拶につづき日本宗教者平和協議会、真宗大谷派本山、大谷派大垣教区教務所、岐阜県平和委員会、岐阜県平和遺族会から挨拶をいただきました。

 つづいて「岩手地域の生活、自然」(羽澄一幸氏)、「竹中彰元の調査、研究から新しく見えてきたもの」(広瀬顕雄氏)の講演や、墓参、竹中半兵衛の陣屋・墓参、懇親会などが行われました。

      tel 0584−22−2215(現地事務局)主催  岐阜県宗教者平和の会

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