200回を超えた これまでの  サロン九条の記録


217回 6月  4日(火)  「3.11後の自衛隊 迷走する安全保障政策のゆくえ―半田 滋さんの著書(岩波ブックレット)から学ぶー」 話題提供:加藤久雄(「岐阜・九条の会」事務局長)

ぎふ平和のつどい・初夏」(6/23)に先だって、講演者半田滋さんの著書『3・11後の自衛隊』を読み、論点を確認し、意見を交換した。
内閣府調査によれば「東日本大震災に関する自衛隊への評価」は「評価する」が97,7%、「自衛隊によい印象を持っている」は過去最高の97,7%に達した。では震災後の自衛隊は世論が支持する方向へと舵を切ったのであろうか? 防衛省・自衛隊・米軍の取材を新聞記者として20年以上続けている半田氏がその実像に迫った。
 2011年の12月に閣議決定された次年度防衛費は東日本大震災と福島第一原発事故で自衛隊10万人体制を取ったにもかかわらず1年前に閣議決定された「防衛計画の大綱」は見直されず、それによれば自衛隊が対応すべき脅威は、危険性が広く認識された首都圏直下地震、東海・東南海地震ではなく、中国軍だという。

震災後アメリカが日本で繰り広げた「ともだち作戦」の目的を半田氏は3つあげる。
① 日米軍事同盟の実効性を内外にアピール
② アメリカの「新エネルギ-政策」(安全でクリーンな新世代の原子力発電の建設)に影響を与えない
③ アジア・アメリカ太平洋戦略のため、日本を経済大国の地位から転落させない。
「ともだち作戦」に用意された予算は約62億円。日本では、「在日米軍駐留経費負担」に関する新たな特別協定が震災後の4月1日に発効した。毎年度1881億円ずつ5年間にわたり日本側が負担。5年間の総額は1兆円近く。トモダチ作戦の見返りとすれば、あまりに大きな支出である。
 2010年7月、政府の「PKOの在り方に関する懇談会」は中間とりまとめを発表。「停戦合意」のない紛争国への派遣や武器使用の危険性が格段に高まるPKFへの参加、武器使用の緩和を検討。その先には間違いなく憲法改正が待ち受けている。
 
最後に半田氏は、自衛隊は今後予想される大規模震災などの際に機能することがもとめられる。そのために憲法を変える必要は全くない。憲法九条を「活動の縛り」と否定するのではなく、「人類普遍の原理」としてさらに生かす道を選びたいと結論づけた。
  参加者による話し合いでは「自衛隊員自身はどう考えているのだろうか?」という問いが出され「ただ安定した仕事として自衛隊が選ばれている」「なかなか就職できない状況の中で、若者はとにかく職につければと考えている」「自衛官であった夫は海外派兵などは想定していなかったと語っていた」「進学率を上げるために防衛大を受けさせる高校もある」「九条がなければ自衛隊員は死ねということ」など、自分の身近な自衛隊員や自衛隊に対する受け止め方などを出し合った。「アメリカ以外のどこの国と結ぶと安全?」「九条の精神はどこの国とも仲良くということだ」など他国との関係についての意見交換、世界で沖縄だけに配置されている海兵隊の実態、庁→省→海外派兵というステップをとってきた自衛隊の現在などについても意見がかわされた。半田氏の別の著書『「戦地」派遣』の紹介もされた。
もっと知りたいこと更なる疑問は半田氏の講演で明確になることが期待される。14名の参加。(Z)





第216回 5月21日(火)「核兵器の廃絶を! ―中沢啓治さんの遺言「ゲンを世界中で走りまわらせ下さい」から考えるー」 話題提供:坂東弘美(フリーアナウンサー)

あじさい平和のつどい


「私は国民学校2年生中沢元 8才」ですと、『はだしのゲン』主人公の服装であらわれた坂東さんは、チェルノブイリ、ルイジアナ州やニューヨーク、バンコック,北京、南京など世界各地で取り組まれた 反戦・反核の活動をテンポ良く話してくれました。驚くべきk行動力です。中日新聞尾小川慎一記者の記事を紹介します。
 その4日後の5月25日には、華陽、白山・梅林、華陽診療所九条の会が主催する「第6回あじさい平和のつどい」でも講演されました。この日は『はだしのゲン』中国版が完成するまでを追って取材するメーテレ取材陣も参加、総勢70人の賑やかなつどいになりました。



第215回 5月7日(火)午後1時~4時「郵送作業」:1500通の作業です。 12名の参加で、おしゃべりしながら楽しくやりました。



  

第214回  4月16日(火) 「自民党改憲案を深く吟味する」 参加者で読み合って議論しました。 

冒頭、加藤久雄さんから口火を切る報告があったあと、参加者が自由に自民党改憲案について感想や意見を述べ合いました。
さすがに9条の会での改憲案吟味だけに参加者全員が発言し、内容も豊富で今後の課題も見えてきました。話題にあがった内容の要約です。

現行憲法の否定:国民が主権者として国家権力を縛り、国民の権利と自由を守る憲法からら、国民を縛る憲法へ。そのためにまず改憲へのハードルを低くする国会発議要件の緩和する。
天皇の元首化:国民主権は一応残しながらも、天皇中心の「伝統・固有の文化」と「国家」の継承を目的とするとし、国旗・国歌の尊重を強制する。
国防軍:前文から戦争への反省を削り、第2章を「戦争放棄」から「安全保障」にした上で9条2項を削除し、自衛権の発動を許し、「国防軍」の創設、機密保持、軍法会議、国民の領土保全義務を明文化。ここを改訂の最大の対象にしている。
人権より公益優先:現憲法で重んじられている「公共の福祉」を「公益」「公の秩序」におきかえ、国益を優先し国民に憲法尊重の義務化。
非常事態:戦争、内乱、大規模な自然災害などの際、内閣総理大臣の宣言による「戒厳」状況下で法律と同様の政令により国民の権利を停止・制限する。
家族を助け合いの基礎単位として尊重:個人より家族を基礎的単位とし,自助・共助を課すと同時に,天皇のもとに民族はひとつの教育勅語体型の復活をめざす危険性。「社会的儀礼」などによる靖国参拝の容認の可能性も。
改憲勢力:この改憲案を歓迎しているのは財界と米国。米国からの「押しつけられ憲法」論との矛盾をどうする。
改憲阻止のために:
 自民の狙いは9条。9条の会らしく9条を中心に考えていく。本会作成のポスターを県下全域に。
 軍隊容認など戦争観の変質を恐れる。イラク帰還兵の自殺なども含め、今も続く戦争の悲惨さ愚かしさを再認識しなければ。
 国家はどこまで国民を守れるのか。武力対武力のエスカレートで破滅に。敵を持たないこと,基地を持たないこと,原発を持たないこと。(11名参加)



  

第213回 4月 2日(火) 「若者の生きづらさと社会の課題」   話題提供:南出吉祥さん(岐阜大学助教)
 

初参加者が5名!若者のお母さんが多く、経験も踏まえ活発な意見がかわされました。南出さんは、教育学が専門で、「行き場のなくなった子どもたち」が研究対象です。

始めに今の子ども・若者の生活の現実を話されました。「空気を読め」という見えない権力に従わなければならない重圧・先の見えない競争社会・正規、非正規の2極化、自己否定・・・このような若者の実態のなかで社会全体が築かれにくくなっています。秋葉原のような事件後若者支援政策の動きはあるものの、ワークフェア路線の推進、つまり「働いてこそ一人前」「働かざるもの食うべからず」政策で、就労自立による「福祉依存からの脱却」が基調となっています。また、どの政策も「更新」の名のもと1年で終わっていると指摘されました。これらに対して社会保障の整備、労働時間上限規制、教育の受益者負担ではない機会均等、財布の出口の削減の必要性を強調されました。特に主体形成のための教育・・・「助けてと言っていい」「怒っていい」ことを伝え、社会はあるものでなくて「つくるもの」という感覚を教育活動の中で経験を通して学んでいく必要性、価値感の多様性を前提にしたコミュニケーション作りの必要性をあげられました。

その後、参加者の中で活発な意見交流がありました。

・入試の重圧からも親の重圧からも解放された大学生の中に引きこもりや鬱が多いことに驚く。

・毎日の生活の中で、そういった若者の存在が見えにくい。
・若者に、いろんな生き方があることを伝える必要がある。大学を出て正社員でないとまともでないなんてバカな話はない。

・若者は就活産業のあおりを受けている。
・就職試験が7次、8次まであるところもある。社会の入り口で心の中にすでに大きな差ができてしまう。
・大人に大きな責任がある。「一緒に作っていけるんだ」という思いを育てていきたい。
・生きづらさは若者だけではない。親に子どもと向き合える余裕があるのかも深刻である。

まだまだ意見が出るなか、残念ながら時間となりました。もう一度このテーマでこういう現状をどう逆転させていくかという話をしましょう! でお開きとなりました。12名の参加)。(Z)

 


 





第212回 3月19日(火) 「いじめ・体罰はなくせるのかー憲法・子どもの権利条約から考えるー」 話題提供:加藤久雄さん(岐阜・九条の会)


  「先生も生徒も疲弊し,能面のような表情をして日々生活に追われ」、「悲鳴を上げている学校」。教育委員会も管理職もころころ変わり誰も責任を取ろうとせず、古いものが残されたまま総合学習、英語学習など新しいものがどんどん入ってくる。そのため現場の教職員の多忙化に拍車がかかる。その結果起こる”学校崩壊”。この状況を変えていく可能性は岐阜県の現場ではゼロに近い。「絶望的な状況」と規定した上で、「学校はどういう場になればよいのか?」が今回の中心テーマでした。
加藤さんの話題提供は、まずいじめ問題で日本共産党が2月に発表した『いじめのない学校・社会を』取り上げ,各項目に加藤さんの書き込みを入れ、優れた提案としながらも,「いじめ」への考察が弱いこと、「そもそも学校とはどうあるべきか」についての具体的な考察が弱いという「二つの弱点」を指摘。その前者の弱点を照本祥敬氏(中京大)、後者を加藤氏の論文・レポートで深めるという壮大なものでした。

 現場をふまえた具体的な事例を加えての加藤さんの「学校づくり」の基軸は、「いつでも,どこでも,だれでも、「ヘルプ(教えて)」「ノー(いやなことをいやといえる)」を軸にした意見表明をする権利が尊重されている学校=子どもの権利憲章がすみずみまで行き届いている学校、父母・地域住民の教育への願い・要求が何よりも尊重される学校=子ども参加、父母との共同の学校づくりと要約でき、学ぶ喜び、連帯感、「保護」と「癒やし」、いつも子どもがてっぺんにいる学校などめざすものと明確にされた。

 18ページに及ぶレジュメを準備され、駆け足で多分野にわたるそ報告を受けましたが、長い教員生活で学び培った実践と理論は深いものでした。その一部です。
* 「学校へ通えば通うほど、学びに絶望する」。そんな学校、教育であってはなりません。今、日本の子ども達が求めているのは、学べば学ぶほど知性と感性と想像力が豊かになる学びです。「当事者性のある学び」です。非正規労働者の首切り問題、貧困の問題、死刑制度の問題などなど、日本と世界が抱えているあらゆる問題を、「もし自分が当事者だったら」という視点・立場で学ぶ。このような「学び」こそが、「学ぶことの楽しさや面白さや喜び」を子どもたちに教えてくれるのです。

* 学校というところは「ねばならない」ことが横行している。学校という「わく」から一歩もはみ出さないように,子ども達に「学力」競争・同調競争・適応競争・忠誠競争を迫り続けている。これでいいのだろうか?ウソもつけない子よりも,ウソのつける子の方が---のような「常識を問い,常識をひっくりかえし、新たな常識を打ち立てる」ことをもっと真剣に考えるべきだろう。

* 「学ぶこと」「成長・発達すること」を子どもたちに保障することによって、わたしたち大人にもそれを保障し合っていく。そういう学校・教育を、どこまでも求めていきたいものです。

* 厳しければ厳しいほど、旗を高く掲げ、希望を持って進んでいきたい。

 心に残る加藤さんのメッセージを聞いた後の意見交換では、教育の現場の実態紹介、大津の中学生いじめ自殺問題、学級崩壊と家庭、教師の自己責任問題、格差社会が反映する予備校、さらには安倍内閣の「教育再生」など、課題山積の教育問題がリアルに参加者から出され、その深刻さが改めて認識されました。加藤さんはまさにそれらに立ち向か多くの接点を示してくれました。市民として「学校づくりにいかに関わっていったらよいのか、改めて課題が課せられました。8人の参加。

「話題提供者からの補足」がありました。
「話題提供の最後に、今、学校現場は理想を忘れてどんどん現実主義になっている。 こういう時こそ、理想を高く、旗を高く掲げたいです。向こうは改憲策動など、どんどん攻めてきている。こちらが旗を高く掲げなかったら、闘いにもならないじゃあないですか」ということを言いました。
 もう一つ、いじめに関わって言うべきことがありました。「いじめは人権侵害であり、暴力による迫害です。戦争は、最大の暴力です。ですから、憲法9条を守り活かすことは、国民の平和的生存権を守ることです。いじめのない学校・社会を求めることは、子どもたちの平和的生存権を守ることです。根っこは同じなのです。九条の会の方は、いじめ問題にもっと関心を寄せるべきでしょう」




第211回 3月 5日(火) 「DVD『チェルノブイリハート』を観て考えるー原発の今とこれからー」     *必見のDVDとの評判高し!

東日本大震災、福島原発事故からまもなく2年となるこの日、サロン9条はチェルノブイリ原発事故の被害に苦しむ障害者(チェルノブイリハート)を紹介するDVDを観ました。
 第一部は事故から16年後の2002年、ペラルーシーなどに住まう子供達の放射線治療、小児病棟、乳児院患などを訪れ、今も続く被曝被害の事実を告発するドキュメンタリー。病室が足りないく手術を待つ甲状腺ガン患者は病名を知らされていない。4歳で生後4ヵ月程度の脳性麻痺、脳が垂れ下がり背中に大きな腫瘍をつくる、またふくれあがった腰に腎臓が移動している奇形児など正視できない映像が次々と。1000倍の放射能のホットゾーンで暮らす子ら、セシュウムを含む魚、キノコ、イチゴなどをとる高校生、106人中45人が危険という。
 精神病院では動きがない手足が固まった体の子供達、産院では15~20%が障害を持って誕生、新生児死亡率は3倍。遺伝子が破損しており治療ができないなど様々な障害が年々増えているという。
 今も半径30キロ以内の居住が禁止されているが、3キロ以内の廃墟になっている高層アパート団地の元住民が20年ぶりに訪れる様子を取材したのが第二部。崩壊の進む商店街や住居に佇み、「一人でずっとここにいたい、二度と帰ってくるものか」とつぶやく。

 見終えての感想では、何十年たっても残る想像を超える恐ろしさ、そのチェルノブイリから日本の国は何も学んでいなし、何もしてくれないことへの批判。
 飯舘村で事故後の出産では、男18人に女36人となっていることへの懸念。
すでに日本の放射能汚染度はチェルノブイリを超えていると言われている。「直ちに影響を及ぼうものではない」ではなく、今すぐ手を打たないとこれ以上のことが日本でも間違いなく起こる。やれることをみんなで一歩出ることが必要だとの提起。
 原発大国のアメリカ、原発全敗のドイツ、被爆国日本の姿勢についての評価など、地球存続に関わる。原発問題につき様々な感想、意見が出されました

福島の高校生がテレビの質問に答えて、「卒業して関東の大学へ進学したいが、福島の出身と言うことで嫌われないだろうか」、また女性とは、「将来結婚などの際に差別されることはないだろうか」など不安そうに語っていました。原発再稼働だけでなく、先が見えない復旧、除染、核のごみ処理とともに、放射能の人体への影響など原発事故対策の深刻さを改めて痛感させられました。14名の参加。





第210回 2月19日(火) 「風船風向き調査と原爆事故 岐阜県シュミレーション」 話題提供:兼松秀代さん(放射能のごみはいらない市民ネット・岐阜) 


最初に昨年3月3日と12月1日に福井県水晶浜から実施された風船風向き調査の結果を紹介していただきました。水晶浜は美浜原発、敦賀原発、もんじゅのすぐそばの海岸で、大飯原発からも30キロ以内の場所です。3月3日の調査では1000個の風船が飛ばされ、3月~5月の間に99個が拾われました。この調査により、3月頃福井県で原発事故が起きれば関ヶ原・大垣など西濃だけではなく、岐阜地区、中濃地区、東濃地区まで汚染が広がる可能性があり、まさに「岐阜は原発の地元」であることが立証されたと報告されました。

事故が起これば過酷な事態が発生することは福島の事故で明白です。岐阜県はどのようなシュミレーションをしてどうやって県民を守ろうとしているのか、データを示しながら、原子力規制委員会のシュミレーションよりすぐれている点、市民の指摘・要望でわかりやすくなった点、問題点など指摘しながら詳しく話されました。岐阜県のシュミレーションによれば福井県の原発で事故が起これば岐阜市は10mSv、20~100mSv、100mSv以上になる地域に当てはまり、飯館村(20mSv以上)と同じような状況に陥ることになります。そんな状況下で日本の事故時の避難基準はチェルノブイリ5mSvの4倍の20mSvです。チェルノブイリの事故時には女性の代表が子どもを守るために厳しい基準を主張したというエピソードも紹介されました。
兼松さんの話を聞き、「もし事故が起きたら」とぞっとし、原発ゼロの運動の必要性を改めて感じましたが、参加者から「安倍政権になってから原子力政策が後退している」「金曜行動に参加している人が減っている」など現状を憂う声があがりました。

兼松さんには原発の話に加えて、今東濃地方で問題になっている「重水素実験」についても話していただきました。実験により放出される放射能の地元住民への影響が懸念され、公開シンポジウムでは反対意見が多数あり、反対署名活動に取り組んでおられます。

参加者による話し合いでは、「福島では安全宣言により放射能汚染について事実が知らされていない。まわりの雰囲気で話すらできない状況」「それは福島だけではない。岐阜でもいつもまわりを窺い、自分で考え行動しない」「ネット上では『日本は自分たちの国としての誇りを持つ必要』が若者の多くの意見」「ディベートでもして相手を説得する言葉の力を鍛えたい」「相手を負かすのではなく、聞く力を鍛える必要がある」「哲学カフェのように自由にものを言える場があちこちにあるといい」など、様々な意見が出ました。(Z)
  
 




第209回 2月 5日(火) 「ピースボート102日の旅に参加して」 話題提供:林八重子さん(みたけ九条の会)

林さんには前回初めてサロン9条にお出でいただいのを機会に話題提供をお願いし、今回2012年5月8日~8月17日横浜発着102日間の「第75回ピースボート地球一周の旅」に参加された時の様子を報告していただきました。また林さんが読みやすく日記風にA4用紙10ページにまとめられた詳細な記録もいただきました。

 最初に、主催会社がつくったDVDの映像をを林さんの説明を聞きながら見ました。寄港地の様子や船内のイベントなどのショットが張り合わされており、短時間に100日あまりの旅の記録がダイジェストで分かるものでした。平和を課題とする特色あるピースボードの旅は、要約すると以下のようです。

 この時の乗客は約900人、スタッフ300人。乗客はほとんど日本人。60代、70代が多かったが、若者も200人ぐらい、岐阜県人は20人程はいた。年配者は退職後のリベンジで大変元気、大学生や若い人もこの機会に自分を見直してみようと参加したもののよう。
 「水先案内人」と言われる国内外の各分野の専門家の洋上講座、乗客で実行委員会をつくって行うイベント(アースデイ、ピースデイ、仮装パーティ、運動会など)、それぞれの地で話題のテーマを追うオプショナルツアーや現地の人達と触れ合う「交流プログラム」、個人の得意分野を発表する「自主企画」、社交ダンス、ピラティス、囲碁、英会話スクールなど多彩な企画が目白押しで、朝から一日中忙しく過ごし、長いと思っていた旅もあっという間にすんでしまったとのこと。

 終わっての交流には、この旅に以前に参加された方の補足の説明も加わり、船中の暮らしや費用なども話題となりました。
 「いろいろな人がいて、知り合いになれ、いろいろなところを見て、知って、視野が広がった」とうらやましい感想が、が最後のまとめでした。




第208回 1月15日(火)  「新年を語り合う ―希望は持てるのか?-」   話題提供:吉田千秋さん+参加者全員

今年初めてのサロン9条、年末の衆院選の結果を受け雨宮処凛氏のいう、「これじゃあ原発は再起動されまくる、憲法は改訂され、格差はより広がり、そして貧困はさらに深刻化する。最後のセーフネットである生活保護は切り下げられる。徴兵制、軍隊という言葉も耳にした。とにかく大変なことになる。大変な時代が始まる。」という事態を受け、「希望を持てるのか」がテーマになった。
 
 まず、話題提供者の吉田千秋さんは、最初に 故郷を奪われ「棄郷」「奪郷」の民となった東北の人たちがどうしたら希望が持てるのか、就職ができなく「マック難民」とならざるをえない若者たちがどうしたら希望を持てるのかが今最も考えなければならない二つの柱だとされ、話し合いの話題となるいくつもの資料を示された。
 ①憲法九条は簡単には変えられないとする中日新聞の1月1日と7日の社説、②選挙結果を受け、「今、私は俄然やる気だ。これはもう闘うしかないないではないか!」と覚悟を決め、ここからすべてが始まるとする雨宮氏、③「国民は選挙のときだけ主権者となり後は文句も言わず国の思うままについて行くという「お任せ民主主義」からの脱却し、国政への直接参加「直接請求権」を行使する正念場に差し掛かっているという池内了氏、④では民主主義とは何かと1947・48年文部省発行の高校教科書「民主主義上・下」の序文、⑤「思い」で判断し「考え」を排除する軽い言葉、それが軽い衆院選につながった、「言葉がコンクリートより軽くなっていいのだろうか」という池澤夏樹氏、⑥ 江戸時代いわき市に菩提院を開いた僧袋中上人が沖縄に伝えた念仏踊りが起源となってエイサーが生まれたと福島と沖縄の繋がりを紹介し、「安全神話」と「不敗神話」の欺瞞の果に通じ合う両県民の心を紹介する元旦の中日新聞。吉田さんは「過去と現在をつなげ、未来を考える。今と私、つながりの中で私を見つけること」と、⑦GHQ民生部のスタッフとして日本国憲法の起草に携わり24条(両性の平等)など人権に関わる条項を書き上げたベアテ・シロタ・ゴードンさん死去を報じる中日・朝日新聞の記事などが紹介された。
 
 今回はいつもと違い参加者全員が話題提供者になり、続けて発言、随時質問や関連発言で補強されながら時間いっぱい語り合った。
 この事態を多くの人々ににどう広げるかについての発言がつづく。声を上げ話すこと、聞くこと、学びながら活動する、大衆運動の輪をひろげる、メデアの影響、学生運動のあり方、さらにはアメリカの政財界への圧力、少数政党のあり方、この国のあり方等々話題は広がった。
 また、秋の平和の集いの群読参加者の感想文集に関心が持たれ、新聞に書かれると知らない3人から注文があったこと、2つの新年同窓会で思いがけない人が憲法改悪と国防軍、集団的自衛権の危険性について話されて驚き、嬉しかったという報告もあった。
 危機感が深まると黙っていた人も話し始める、先の戦争のときのように気がついたときには戦争になっていたという状況には簡単になりえないのではないか。。その受け皿として9条の会が機能する場となるのではないかという希望的な感想を持った。
御嵩からこられた方を含め2人の方が初参加、13名の参加。




第207回 12月21日(火) 「原発ゼロ岐阜県民有志行」に参加(午後6時から、JR岐阜駅2F北口)<BR>
               望年会(午後7時から、JR岐阜駅1F)



第206回 12月 4日(火) <B>「沖
縄の痛みを考える・・大集会に参加して」吉田栄子さん、仲大森克才さん(沖縄出身者)

 10年前沖縄に3年間住み、そこで沖縄の人々の痛みを肌で感じた古田さんは岐阜へ戻ってから勢力的に沖縄の問題をいろんな形で発信しておられます。
 古田さんも参加された9.9県民大会(オスプレイに抗議)には10万3千人(本島人口130万人)が集まりました。そのときの熱気を琉球タイムス、琉球新報号外などの写真と記事を紹介しながら話されました。「命どぅ宝」これが沖縄反戦平和運動のスローガンです。沖縄は、「九条」にあこがれて復帰を望んだのですが、実際起こったことは、本土から基地を沖縄へ移動させた基地の固定化でした。復帰から2011年までに米兵による凶悪犯罪は実に568件だそうです。 
古田さんは「普天間問題の今」と題したニュースを2012年2月11日から11月5日まで50号出されており、そこで、沖縄問題についての有識者の発言をたくさん紹介しておられます。                                         
   ☆ 今日の沖縄は日本のどの地域よりもはるかに先を行っている。民主(デモクラシ-)は逆境の中でこそ鍛えられる(浅井基文氏)
   ☆ 日米安保条約を破棄して友好条約にする。沖縄の犠牲で成り立つ安保を見直す以外に事件を防ぐ方法はない。(太田昌秀氏)
   ☆ 基本的に米側には沖縄戦で手に入れた戦利品だという意識があり、沖縄は自由に使って いいという治外法権、植民地的な意識が変わらず存在している。(高橋哲哉氏)
   ☆ 1872年(明治5)の琉球藩設置に始まり、79年の沖縄県設置にいたる過程で琉球王国は滅びた。「琉球処分」というこの歴史の根っこを見ることなしに沖縄を語ることは困難です。(辺見庸氏)
米軍の軍事力に頼れ、日米安保を強化しろ、沖縄は我慢しろ、というのは絶対違う。その逆です。身体をはった徹底的なパシフィズム(平和主義、反戦主義)が僕の理想です。九条死守、安保廃棄、基地撤廃というパシフィズムではいけないのか。(辺見庸氏)

次に、沖縄出身の仲大盛さんの話がありました。沖縄問題にからめて、アメリカ(軍産複合体)の世界戦略について、さまざまな例をあげて話されました。住基ネットには全ての個人情報が入力され、これは徴兵制度へ道を開くというご自身の考えものべられました。合わせて、いま取り組んでおられる集会「第4回原発と子どもたちの未来を考える-福島からの報告」(2月24日)の紹介をされました。

 参加者からは、「『本土の人間は傍観者的』と言われたのは、事実だと思う。我々自身が変わる必要がある」「沖縄の問題、原発の問題を日本全国の運動にしていく必要がある。またそこに希望がある」「アメリカ、資本主義の本質に対する見方に共感」などの意見がありました。15名参加.(Z)





第205回 11月20日(火) 「機密保護全法の危険性を知ろう」 話題提供:近藤ゆり子さん(「9条の会・おおがき」代表世話人)

近藤さんはまず、「国歌・国旗法」を例に挙げ、たとえ学校で慣習になっていたとしても、法律が作られ法的根拠を持つとこれが圧力となり、抵抗しがたくなった。気付いたら監視、チエック体勢ができ何も言えなくなるのが怖い。「秘密保全」の名で市民監視社会が作られようとしていると語り始める。以下その要約。

 2011年8月「秘密保全のための法制の在り方に関する有識者会議報告書」(議事録はないとして要旨のみ、資料の開示要求に黒塗り回答、名古屋地裁に提訴中)が出され、それに基づき2012年11月、民主党に「特別秘密の保護に関する法律」(仮称)の要点が示されている状況にある。

 問題点として1,秘匿すべく重大なものとする「特別秘密」(①国の安全(防衛)②外交③公共の安全と秩序)の内容がわからない。何を秘密とするかは政府の判断のみ。
2,「社会的に是認できない方法」で特別秘密に関する情報にアクセスする「特定取得行為」を処罰(最高10年)の対象とし、共謀(話し合う)、教唆(助言する)、扇動(「やろう!」、未遂も処罰の対象とする危険性。対象者も大きく拡がり密告社会になるかも。
3,,特別秘密の取扱者には厳しい人的管理を行う「適正評価制度」をとりいれる。そのため過去の活動歴や家族や友人までプライバシーを徹底的に調べる。今も陸上自衛隊情報保全隊は集会、デモ参加者などを調べている。
4,,国会審議なども「秘密会」にし議員などに「守秘義務」を課すよう議会や裁判所にに要請し、議員にもタガをはめ、報道も萎縮させ国民の知る権利を侵していく。

 その結果、米国との軍事一体化の進行との関わる情報保全隊の法的根拠抜きの情報収集状況から、法的根拠を作り、それにより捜査、処罰も可能となる。
 また、監視カメラに囲まれた社会、表現の自由の制限(日常会話が処分の対象に)、知る権利の侵害、取材・報道の自由の萎縮、内心の自由が犯されやがて社会の不安定化、国民の分断、上からの統制が「国の安全」「公共の安全と秩序」を名目に進められていく。
 
 近藤さんは、最後に「ナチスの弾圧に立ち上がった時は、余りに遅すぎた」とのマルチン・ニーメラーの言を引き、今まだ暗黒社会のではない、この悪法をつぶし、お任せ民主主義がら脱却し、憲法が定める平和と人権、民主主義を守り抜くことが主権者の責任であるとまとめられました。

 1時間余り丁寧にまとめられたレジュメをもとに国家保全法の内容と政府の狙いを話され、政府の秘密体質市民監視体制がいっそう深まっていくことに、改めて危機感を感じました。そしてこの問題が戦前の治安維持法より広く、廃案になった『国家秘密法』にはなかった<隠し、知らせない平穏>を良しとする「公共の安全と秩序」まで「特別秘密」に加わえていることや、秘密保護法、安保、原発、TPPなど今日の課題にも大きく関わる問題であることを質疑の中などで明きらかにされました。
 近藤さんは中谷雄二さんとの共著のブックレット『これでわかる!「秘密保護法」ほんとうのヒミツ』風媒社 600円も紹介されました。8人の参加






第204回 10月16日(火)午後2時より  「自民党の改憲案を検討しよう 話題提供:吉田千秋 参加15名

 
「改憲大連合の柱が〈九条を変える〉〈国会議員過半数で改憲案を発議に変える〉〈緊急事態項目の新設〉と明確になってきた。」と前置きし、項目毎に自民党改憲案の解説がありました。
                                            
◇憲法前文「・・・国民統合の象徴である天皇を戴く国家・・・」
◇第一章天皇 第一条 天皇の元首化
第三条 国旗・国歌君が代の強制
◇第二章 安全保障 (「戦争放棄」から変更) 
       第九条 二項 「前項の規定は、自衛権の発動を妨げるものではない。」
       第九条の二(新設) 国防軍の保持  
◇第十三条  公益及び公の秩序に反してはならない →公益とは国益のこと
◇第十五条  外国人の参政権、投票権の制限の明記
◇第二十一条 結社の自由の制限
◇第二十四条 家族中心を強調 → 天皇主義・男性優位の国家観
◇第二十五条の三 在外国民の保護 → 国防軍保持の理由づけ
◇第二十八条 公務員の権利の制限 →他の項目も含め、基本的人権の制限
◇第九章(新設)緊急事態  総理大臣の権限の強化
◇第十章(憲法改正)発議:総議員の三分の二から過半数へ。承認:有効投票の過半数。

「全体に天皇中心の復古主義、反平和主義、基本的人権の制限、新自由主義の改憲案である」とまとめられました。
その後、参加者によって「天皇を元首にする意味」「基本的人権の制限」「家族・愛・絆という言葉と教育勅語」「今の若者の傾向」「国益という言葉」「九条を守る運動」などについて、活発な議論がありました。
最後に吉田さんは、「状況は厳しいが、悲観的なことばかりに目を向けないで、明るく力を合わせて運動をして生きましょう」と締めくくりまし(Z)




第203回 10月2日(火)午後2時より
 「尖閣列島問題を考える  話題提供:吉田千秋さん(哲学) 

「赤旗」10月6日号より



202回 918日(火)午後2時より  「第1回東海ブロック交流会で学んだことの交流」   話題提供:吉田千秋さん+参加者数名

東海ブロック交流会参加者から、報告を受けました。 
交流会の様子は以下の通りです。

 9月16日(日)、名古屋別院で、はじめての東海ブロック集会が開催されました。全体で280名の参加で、岐阜からも、遠く加子母から4名など、67名が参加されました。
渡辺治さん(一橋大名誉教授、憲法学)の講演は、改憲をめぐる情勢についての明快な分析と、今後の活動についての示唆に富んだものでした。
 午後には、渡辺講演ををもとにした<情勢>分科会や、<9条から原発を考える>分科会、<若者と憲法>と題した若者中心の分科会、さらに、<九条の会の発展をめざす>分科会など、全国で初めての分科会方式で、多様な意見交流が行われました。

報告のあと、今後の九条の会の在り方などについて話し合いました。


第201回 9月4日(火)午後2時より  「歴史とどう向き合うか-ドイツと日本の違い-」    話題提供 安藤彰浩(文筆業) (16名参加)

 安藤さんはドイツに13年留学した経験から「ナチス時代は戦後生まれのドイツ人のアイデンティティーの一部になっている」と指摘、正当か不当かの議論は別に、全てのドイツ人が過去に対する重い責任を問われ続けてきたことを知っていると述べました。

資料「1985年5月8日 ヴァイゼッカ-大統領ドイツ連邦議会演説『荒れ野の40年』」と、レジュメ「《国家、歴史、愛国心》歴史という重い十字架を背負ったドイツの自己認識について考える試み」が配布され、それに沿って、ヴァイゼッカ-大統領の基本認識の紹介がありました。
1. 5月8日はドイツ人にとって如何なる日か。2誰を追悼すべきか。
3. 反ユダヤ主義 4.戦争の帰結・責任  5.和解の条件。故郷を追われた人たち
6. 戦後のドイツ、今ドイツは如何なる国であるのか 7.ドイツ分析
8. 世代を超えた歴史に対する責任
重要なことは、たとえそれが不都合なことであっても、常に過去と向かい合うという態度をうしなわないことではないかと総括されました。

そのあとの議論は、実に多岐にわたりました。その一部を紹介します。
・ ドイツは、戦争責任が明確であるのに反して日本はあいまい。
・ 天皇制の温存が靖国派の存在をゆるしている。
・ ヒトラーは国民に選ばれた。だから国民すべてに責任。
日本は天皇を選んだわけではない。だから総懺悔はおかしい。
・ ナチス暴走の原因は全権委任法であった。これは現在の大阪市長を連想させる。
・ ドイツと日本の違いはキリスト教文化と仏教文化の違いでもある。
・ 日本はメディアの責任が大きい。 
最後に、「日本人も変わりつつある。無知にさせられていることを自覚し、各人一人一人が知ろうと努力し、対話をもっとしていけば、ドイツ人の過去との向き合い方に近づいていけるのではないか」とまとめの発言がありました。(Z)





第200回記念サロンは 8月18日(土)今中哲二氏を迎えた「2012夏 平和を考えるつどい」(別掲)としました。






第199回 7月17日(火)午後1時より  郵送作業でした





第198回 7月 3日(火)午後2時より、 「沖縄の基地問題を考える」 話題提供:吉田千秋さん(岐阜九条の会 事務局長)
     DVD [やんばるからのメッセージ]  (沖縄米軍基地の実態)をみて

始めに吉田さんが準備された3本のDVD映像を見ました。
一本目は日米両政府のSACO合意により集落を取り巻くように6カ所のヘリパットがつくられようとしている沖縄県やんばる東村高江での反対運動を取りあげた「やんばるからのメッセージ」、次は垂直離着陸型輸送機「オスプレイ」の辺野古配備と「絶対間違いを起こさないとはいえない」という在日米海兵隊基地司令官、ついで1973年8月~2007年1月まで高江集落上空を飛行する21件に及ぶ米軍ヘリ事故の映像が映し出されました。
 また資料では戦後67年、今年の沖縄慰霊の日の追悼式で朗読された首里高校3年金城美奈さんの自作の詩、日本共産党の外交ビジョンなどが紹介されました。
 金城さんの詩、旧制中学から海軍へ、南洋で戦死した大伯父の名を探して訪ねた平和の礎に語る思いの一部を紹介します。

礎に刻まれた/あなたの名前は/とてもお小さくて/とても窮屈そうで/
  この文字で表せないほどの人生が/あなたにはあった/
  この文字では抱えきれないほどの未来が/あなたには待っていた

67年前を生きた人々の後ろに/私たちは続いている/私たちにできることは/
  あの日を二度と呼び戻さないこと/私たちに必要なことは/
  あの日を受け止めて語り継ぐこと

その後の感想や意見交流では多くが語られましたが、その一部です。、
 自然林や市街地を飛びかうヘリの騒音や風害の見るに堪えない映像を見て、これを止めさせられない安保体制に改めて怒りを感じる。
この現状を沖縄以外の自分たちをを含めて国民は知らない。見たり聞いたりして知ること、意思表示をすることが大切だ。
 話し合い理解するというのではなく司法・裁判で座り込みをする住民を排除する高江住民に対する沖縄防衛局員の対応は間違いだ。
 森本防衛大臣のオスプレイ配備了承を求める沖縄知事への申し入れなどを見ると、裏の力で動かされいるのを感じる。誰を守ろうとしているのか。
 安保体制で国民の役に立たないムダなお金が使われている。本当に守るものを間違えている。
 日本から攻めていくことはないし、平和友好条約は世界の潮流だ。アメリカに包み込まれているから沖縄でひどいことになっている。
 沖縄=最前線基地である限り、戦争は起こされてしまうという前提も必要だ。
意思表示が大切。原発反対の官邸前の20万人デモはマスメディアも取りあげている。いろいろな集会やデモも計画されている。市民に拡げ、参加し、成功させよう。(13名の参加)





第197回 6月19日(火)  「中国新彊ウイグル自治区を訪ねる旅から「中国との付き合い方を考える」 話題提供:吉田千秋さん(岐阜九条の会 事務局長 )


旅の内容:静岡大学農学部/大石惇教授の取り組んでいる、りんごの原産地「野生果林」の研究と保護活動が新彊ウイグル地区で行われている。この活動の紹介と観光を兼ねて敦燵、クチャ(亀慈王国)の莫高窟を見学。シルクロードの北路、南路を極めるため天山山脈の北側から南へ、4280メートルの峠を越えて7000キロを走破。解説付きでDVDを観賞する。

少数民族自治区からみた中国の姿
 経済格差が大きい。 自治区の大都市には漢民族が50%近く入っている。中央の政策。
 辺境の過疎地だったが、最近では地下資源が眠っていることで、見直されてきている。
 少数民族の独立を阻止する中央政府により、言論思想の弾圧がなされている。
 チベット、内モンゴル、ウイグル、各地の不満がくすぶっている。

中国との向き合い方について
吉田:日本から中国を見ると中国の軍備費は7兆円。人口13億。経済成長で軍備拡大脅威。
   だが、
   中国から日本を見ると日本の軍備費は5兆円。アメリカが背後におり戦力は脅威。
   北朝鮮のロケット騒ぎの際、アメリカは黄海にイージス艦を配備した。かなり脅威。
   と見ることもできる。(ここで1時間半経過)

意見交換
 ○中国の国内的な課題は多い。一人っ子政策のつけで2020年には生産人口が減少する。
  食糧、エネルギーが追いつかない。公害、環境破壊問題、経済格差、少数民族間題、人
  権問題、どれ一つとっても国が大きく人口が多いだけに難しい。
 ○日本の場合でも、産業の空洞化、アメリカ主導のTPPによる国内産業の脆弱化。少子
  高齢化。福祉、教育の問題など、課題は多い。
 ○個人的な事柄でも、個人で解決が難しいものがある。
 雇用の確保。生活保護の問題点、老齢者介護。
 ○原発再稼働があまりに無責任に決められていく。これひとつ国民は阻止できない現実。
 ○右肩上がり幸福度でなく、本当の幸福度を考えるべきではないか。
  子どもたちの笑顔に聞いてみたい。

出席者全員が隣国のことだけに活発な意見を交わした。10名の参加 (K)





第196回 6月 5日(火)午後2時~  「TTPと日本の医療情勢」   話題提供:高田一朗さん(全日本民主医療機関連合会事務局次長 岐阜民医連事務局長)


 高田さんには2年前、「憲法25条と自己責任」というテーマで医療現場の問題点を話題提供してもらい、今回は2度目になります。今回は自車税問題などで日本の参加についての日米協議が行き詰まっていると報じられる環太平洋経済連携協定(TPP)について特に医療の立場からの問題提起を受けました。

 まづ、プロジェクターを使ってジャパン通信情報センター製作のDVD「TPPで日本はどうなる」(23分)を使いTPPの概要やリスクなどを、次いで自作パワーポイント「TPPと医療とのかかわりについて」でTPPのねらい、経過、加盟国と参加交渉国、参加するメリットとデメリット、食料自給率、アメリカの要求などなど全体像にふれたあと、本題の医療・介護への影響について丁寧に説明されました。以下にまとめます。

1,日本の混合医療の全面解禁
 同じ病気に対し保険診療と自由診療を併用することですが、自由診療分の費用を支払う時は保険診療分も全額自己負担になる。未承認薬も自由診療では使えることになり、負担増、副作用などの安全性、自己負担が固定化されお金がなければ利用できない状況になるなどの問題点が発生します。これまで日本の医療は「誰でも必要な医療は公的保険適用で行う」ことを原則にしてきたが、公的医療保険では「そこそこの医療」を行い、十分な納得のいく医療は自費診療でということになります。「公的医療制度の充実」のためには、絶対に「混合診療」を認める訳にはいきません。
2,株式会社の医療機関経営への参入
 現在、「医療」は非営利とみなされ株式会社の参入は認められていないが、アメリカも日本の財界も日本の「医療」をもうけの場に変えたいと狙い規制撤廃・削減を求めています。介護事業にはすでに営利業者が参入し採算が合わなくなると撤退したり、不正受給事件が起きたりもうけの対象にしている。「医療」にもそれが及んできます。
3,医師、看護師、介護職、患者の国際的移動
 TPPでは「看護師、介護福祉士等の海外からの人の移動」を受け入れることが求められています。すでに始められてもいますが、今の日本の医療・介護労働者の低賃金、人手不足を解決しないまま、安い労働力として外国人労働者を受け入れることは、現状の困難を固定化することで処遇改善、増員につながりません。
 その他投資家対国家の紛争解決手続きにより、たとえば日本が禁煙規制を強めると、アメリカのたばこ会社から損害賠償を請求することもできるようになります。貿易「障壁」と見なされるからです。

 高田さんは最後に、このようにTPPは日本の医療・介護に一層の市場化と営利化をもたらし国民皆保険制度をの崩壊を招くもので、これに断固反対する。TPP加入を阻止し、日本の「国民皆保険制度」「公的医療制度」を守るとともに、現在進められようとしている社会保障制度を大改悪しようとする「社会保障と税の一体改革」に反対する運動を進めて行きたいとまとめられました。
 終わって参加者からは経済のグローバル化と国民世論との乖離、患者追い出しなどの病院経営と医療政策の問題点など多くの発言がありました。11名の参加。






第195回 5月15日(火)午後2時~  「子どもたちの輝きに希望と元気をもらう~子どもエコクラブの活動 と 東北キッズ支援 から~」 
話題提供:清水佳子(NPO法人長良・自然とくらし楽校 副理事長)
 

 清水さんは、20年前、自分の子どもがいつも遊んでいる天神川の改修で三面工法が採用されることを知り、「自然が失われてしまう!どうしても三面工法をやめさせたい!」と思いました。仲間と共に、天神川の源流「岡口谷」まで歩く会を組織、天神川の調査(三つの稀少貝を発見!)などを精力的に行い、自治会にも働きかけ「子どもたちのための」共同の運動にしていきました。そしてついに三面工法を二面工法(川底は自然のまま)にすることができました。安全のために階段も広くなりました。ハッチョウトンボ保護のための「トンボの里」も建設されました。

 そんな活動の中、週休2日になったのを契機に子どものエコクラブ「しぜん、いきものクラブ天神川」を作り、2007年には「長良・自然とくらし楽校」を設立し、子どもたちの活動をサポートしていくことになりました。

 また、2009年には高学年部「自然の仲間」を作り、より科学的な学びの場としました。学校との共同活動も増え、長良中総合学習では、天神川で蛍を増やしたいという子どもたちの思いから、カワニナの養殖・放流へと発展していきました。

 このような多彩な、仲間との体験・科学学習の中で、子どもたちは確実に育っています。それを、清水さんは「芽ばえる暖かさ / 受け入れられる充足感 / 命を思いやる心、助け合う心 / 多種多様を知る」 とまとめられました。 今後も「主体的な活動」「五感を働かせる」「違いがある」ことを大切にしたいと話されました。

東北キッズ支援についての報告もありました。NPO法人長良・自然とくらし楽校は、今年3月に気仙沼大谷小学校6年生全員28名を岐阜へ招待しました。14家族がホームステイを受け入れ、岐阜大学学生20名もボランティアとして参加しました。気仙沼の子どもたちにとっても、受け入れた子ども・家族にとっても、今後につながる大きな収穫があり、また8月にも第2弾を計画したいと話されました。

 参加者一同、それぞれの幼い頃の自然体験を思いおこしながら清水さんの話を聞きました。行政、地域、学校、民間団体、専門家をつないだ粘り強い運動のすばらしさは勿論、それを繋いだニュース「ながら子どもエコクラブ便り」についても話題になりました。今の子どもたちは塾・競争などで団結しづらく、自分の頭で考えることができない。だからこそ、こういった活動がとても大切だ、どんどん拡げてほしいというのが参加者の一致した感想でした。写真の中の生き生きとした子どもたちの姿が印象的でした。9名の参加(Z)






第194回 5月 1日(火)午後2時~  「メーデー」に参加





第193回 4月17日(火)午後2時~  「朗読『千本松原』(岸武雄作)とわたし」  話題提供:三島幸司さん

三島さんのサロン九条登場は2度目、前回は174回のこばやしひろしさんを偲ぶテーマの時でした。今回は128日瑞穂市で上演された朗読劇「千本松原」の演出者としての取り組みをお聞きしようというというものでした。

まず自己紹介を兼ねて上演までの経過を話されました。こばやしさんの主宰する劇団はぐるまで役者として、また演出者として活躍されたのち、平成20「みずほ朗読の会 朋」を創設し、新しい朗読のあり方を探る活動を始められた。
それは、言葉で表現することで芝居を見るのと変わらない情景を浮かび上がらせる第3のジャンルを追求することになったこと、そしてその背景には、はぐるま時代に、何度もやり直させられるうちにきちんとでき、できると自然に体が動く、みんなも有機的に動き出すことを学んだこばやし氏の言葉を大切にした厳しい指導がに裏付けられていることをうかがい知ることができました。「こばやしさんなくして自分はない」ともいわれ、こばやしさんが今も三島さんの背を押しているのを感じました。

次いで950人の薩摩藩士が動員され総奉行平田靱負など53人の自刃、33人の病死者を生んだ木曽・長良・揖斐川の治水対策=宝暦治水のお手伝普請について説明され、それはやればやっただけ金がかかり国元は困る、ほめてくれない、藩士らにとってはむなしい仕事だったとされまた、どの文献にも農民の話は全く残っていない点から、幕藩支配の中での薩摩いじめの手段であったことも指摘され、岸さんの作品に移りました。
 三島さんは、岸さんは、「リアリズムを基礎としながら壮大な革命的ロマンを描く」という斉藤隆介さんの主張を取り入れ、与吉という子どもの感動的な物語を言葉にして、読みやすく分かりやすい文章で書き上げたと高く評価をされました。

続けて岸さんが「千本松原」執筆当時、同じ岐阜付属小にいた参加者の鈴木頼恭さんが、彼は朗読してのち書き、それを子どもや職員に読み聞かせ、その反応を確かめ、意見も聞き取り入れもした。また、子どもを中心にしなければと与吉という主人公を設定し、最後に殺してはいけないという職員の意見に反し殺すことで巻末に大きな感動を与えることになった。「史実を書いても物語にはならない。ウソを本当のように書くのが作品だ」との補足の説明により、理解が深まりました。

最後に三島さんは、今後も郷土で生まれた作品の朗読劇を、演出的な脚色にしあげ続けていきたいと展望を話され、「千本松原」を実際に鑑賞した参加者からは、朋のレベルは高い、1時間を超す長い朗読劇でもイメージが拡がり集中できたとの感想も聞けました。(15人の参加)






第192回 4月 3日(火)午後2時~   「憲法違反! 大阪府教育基本条例を斬る!」  話題提供:加藤久雄さん(日本福祉大講師)

加藤さんはすでに「条例案」が府議会議決によ「条例」になっているとまえおきされて、日米安保条約をなくし憲法を活かすこと、沖縄、原発、TPPに見られるアメリカ財界の言いなりを糺すことを基本的な視座とするとして始められましました。
 次いで、中教審の道徳教育答申、勤務評定実施、新自由主義の登場、導入を渋った「子どもの権利条約」、財界の教育介入、教育基本法改正など戦後の教育改革を多方面から取りあげ、それらは教師のいのちである教育実践の自由をあらゆる手段を通じて破壊つくしてしまおうという橋下政治につながるとして、橋下教育改革の分析に入りました。
 
 要約すると、①時の権力者(知事)が直接教育に介入できるようにしている、②教育と教育行政にかかわる人から自律的に考える機会を奪い、「上」からの指示に服従うする人びとを作ろうとしている、③教師の分限免職、暴力による「指導」の是認、児童生徒の出席停止と親に対しての家庭教育の徹底の義務づけなど「ノ-」と言わせないための制裁の体系、④校長・教員への民間人の大幅な登用を目論み、⑤校区の廃止、定員充足度による府立高校の統廃合を目論みをあげ、政治が教育に乱暴に介入し、制裁をもって服従を強い、経済界が求める「競争力人材」を効果的に養成する徹底した競争をを導入するものだと断じられました。
 さらに澤地久枝、市川談之助、早野透など16氏の各界からの批判的な意見や見解を列挙された上で、石原・橋下流首長独裁政治に対し「新しい福祉国家」がそれに変わる対抗軸だとし、大企業の社会的責任、平等・互恵の日米関係、少数者・弱者・異質の視点、人権と民主主義の視点、共同と共生の視点をあらゆる分野に貫く、教育の分野では子どもの最も近くにいる親、教師の当事者制を何より尊重することとされました。
 最後に明らかにしたいことととして、橋下独裁政治の目指すもの、橋下人気を煽るマスコミの果たしている役割 、人気の集まる理由、私たちの基本的な戦略・戦術をあげそれぞれに加藤さんの見解をのべまとめとされました。

 それにしてもA48枚の表裏からなるレジュメや資料は内容豊富で、事前の準備の大変さがうかがえました。その結果この課題をすべて網羅された形で学ぶことができました。岐阜市で風速28mの「春の嵐」のなかでしたが、18人の集まりとなりました。年休を取って参加された現役の先生2名など4人の新しい方の参加もあり、にぎやかに交流もできました。



第191回 3月 6日(火)   「放射性廃棄物について」  話題提供:兼松秀代さん(放射能のゴミはいらない市民ネット・岐阜)

松さんは、まずチェルノブイリの原発事故の放射性物質が、8千キロ以上離れている私たちの地域に降り注いでいることにショックを受けしばらくした後の1995年、東濃地域に超深地層研究所を造る計画が発表されて以来17年この問題に取り組んで来たこと、その後参加されていた方がだんだん去って行き私自身も本当は逃げたいもと思っていたが、今回の福島第一原発の事故で想像を絶する放射能物質が放出されたことで、改めて原発のごみの恐ろしさを認識したこと、憲法をいくら守っても事故は起きている現実などを指摘されました。
 また、3日前の3月6日に兼松さんたちは、福井県美浜町の関西電力美浜原発近くの水晶浜海水浴場から1000箇の風船を飛ばし風向きを調査され、その結果を報告されました。風船を放って3時間後には垂井町、池田町、岐阜市、大垣市などから報告が入り、6日までに44個が発見されている。最も遠いのは130キロ離れた瑞浪市釜戸町で、発見はここから米原市までの東西100キロの範囲に帯状にひろがっているが、滋賀県北部や福井県では1個も見つかっていない。そのうち岐阜市の9個 は最も多く、原発事故が起これば確実に被害を受けるまさに「若狭原発の岐阜住人」といえる状況とされました。9日には岐阜県知事に原発立地県と同等の権限を持つよう原発事業者に申し入れるよう要望する予定と、運動の渦中にあることも話されました。



 兼松さんの主張はおよそ次のようでした。
 当時の動燃(現・原子力機構)は超深地層研究所は高レベル廃棄物の最終処分研究をする施設だといい、岐阜県、瑞浪市、土岐市は住民に知らせるることなく交付金と引き替えに受け入れ長年になるが、深刻な核のごみ処理問題を処分場と切り離しての研究だけで終わらせるとは考えられない。協定で研究所を処分場にしないとしているが、研究所内でなければ隣接地なら処分場にできる。フランスとは違い地層に亀裂が走り大量の水のわき出るこの地に地層処分(使用済核燃料をイギリス・フランスで再処理してプルとニュームを取り出し残った高レベル廃棄物をガラスと一緒に固めて金属容器に入れたものを一時的に青森県六ヶ所村に置き、30年から50年冷やし続け、その後地中深く埋める。安全になるのは100万年後)は非常に危険。原発のごみを埋めない。使用済み燃料を再処理しないということは、原発を止めるしかない。

 兼松さんの詳細なプロジエクターを使った説明、的確に問題点を取りあげた中京テレビのDVDなどで、日頃気にしながらも曖昧にしてきた核廃棄物処理問題を自らの問題として捉えることができました。特に原発問題を処理の側から考える切り口、自分のこととして福島事故を考える視点などいつものことながら兼松さん真摯な姿勢に教えられることの多かったテーマでした。支援のカンパも集まりました。16人の参加..<新聞記事右は3月7日付岐阜新聞、左は3月10日付朝日新聞>


                          




第190回 2月21日(火)  「餓島(ガダルカナル)からの生還」 話題提供:井川貞能さん(94歳の方。当時下士官)

 
井川さんは96歳、「70年も前のことなので、はっきりしない」としながらも、しっかりした口調で記憶をまとめられ予定をオーバーし1時間半。「軍隊は運隊」と波乱に満ちた戦争体験を丁寧に話された。

 岐阜で編成された228連隊に1938年22歳で入隊、3ヵ月の訓練後、大阪港から広東へ。3年間鉄道警備や討伐に当たる。1941年太平洋戦争が始まると香港を敵前上陸し占領、翌年1月フイリピンアンポン島占領の際の激戦中に負傷し1ヵ月治療。そこで転戦命令が下りジャワ、チモール島へ移り7ヵ月警備、戦争もなく手榴弾で魚を捕ったりして楽しんだ。その後ジャワ島へ、帰還できそうとの噂が拡がり、物価も安いので私物を買い込んだりもしていた。
 しかし極楽はそこまでで42年11月ガダルカナルへ送り込まれた。ガ島ではすでに旭川や九州の連隊が全滅しており、制空・制海権は失っていた。輸送船と駆逐艦で島を縫うようにして3日後朝方上陸した。
 硬い土を掘る塹壕作りが仕事。そこへ敵艦や低空からの機銃掃射が繰り返される。
 食料は一週間でなくなり、飢餓地獄が始まった。口に入るものは手当たり次第に食べた。壕へ落ちてくるトカゲは手足やはらわたを取って水で煮る。カタツムリ、ナメクジ、ありの巣、椰子の芽、ミョウガなど何でも食べた。餓死者や病死者が出ても穴も掘れず落ち葉をかぶせるだけ。
 米・オーストリア軍に包囲されており、戦力もなく玉砕を覚悟していた43年1月、一部を切り開いての撤退命令が出る。130人の中隊はすでに45人になり、動けるものは20人になったていた。15人の決死隊が手榴弾を持って突っ込み、5人戦死したが敵は逃げた。寒い雨の中血路を開いた。動けないものには自決命令が出た。「最後に水をくれ」といい「ありがとう」といって死んでいったもの、説得を聞かずはって逃げようとし小隊長に撃ち殺されたものもいた。
 2ヵ月前上陸した江スペランスで、夜半駆逐艦に乗船、股ぐらを拡げ重なり身動きもできないほど詰め込まれたが、日本の飛行機の護衛もあってブーゲンビリアへ脱出。2ヵ月後 師団司令部の置かれたラバウルへ「転進」した。警備の任についたが、毎日空爆があった。
 45年8月15日胴に「日本降伏」と書かれて飛ぶ米軍機を見、翌日中隊長から終戦を知らされた。その後1年間は捕虜生活。サツマイモにトウモロコシの食事を与えられながら米軍の飛行場作りに従事し、帰国を待った。

 
井川さんは9年にわたる外地での軍隊生活、とりわけ3ヵ月のが島での死闘を、昨日のことのように話された。最後に、ガ島に送り込まれた約3万の兵士のうち、戦死約4000人、餓死約1万5000人、撤退できたもの約1万600人という日本陸軍創設以来の惨状の体験を通じて、「自分の体は自分で守る。自分に勝たねば死ぬ」「悲惨な戦争は2度とやってはいけない」とまとめられました。叔父はガ島で戦死したなどそれぞれ関わりのある初参加者が5人、19人の集まりとなりました。








第189回 2月 7日(火)  「忘れないで 東日本」  話題提供:丹原 美穂さん(支援グループ岐阜・手と手)

1月に岐阜市内3箇所で「忘れないで東日本大震災」というテーマで写真展を開催したばかりの「手と手」代表丹原美穂さんをお招きしました。写真展から「あたりまえのことに感謝する、周りの人を大切にして暮らす、希望を失わないで生きていく」ことを感じてもらえたら・・・と話を始められました。

最初にDVDを見ました。被災者が現地で津波におそわれ逃げながらリアルタイムで撮影した生々しい映像です。丹原さんが釜石へ何度も足を運んでいる間に知り合われた方から「多くの人に伝えて」と託されたものだそうです。あまりのもの凄さにあらためてショックを感じました。

次に海外のウェブに出た写真をCDにしたものを見ました。BGM「人間失格」が効果的に使われ、とてもメッセージが伝わるすばらしいもので、是非多くの方に、特に若い人に見てほしいと思いました。

 次に現地写真家菊池信平さん・大西暢夫さん・丹原さん撮影の写真を見ながら、丹原さんが震災以来毎月支援に行っている大槌、釜石で感じていること、現地の人とのエピソード、校舎が津波で流された釜石東中学、火災にあった大槌中学校の様子などについてくわしく話がありました。

 今は心の支援が大切だと考え、1月には仮設住宅集会室で鑑開きを企画。皆にとても楽しんでもらえ、これからもコミュニケーションの場を提供したいと考えておられます。

 太鼓を瓦礫から拾い修理して再興した桜舞太鼓の支援。自転車を届ける計画、仮設住宅へお米券配布・・・など次々と繰り出す企画力とエネルギーに圧倒されました。

 参加者から、直接被災者に支援が届く「支援グループ岐阜・手と手」の活動をもっと多くの人に知らせ、拡げる手だてはないのかという意見がありました。それに対して、丹原さんが「み-たんのブログ」にその活動を細かく書いていることや、「手と手」から月1回ニュースが発行されていることなどが紹介されました。
新聞記者の参加もあり、義援金が有効に使われているだろうか? 新聞はその点をもっと追求してほしい・・・などの意見も出ました。(Z)





第187回 12月 6日(火)  「第九条の会第4回全国交流集会に参加して」  話題提供:吉田千秋さん

11193年ぶりに開かれた「九条の会全国交流集会」の様子を、参加された吉田千秋んから聞きました。

 会場の日本教育会館は大震災の被災地や沖縄など全国から750人が参加して熱気でいっぱい。呼びかけ人の奥平康弘さん、大江健三郎さん、澤地久江さんの順に挨拶があり、続いて各地からの報告が続きました。

 その中で澤地さんは、1030日岐阜市民会館で開催した「2011平和のつどい」に特に触れられ、「感動した」と岐阜の活動を紹介されました。圧倒されたのは参加した50ばかりの県内の九条の会の代表が、幟旗やプラカードを掲げて舞台いっぱいに並びアピールしたこと。郡上九条の会は郡上一揆で知られる「むしろ旗」を振るなど、それぞれが地域の歴史に根ざしたいろいろな幟が勢揃いしたのは圧巻だった。次回の全国交流集会には、参加者みんなが幟を持って参加するように事務局へ提案したいと、もったいないようなお話でした。

 地域からの報告では、付知九条の会が昨年10月、住民6234人の過半数3,300人の署名を集めたことが評価され、野村正治さんが指名され発言しました。野村さんは大事にしてきたこととして、①96才のもと自民党役員だった「9条おばあさん」(自称「9条妖怪ばあさん))など広い層から集まった世話人119人を大事にし、6人の事務局を中心に世話人みんなが納得をしたことだけを行う、②4つの地区での小さな、そして年に一度の400人規模の学習会を重視してきた、③会員ひとりがひとりをと責任を持って署名を集めることをすすめたことをあげ、その活動の中から激励や感動をもらったなど活発で粘り強い活動が報告されました。

 また、参加されていた加藤宗男さんからも、瀬戸市には39もの九条の会があり、学習に力を入れているとの話を聞きは励まされたと会場の様子を話されました。

 参加者の交流では、付知では恵那教組と森林組合の伝統と年金社組合への結集が大きな力を発揮している、合併により中津川市となっても付知を大事にしている、中津川市議会選について、署名以外の小集会などで活動で地域と密接に結びついている岐阜長良九条の会、原発反対と九条活動の関連、県内各地の交流などが話題となりました。

 また吉田さんから、来年は東海ブロック交流集会が919日(日)名古屋東別院ホールで全体会と分科会が開かれることになったと報告されました。新しい取り組み楽しみですね。




第186回 11月15日(火)午後2時~  「平和のつどいDVD鑑賞」  

 参加者一同、それぞれの幼い頃の自然体験を思いおこしながら清水さんの話を聞きました。行政、地域、学校、民間団体、専門家をつないだ粘り強い運動のすばらしさは勿論、それを繋いだニュース「ながら子どもエコクラブ便り」についても話題になりました。今の子どもたちは塾・競争などで団結しづらく、自分の頭で考えることができない。だからこそ、こういった活動がとても大切だ、どんどん拡げてほしいというのが参加者の一致した感想でした。写真の中の生き生きとした子どもたちの姿が印象的でした。9名の参加(Z)




第185回 10月18日(火)  「平和のつどい」準備作業




第184回 9月20日(火)  「放射線汚染(内部被爆)について考える―カザフスタン・セミパラチンスク核実験場18年後の現実からー」  話題提供:中山 隆男さん(元小学校教師)

 これまで見た広島・長崎の原子雲より何倍もの規模の赤い球、大きく拡がるきのこ雲にみる核実験のすさまじさ、動物や建物が吹き飛ばされる爆風、そうして幾世代にも及ぶ放射能の被害や政府の対応などを多くの映像や証言で伝えるNHKが放映した「セミパラチンクス核実験場18年後の現実」のDVDを見た後、中山さんの解説を聞きました。

 旧ソ連領だったカザフスタンのセミパラチンクス実験場でソ連は1949年から1989年まで456回の核実験を行った結果、多くの住民が被曝することになった。爆発は地上数十mの高さ(広島は600m)であったため放射に汚染された土壌や粉塵が気流に乗って高く舞い上がり、また風の影響で拡がり、広範囲に飛び散った死の灰が草原や大地に積もり、長年にわたり人々の体内に蓄積(内部被曝)していったと考えられる。
 そのため20年たった現在も核実験場の周りに住む人々に、甲状腺がん、白血病、肺がんなどあらゆる部位でのガンが多発、子どもには、知的障害、水頭病、小頭症、ダウン症、奇形児出産などが多く、死産・流産立は13%前後に及ぶ。
 このような事態に、放射能の汚染との因果関係を明らかにせず、住民に核実験の危険性を知らせなかったソ連(ロシア)はその影響を否定し続けている。これはアメリカが内部被曝を隠し核兵器の残虐性をそらし、日本政府も原爆症認定を却下してきた姿勢に通ずる。

 このあと中山さんは放射線のアルファ線を取りあげ、体内に入りやすく、体内に入った放射能の埃から放射線か発射され、細胞の死滅、遺伝子の変性がん細胞へ発展するなど内部被曝の構造を説明され、またセミパラチンクス実験場がソ連解体後、世界で唯一世界の研究者が訪れ調査ができる実験場となり、因果関係の解明などもすすむと期待される。最後に放射線被害隠しと原発安全神話は、国民を欺いていたという点では似ている。福島原発事故後、放射の汚染について様々な情報が流されているが、国民は二度とだまされないよう、放射線についての知識を身につけなければならないと指摘されました。

  意見交換は、知られざるセミパラチンクス実験場の実態に衝撃を受けながら、核兵器の本質のとらえ方、福島の10年後は、安全地帯の認定は正確か、カザフスタンの除染、遺伝子の破壊への対応、核廃絶の道筋など難解な問題の指摘が時間を超えて続きました。





第183回 9月 6日(火)  「戦争の被害、加害、抵抗を考える」  話題提供:鈴木 頼恭さん(「2011平和のつどい」実行委員長)

1030日の「平和のつどい」の実行委員長をつとめていただく鈴木さんに6月の岸武雄をめぐる話に続いて、戦争に翻弄され数奇な経験の中から捉えられる戦争の本質と国のありようについて話していただきました。
まず、当時のほとんどの人は戦争の被害者であり、まずそこから出発するとして世界遺産の姫路城を米軍の投下した焼夷弾から守った自らの体験「焼夷弾を担ぐしかない」から始められました。

19456月(終戦2ヵ月前)豊橋予備士官学校を19才で卒業し姫路の部隊に配属され、5日間の講習の後爆弾処理専門将校の任につく。尼崎や相生空襲などの不発弾処理に当たっていたが、74日朝、前夜から続いた姫路空襲で姫路城に落とされた不発弾処理に当たるよう命を受け部下ひとりを連れて天守閣にあがると、岐阜市平和資料室に展示してあると同じM47100ポンド焼夷爆弾がゴロンと。いつもと違う信管なのでそこでは処理できない。反射的に担いで、部下とリレーしながら急な階段を降り、城外の広場まで運び出し爆破させることができた。しかし、「天皇陛下万歳」の名誉の戦死でなく、不発弾にドカーンとやられての戦死では情けないと思ったが、仕方なかった。
 敗戦になっても、大正13年生まれで国体には疑問を持たない世代。負けても山河は残ったからいつかは仇討ちの兵を連れてワシントンへと、被害者意識でいっぱいだった。村の青年教師を連れて宮城の勤労奉仕にもすすんで行った。

しかしそのとき日本は何をしていたのか、やがて知るようになる。この夏黒龍江省方正県が建立した旧満州開拓民の慰霊碑が撤去された問題、重慶地震救援の自衛隊機派遣が拒否された問題に見られる日本を敵視し許さない人民、北朝鮮とは国交回復もできず何も解決できない、韓国では従軍慰安婦問題で憲法裁判所が韓国政府の取り組み不十分の決定を出すなど日本の侵略加害の残した傷は深い。人民の心は収まっていない。

次いで、1937年日中戦争の始まった年、徴兵拒否をし逃亡、東京で逮捕され北支の部隊へ送り込まれるが敵前逃亡、軍が戦死として扱い親族は墓を建てて弔うが、戦後何年かして帰還、八路軍に加わっていた叔父を紹介、一時は「非国民」扱いを受け親族も恥ずかしい思いをしたが、徹底して兵役拒否を貫いた叔父を知り一代記を残したいと考えたが、今は家族や知人もわからなくなっているとのこと。「この戦争は侵略だ。止めるべき」といい有罪になった垂井町の僧竹中彰元の発言も同じ年、参加者からも肌着で後ろ手に縛られ編み笠をかぶされ裸足で引っ張られていく脱走兵の話など国民の抵抗が結構あったことが話題になった。

最後に「九条の会」の活動も政府への抵抗だとして、非同盟がすすみ、北アフリカの民主化などの世界を見るとよい方向に向かっているのに、日本は日米同盟で良いのか。PKOの武器使用、武器輸出三原則の見直し発言も出てきた。もっと国のあり方を考え、平和国家とは、人間尊重とは、戦争とは何かを考えていきたいとまとめられました。(14名)

 

第182回 8月9日(火) 「澤地久枝さんから学ぶ」  「九条の会」発足7周年記念講演会DVDを観て、意見交流をしました。

最初に今年6月4日、「九条の会」創立7周年記念として日比谷公会堂で開催された講演会での澤地さんの講演をDVDで聴きました。やや早口ながらはっきりした口調で、分かりやすい言葉で、原発問題を通して私たちの生き方を示唆されました。以下に要約します。

 まず東日本大震災の地震、津波、原発事故と三重苦の困難にもかかわらず、政府家は政治を回避し相手への攻撃に明け暮れし、生存権の保障を忘れた政治ゴッコをつづけている。一方9条はどっかへ飛ばしてしまい、自衛隊基地を国外に設置したり、改憲発議を議員過半数でよしとする改憲の動きも出ている。
 そして、内部汚染に犯されるおそれのある子どもたちへの集団疎開などの緊急対策、津波で家も職も失い収入のない人たちへの緊急保障、そこで働いて正当な利益をあげられる新しい街づくりを国の税金で行うなど、今政治が考えるべきことはいっぱいあるのに、行き当たりばったりで政治のつとめを果たしていない。
 こういう時に力を持つのは市民だと考える。政治を変えなければダメだから。憲法9条と生存権を保障する憲法をよりどころに世直しをしよう。こういう政治や生活が必要だとひとりから始める。やがてそれが拡がり7500もの九条の会ができたようにネットワークができる。お互い一人ひとりが市民運動を始め、やがて人口の半分の署名がとれれば変わる。
 事故を止める技術を持っていないことがはっきりしたからには、原発を全部止めることを考えていきたい。電力不足で経済は疲弊するというが、それに見合った小さな国になっても良いではないか。幸福の原点は家族揃って一緒に食事ができることだと大震災の被害者はいう。貧富の格差をなくし、ささやかに、静かに、夢に満たされて死んでゆければ良い。戦後満州での抑留生活で感性も失い乾ききった心になっても、国は何もしてくれなかった。だから今、私たちは横の連帯を拡げ、乏しいものを分かち合って、ひとりももれなく人間らしいくらしをしていきたい。それがなければ憲法は意味がないと思う。
 「福島とともに生きる」ということを考えている。原発を止め、どうしたら原発をなくせるか。軍事力ではダメ。国際会議で5年ごとに”核エネルギーに依存しない”手段を探っていく。その前に日本では原発から離脱するという、未来に向かっての仕事をしよう。
 
 終わっての感想では市民の自覚的運動の成果、主権在民の自覚とか澤地さんの想いへの共感が多く出され、また「”くらしは低く、思いは高く---生活は保守、想いは革新”が自分の生活信条。人間の原点をしっかり持っているから、新しい製品など入れる必要はない」との発言もありました。
 残った時間で「原発神話」の嘘を暴くDVD「西谷文和の原発問題」を見ました。





第181回 7月19日(火) 午後1時より「「2011平和のつどい」のチラシの郵送作業」 郵送作業が終わり次第、パネル活動

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第181回 7月19日(火) 午後1時より「「2011平和のつどい」のチラシの郵送作業」 郵送作業が終わり次第、パネル活動





第180回 7月 5日(火) 話題提供:岡崎 行雄さん 「地域からの網の目平和行進」

岡崎さんは2011年原水爆禁止国民大行進の岐阜県内網の目行進として、715日に行った「揖斐郡・神戸町 ピースウォーク」の取り組みについてプロジェクターを使い話されました。

これまでの東京-広島コースは県内一部の各務原-岐阜-大垣-関ヶ原の幹線ルートを通り、他の地域では参加できないできました。岡崎さんは住んでいる揖斐郡で通らないからと何も取り組まないはおかしいと、4年前から「九条の会」や年金社組合、医療生協の人たちの力で網の目行進をはじめた。今年はのべ約350名が参加した。

 大野町から出発し、揖斐川町、池田町、神戸町を通り大垣城西広場で「全国行進」と合流するコース、途中車で移動することもあった。どの自治体でも町長や議長が出迎え、激励の挨拶や支持を示すペナントをいただいた。大野町、池田町、神戸町では町長、議長が行進にも参加された。揖斐川町では100人ほどの役場職員が出迎え、神戸町では多くの役場職員が「原爆許すまじ」や「青い空は」の歌声で暖かい歓迎を受けた。また「原爆と平和展」を同時に揖斐川町と池田町で開催したり、揖斐川町、池田町、神戸町では寺院の鐘楼を借りて「平和の鐘」を撞くなどの催しも行進にあわせて行った。

 さらに今年は始めて西濃南部でも取り組んだ。大きな看板をつけた軽トラックで宣伝し商店街は歩くなどして、安八町、輪之内町、海津町(今尾、高須)養老町を巡り関ヶ原で合流するコースを始めた。7人の行動だったが大きな成果だと思う。これで西濃地域の全自治体を平和行進が通ったことになり、他地域での参加もあり全県で67%自治体と飛躍的に増加した。

 「原爆はいかん」「戦争はいかん」といっても、行動するとになるとなかなか自発的に参加しない。身近なところで訴えられる結びつきか必要と、老人会や趣味の会に参加している。若い人にもつながっていかないと---つなかりの大切さを強調された。

  新しい運動を立ち上げるための実践的な取り組みを続け、次第に確かなものに積み上げていく大変な活動を、岡崎さんはユーモアを交え自然体で語ってくれました。原水爆廃絶は、いまや行政も巻き込んで国民的合意にでもなっているような気分にさせられるような元気の出るお話でした。





第179回 6月21日(火) 話題提供:鈴木 頼恭さん   「『わたしはひろがる』に込められた岸 武雄先生の願い」                     

鈴木さんは1954年、創設された岐阜大学付属小学校へ赴任しました。長良小学校で7年たった28歳の時でした。誘われた当初は付属校の持つ特権的な性格に嫌気をし承諾しないでいましたが、大学、県教委、県教組と主事とで日本でただ一つの完全抽選で入学者を決め民主教育のモデル校にしたい、しかも中学主事は自由教育で知られる野村芳兵衛、小学校主事はつづり方教師の岸武雄であることが分かって迷うことなく創設の一員に加わったのこと。そこで19年、岸武雄が並の管理職でなかったことを痛感したいくつかを話されました。

 軍隊の兵舎を移築した校舎、空襲で焼けた荒れ放題の運動場で付属らしい教育を始めようと教育目標の模索から始まった。「どういう子どもを作ったら良いか」を時間をかけ話し合い、岸さんがリードし当初「自主性(誠実)、社会性(博愛)、創造性(英知)」を掲げたが、高度経済成長期に入ると私生活中心の経済第一主義から受験競争、序列主義がひろがるなかで見直しが必要となり長い模索のすえ得たもの「なかまのしあわせのために」を添え、「なかまのしあわせのために、よく考え、助け合い、力いっぱい作りだそう」がうまれた。「仲間の幸せ」を自覚させ、どう子どもたちに拡げていくのかに応えたのが、岸さんの「わたしはひろげる」だった。

 ここでは子どもたちも職員も「主事先生の話」の聞ける全校朝の会が大好きだった。教育目標をふまえた心温まる文学性の高い数分の短編童話が聞けるからです。職員も傾聴し研修の場になっていました。卒業式の話で「わたしはひろがる」を使うこともありました。「教育というはたらきは、わたしをひろげふかめて、なかまとしての一体感を育てていくことではないか」の岸さんの言葉をこの詩の朗読を聴きながら、自分を確かめたものです。

 岸さんは何をやっても叱らなかったし、文部省の意向を受けた国の下請け学校になることを慎んだ。わたしが60年安保闘争で国会へ請願に行くことになった時、校長からは「警察に身柄引き受けには行かないから頼むよ」と云われたが、岸さんは「行けていいなあ」と。わたしが学校の近くを流れる死の荒田川を取りあげ、子どもの魚が住めない川の認識を社会問題として取りあげたときも、偏向教育のレッテルが張られたが、「それを乗り越えていくのが付属の教育」を励ましてくれる管理職だった。だからみんな同じ思いで実践研究を個性的に独創的に取り組めた。こんな充実感は岸さんのもとでこそ味わえるものだった。

 野村芳兵衛、川口半平、岸武雄、松野達雄など優れた教育者に囲まれた恵まれた環境の中で教育実践に打ち込まれ、今もご活躍の86歳の鈴木さんはがんと闘いながらますますお元気、この秋の平和のつどいの実行委員長を務めていただける。ますますのご活躍を祈ります。(秋の「平和のつどい」に恒例となった群読に、今年は岸武雄さんの『わたしはひろがる』が使用されます)




第178回 6月 7日(火) 話題提供:加藤 宗男さん、丹原 美穂さん 「東日本大震災支援活動に参加して」            

 東日本大震災から3ヵ月、この間サロン九条常連2名が東北地方へ救援・視察に行かれました。今回はそのお二人からその様子をお聞きしました。

 丹原さんは171回サロン九条で、フイリピンの子どもへの支援活動を報告された人。今回もテレビを見てじっとしておれずすぐにでも支援にと動いたが受け入れ体制が整わず断られていたが、ようやく社福協の岐阜県ボランティア隊30人の一人に参加でき422日~25日、岩手県大槌町へ入った。現地はテレビで見る以上のすさまじさ。民家の泥だしやがれきの撤去に当たるが、悪臭やばい菌だらけの中足の踏み場もないところで頑張った。
 自分たちのものはないのに冷やした缶ジュースを出してくれたり、帰り際には家族全員の最敬礼を受け胸が一杯になったり、道ですれ違うたびに、見知らぬ人からも「ありがとう」と声をかけられたりした。


2回目は5月2829日。県も市も救援物資を送らなくなったので知人に呼びかけて、ドライヤ-、釜、尿漏れパット、虫除けスプレーなどを車一杯に積んで、ささやかな思いを届けに行った。涙して迎え入れられたり、家にあがりこたつやコーヒーで家庭的な歓迎を受けたりもした。2ヵ月以上立つのに毎日親や娘を探している人、3ヵ月探した友人が遺体となって発見されすぐ火葬するなどまだまだ終わらない状況を我がことのように話された。
 最後に、丹原さんは校舎もなく、教師も生徒も激減した釜石東中学野球部員の母親の手紙を紹介し、中体連の大会でユニホームを着せてやりたいと10万円のカンパを集めていると協力を訴えられました。困っている人を見ると黙っておれない丹原さんの実践に背筋が伸びる思いでした。

 加藤さんも172回にサイゴンの様子を話していただいていましたが、今回は震災2ヵ月後49日から24日まで東北を単身自家用車で八戸まで北上し、各地を撮影した写真を示しながらその惨状を紹介し、この災害の特徴を指摘されました。
 陸前高田市は防波堤もなく自然には無防備だった都市、全域が津波に流されひどかった。谷筋にも被害のあとが残り30mの高さはあった。
 建物も残っているが一番津波の威力を示しているのが女川町。20mの崖の上に立つ町立病院の1階天井まで津波が押し寄せており、まちなかの破壊された鉄筋のビルの3.4階に自動車が突っ込んでいる。鉄道線路が飴のようにねじれひっくり返っている。
 10mの防波堤をめぐらし津波に万全の体制を誇っていた田老町の防波堤は完全に破壊されていた。よく見ると積み上げただけで基礎が打ち込んでない。基礎があれば潮がオーバーしても防波堤は残り、引くときの衝撃は半分になったと思う。

 東北を海岸国道沿いに通ったが、津波の届かなかった所では家も墓石さえも倒れたものはごく僅か。地震の被害は一般の建物ではほとんどなかった。津波の破壊力のすさまじさを痛感したとされながら、話したいこととして資料も準備され、次の点を強調されましたようです。
貞観以来たびたび津波の被害を経験し、「てんでんこ」の思考とか、津波の記憶を残すための表示を残しながら、時代が変われば忘れられて低地に街をつくることで災害を繰り返している。長く記憶続けることが困難なのは平和運動にも共通する。しっかり記録し残し伝えることこと、そして忘れないことが大切だとまとめられました。

76才の元気に改めて敬服、「ボランティアでないので、25万円寄付してきた」もいいのですが、福島原発30㎞西側をいわき市から飯館村を通過しましたが、放射能被害は大丈夫ですか。 

第175回 4月19日(火) 話題提供:鈴木 正さん(思想史家、名古屋経済大学名誉教授)「憲法九条について思うこと」

最初に吉田さんから、鈴木さんの著書「九条と一条」(農文協)や、鈴木さんがかつて鶴見俊輔さんと共に「思想と科学」の編集者であったことが紹介されました。

鈴木さんの話はまず、若い頃の結核療養所での生活から始まりました。「療養所で様々な人と交わることで教条主義から多元主義に変わることができ、自由に考え話せるようになった」と、そこでの自治活動や優秀な医者との出会いのエピソ-ドなどをとても楽しそうに語られました。次に、南原×金森論争を引用しながら九条が法律としてあることの重要性(国権の発動としての戦争はできない)、象徴として温存された天皇制(一条)について話されました。また、九条以外に鈴木さんが注目する十三条(個人としての尊重)、二十五条(健康で文化的な生活を受ける権利)、九十九条(公務員の憲法尊重・擁護義務)についてもくわしく述べられました。特に「個人としての尊重」については、資料『「文字の獄」への抵抗』-劉暁波の弁論を読んで-を参照しながら、感銘を受けた劉氏の言葉をいくつか紹介されました。最後に、震災後の混乱した状況の中で「憲法改正」の動きが起こる可能性がある。欠陥だらけの国民投票法を廃止する運動をこの岐阜から起こしたらどうかという具体的な提案をされました。また、合衆国憲法に九条と同じ条文を加えよと「ドンキホ-テのようなアクションを起こした元軍人オ-バ-ビ-氏」について紹介し、それほど九条は価値を持つ条文であると付け加えられました。

 参加者による意見交換では、天皇制について、「個人としての尊重」について、国民投票法反対運動について質疑討論がありました。後半は福島原発事故後、原発反対世論が起こってこないのは何故?マスコミの報道姿勢問題あり、原発と核兵器はセット、各務原でセシウム検出、この混乱の中皆が気づかぬうちに思いやり予算国会通過・・・など、震災後の政治・社会の動きに話題が集中しました。参加13名。(Z)





2月5日午後、本会の代表呼びかけ人の小林ひろしさんが心不全で逝去されました。7日に通夜、8日に葬儀が行われました。心からご冥福をお祈りいたします。

. 本会としては、以下の<サロン九条>で、ささやかな偲ぶ機会をもちました。

.
第174回 3月15日(火)「こばやしひろしさんを偲ぶ」 話題提供:平方浩介さん、島尻永司さん、平光孝行さん、その他

劇団はぐるま代表、そして岐阜九条の会代表呼びかけ人でもあるこばやしひろしさんは、3月5日心不全のため83才でお亡くなりになりました。サロン九条ではこばやしさんゆかりの方にもおいでいただき、在りし日の故人を偲びました。


 はじめに吉田千秋さんは、こばやしさんが発会2年目の2005年「925県民の集い」で演出を担当され、参加した県内19の九条の会の垂れ幕が一度に舞台へ降りてくるしかけで参加者を感激させたことに触れ、貴重な人を失い心の中に大きな穴があいたやようと口火を切られました。

次いで長いつきあいだという平方浩介さんは、こばやしさんの「お互い無責任な生き方はしたくないなあ」の言葉を引かれ、自分ほど責任逃れで一生
を過ごしてしまったといっていいほどのものでも可愛がってくれたと、やさしさとその人柄の大きさを話されました。


 こばやしさんと岐阜高校で同僚だった島尻永司さんは、新制高校発足直後の新教科一般社会の教員として、こばやしさん、故山本尭さんたちとサークル活動や組合運動に打ち込んだこと、国民救援会の建設した「濃飛のいしずえ」の除幕式・記念式典のシナリオをはぐるまの人たちと作ってくれたことを回顧され、また結婚式にもらった色紙も紹介され、私の中にはこばやしさんがいっぱい詰まっているとされました。
(2008年1月 第84回サロン九条でのこばやしさん

 岐阜高校で教え子であった平光嶷堂さんは永く交わった恩師の人柄を、多くの例を挙げて細やかな配慮をし、謙虚で、最後まで前向きに生きた人だったと紹介し、こばやしさんの言動を聞き書きしてまとめる「こばやし歎異抄」ができなかったのが残念でならないとされた。また、宗教家として僧侶はボランティアでなければと寺の収入には一切手をつけなかったり、寺は公のものと一切施錠せず舞台としても使ったり、体制順応派となった蓮如以来浄土真宗は間違ったとし、親鸞に既成のものにない情熱を求めていったとされた。

 仲人までしてもらったはぐるま劇団員だった三島幸司さんは、演出家としては「言葉を大切にしろ。言葉が行動を規制する。」と、何度もダメ、やり直しが続く。そして「徒労を重ねることが、生きていく勲章だ、がんばれ」と。若いころ稽古は厳しかったが、演出家としてはナンバーワン。「いいものなら素人でも問題ない」と、演出で下手なようには見せない。舞台をたくさん踏むことが成長につながりレベルは上がると、御浪町ホールを作り上げる。こうして団員の活力を引き出すはぐるまの芝居「郡上の立百姓」「カンナの咲き乱れるはて」などは何処にも負けないと、こばやしさんの指導力を紹介された。

.. その後はさらに友人など参加者の発言が続き、盛り上がっていきました。こばやしさんが知ればきっと喜んでもらえるつどいになりました。18人の参加。




 第173回 3月1日(火)  話題提供:加藤久雄さん 「小学生にもわかる憲法9条の授業」 

今回の企画はいつもと違い加藤さんが4年前、卒業を前にした小学6年の特別授業を再現するというもので、参加者は6年生児童となり、加藤先生の指導を受けました。

 授業はまず日本国憲法の4大原則(国民主権、基本的人権の尊重、議会制民主主義、平和主義)を答えさせ、それは前文と第9条に書かれていることを確認するために、まずきたがわてつ氏の歌で前文を読む。そして本番では暗唱を勧める。M小では3日でできた子、A校では2日で全文できた児童、さらには全員ができたクラスも出てきたという。

 次いで9条を大阪弁で語るCDを聞かせ興味を持たせた上で、「戦後62年間で一度も戦争をしたことのない国はいくつ?」と聞く。正解は少なく、8ヵ国と聞いて驚く。そこでこの憲法はアジアで2000万人、日本で300万人の犠牲の上に作られたものであり、憲法と第9条は世界と地域の平和の「土台」として、世界の願い、世界の希望、世界の宝であることを伝える。

 次いでこの憲法を変えてしまおうという動き=国民投票法案(当時)にふれ、一方これに対して全国で6000を超す「九条の会」が、9条を変えることに反対していることを知らせ現在の課題につなげる。最後に感想を書くこと、このことで父母と話し合ってほしいことを希望して授業を終わると言うものでした。

 

変な子どもたちが相手なだけに「どうも気迫がこもらない」と言いながらの約
30分でした。的確に選び抜かれた言葉の書かれたボードを貼り付けて簡潔にまとめ上げられた板書、資料や音声も利用し深い内容を分かりやすく、簡潔に組み立てられている工夫された授業でした。居眠りする生徒は一人もいませんでした。

 終わってからの交流では、前文の位置づけ、戦争と平和の概念をどう教えるのか、何処までの内容を扱うか指導のレベル、攻撃されたときはどうするかと聞かれたらどう説明するのかなどの指導法の問題から、自衛権、戦前の教育、さらには基本的人権も奪われている子どもや教師、モンスターペアレンツなど学校を取り巻く環境などへ話題は広がって行きました。10名の参加




第172回 2月15日(火) 話題提供:加藤宗男さん、籠原明子さん  「開高健(生誕80年)を歩くサイゴンの旅

 「開高健生誕80周年特別企画」の旅は1月28日から8日間、朝日新聞サイゴン支局長として「開高健のベトナム滞在中の世話をした井川一久氏が同行する」という、このタイトルに魅せられて、9条の会の田中良さん、加藤宗男さん、籠原明子さんが参加されました。

当日開高健の代表作「ベトナム戦記」(秋山啓一カメラマンの写真が多数掲載)が、参加者に回覧。籠原さんは、「改めてベトナム戦争は何だったかを問い直す機会になった」と言い、滞在中のスナップで街の様子を紹介されました。ベトナムはテト(旧正月)直前で大変賑わい、戦後35年のホーチミン市は日本の都市と変わらない復興が窺われます。しかし開高健が下宿していた路地裏には崩れた建物を利用している家々があり、ホテルの裏側は黒く汚れた建物が残っていました。ベトナムでは今年、兎年でなく猫年だそうで、新年の猫の飾り物が笑いを誘いました。

 加藤さんは、朝食前に一人で歩かれた町の様子や旧大統領府付近の様子が報告されました。今回の旅で一番印象に残ったこととして、同行した井川氏のベトナム戦争観が、「それまで自分が抱いていたものとは全く違いとまどった」と話されました。また、ホーチミン以前から独立運動をしたファン=ボイチャウのこと、日本とベトナムの歴史を紐解きその深い関係など、沢山の参考書籍持参で興味深い話を聞くことができました。

 田中さんは、井川氏と個人的に話した内容を紹介しながら、開高健は南ベトナム政府軍に従軍しており、井川氏も当時サイゴン駐在だったので、視点が南政府・アメリカ側にあるのではないかという指摘がありました。

 そのあと、皆で、ベトナムと日本の戦後の違いについて、ベトナムの地理的条件、中国との関係、宗教(大半が仏教でキリスト教、ヒンズー教が少数)について、ピュリツァー賞を受賞した石川文洋氏のベトナム戦争写真の紹介など、話題は多岐にわたりました。16人の参加。(Z)





 第171回 2月 8日(火)話題提供・ハーモニカ演奏:丹原美穂さん(ボランティア活動家) 「ちいさなことの大きさ 人間多様性に向けて」

  丹原さんは資料や写真を使って、3つの貴重な体験を話してくださいました

最初は、2008年小さな学校をミンダナオ島の反政府イスラム武装勢力の根拠地ピキットに建てたこと。あるフイリピン人の女性に出会い、それがきっかけでうち続く内戦や貧困の中で笑いも、話もしない、完全に表情を失った無気力な子どもたちの現状を知り、この子どもたちのために「学校を作ろう」、学校へ入学すれば読み書きができる、戸籍が作れ国籍が持てる、就職ができる、すなわち「人を育てることができる」、そうすれば子どもたちの人生変わっていくと考えた。そこで日本の30近い団体に働きかけたが、危険な場所ではとすべて拒否される。それでは自分でするよりほかなしと、日本人が運営しているNPOに依頼して建設した。開校後の民間企業の協力はありがたかった。一人ずつに渡された初めて見る美しいシャボン玉に驚き歓声と拍手、幸せな光景だった。子どもたちはいきいきと学習し、学校が大好きという。最近の戦闘で校舎にも弾痕が残ったが、お金を送り修理してもらったとのこと。

次いで、政府の統治力や経済力が乏しく、カースト制の続くネパールの、アウトカースト(カースト以下)の大変貧しい村の学校を修復し開校に取り組んだこと。政府の支援もない、大人も子どもが学校へ行くことに賛成していない、自立支援も難しい中で、継続は困難かもと。

最後は、言葉が通じない子どもたちと心を通わせるために始めたハーモニカ。フイリピンの子どもたちが手を振り、目を輝かせながら嬉しそうに聞き入っている写真は感動的です。岐阜でも病院や施設、イベント、岐阜駅前などでも演奏するが、暖かく受け入れられると、「みなさんのために」と思っていていたことが、逆にみなさんから暖かいものをいただき幸せになるという。

 丹原さんはこうした活動は各地の惨状を知り、「住む家があり、家族の愛情に包まれる平凡であることのありがたさに感謝しつつ、人生に恩返しをしながら死んでいきたい。人生をプラスマイナス0にして終わりたい」という気持ちがきっかけで、「小さな善意が人を励ましたり、勇気づけたりする。自分のできる範囲のことでちょっとだけ人のために役立つならすてきではないでしょうか」「100%幸福、100%不幸という人はいない。違い(多様性)があるから世界は広がる。お互いにささやかでいいので、人のためにやって行けたらすてき」だとまとめられた。

 話し終わり、期待のハーモニカ演奏では「歓喜の歌」など4曲をお聞きしましたが、毎月岐阜駅での九条の会パネル行動にも参加され、野外ですがここでも演奏されています。温かい心で、ひたむきに前を向いて行動されている丹原さんの世界に向けた視野に教えられたサロンでした。17人の参加。





第170回 1月25日(火)  話題提供:大橋 健司さん・塚田 良子さん 「フイリピンをめぐる戦争と平和

 大橋健司さんにアジア日本相互交流センター(ICAN)日本事務職職員塚田涼子さんが参加されお二人の報告をお聞きしました。まず大橋さんは、日本の侵略111万人の犠牲者を出したフィリピンではまだ本当に戦争は終わっていないとされた上で、米軍基地が撤去されたはずのフィリピンに米軍がいることを知り1年間調べたこととして話されたことを要約します。

 アメリカ太平洋軍司令部9のホームページや沖縄タイムスなどに、沖縄の米海兵隊がフィリピンへ出動し医療・文化活動、災害救助活動などとともに激しい対ゲリラ訓練などを行っていることが書かれている。どうしてこうしたことができるのか。

 1991年アキノ大統領の軍事基地協定期限延長を上院が拒否し,その結果クラーク空米軍基地、92年スービック米海軍基地が返還され、フイリピンから米軍基地は撤去された。しかしその後米国の援助の削減、中国との国境紛争南沙列島問題、フィリピンの装備の近代化の必要など軍事・政治情勢の変化を受けて、98年エストラーダ大統領は米軍がフィリピン国内での合同演習などを行う際の米軍人の身柄拘束や刑事訴訟の保護、免税措置などの法的地位を規定する「訪問米軍の地位に関する協定」に調印、翌年上院が批准し発効する。こうして「駐留」でなく「訪問」と言う名目で米軍の駐留を認めることになった。

 さらにその後、ミンダナオ島などのイスラム教徒の反政府運動の激化に対する対ゲリラ演習名義で米軍が回帰した。フィリピン平和運動市民団体「市民ピースウオッチ」が南部サンポアンガ市とスールー州で昨年行った調査では、・米国はフィリピンでの軍事基地体制を確立した。・米国はフィリピン国内での戦闘活動に参加しているなど米軍の実質的な駐留や軍事介入が行われていることが明らかにされ、憲法や非核法が空文化されていといってよい。

 また、ミンナダオの都市が普天間の米海兵隊を誘致しようとしているし、普天間からグアムへ移転するのにあわせフィリピンでは出稼ぎし収入を得ようという動きもあるのは注意を要する。地図も添えて4枚表裏印刷の資料を使ってのお話でした。 

 塚田さんは、フィリピンの子どもたちの置かれている状況と、参加している「日本とフィリピンの子どもたちの笑顔を増やす活動」を続けるICANの活動を、プロジェクターを使って紹介されました。それはマニラ首都圏にあるフィリピン最大のごみ処分場でリサイクル資源を回収し生計を営む約1万人の「ゴミ処分場の子どもたち」にケアセンターを作り医療と生活向上を図る事業、物乞いや物売り、売春等で生活する約25万人の「路上の子どもたち」に奨学金の提供や路上教育、医療訓練や職業訓練,その他「紛争地の子どもたち」に校舎、「先住民ブラアンの子どもたち」に給食や校舎など日本人として自分たちができることを求めて活動してきた多様な活動でした。

 塚田さん自身はコーヒーや廃材を使ったリサイクルバックや独自の和柄の熊などを現地人が作り、日本の店舗や大学祭などで販売する「フェアトレード事業」を担当されており,当日も持参し紹介された。

 情報に触れることの少ないフィリピンの内戦や貧困の状況、これに関わるNPOの民間交流などの活動を知ることができ、改めて考えさせられることが多い会だった。(17人の参加)

 




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