岐阜市平和資料室  20.19.18.17   →~2016



岐阜市橋本町1-10-23 ハートフルスクエアーG・2階東南角(JR岐阜駅改札から直進、飲食店街のさきに入り口)
午前9時~午後9時開館  休館日:每月最終火曜日のみ
ホームページ作成:篠崎喜樹(岐阜空襲を記録する会)TEL 090-4260-0960 
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< 平和資料室にようこそ!2020年 >

 ここもコロナ過でここも大変でした。見学予定が延期から中止になったり、館そのものが休館になったり
平和を伝える活動にも支障となりました。そうした中で前向きな取り組みがいくつも見られ元気づけられました。
今年も『芽ぶけミヤコよ』をテーマにした新しい展示を作製し、来年7月から公開する予定です。ぜひおいでください。

西大垣西高校の生徒さんが平和研究に



8月17日、大垣西高校の生徒さんが、岐阜空襲と平和資料室について調べるために訪問されました。
「戦争と平和をどのように伝えていくか?」がテーマだそうです。
大垣から来ていただいたので倉庫から過去のパネルと資料を出して、大垣に行われた米軍空襲についてもお話しました。
近くの岐阜市の空襲のひどさを見て、その後の大垣空襲では市民たちは早めに逃げたため被害が少なかったこと。また原爆投下の練習のための『模擬原爆=パンプキン爆弾』も落とされたことなど。
「学校では学べないことが学べました」と喜んでいただきました。


ゆたか福祉会の皆さんが研修に

名古屋市から、社会福祉法人ゆたか福祉会の職員さんが研修にみえました。
同会は障がい者さんの働く場を提供し、就労支援・生活介護事業を行っています。障がいのある人も生きやすい社会、戦争のない安心して暮らせる
社会をつくる目的で平和資料室を見学されました。

時間がゆっくり取れたので『芽ぶけミヤコよ』のDVDも見ていただきました。
「当時のアメリカ軍が、ふつうの市民を標的にしていたことがはっきり分かって衝撃でした」と。
見学の最後には、職員さんや働く障がい者さんたちが作った折
り鶴も提供いただきました。
 




平和資料室の折り鶴が、にぎやかになりました
 


平和資料室入り口に飾られている折り鶴は、毎年岐阜市の内外から、平和を祈る方たちより送られてきます。
この年はコロナ禍により自宅で過ごす時間が長いためか、例年以上に多くの折り鶴が送られてきました。
メッセージの付いた明るい折り鶴の束が来場者を迎えてくれます。
無人施設ですが感染対策をしてありますので、JR岐阜駅にお越しの時はぜひ気軽にのぞいてください。






今年度の新しい展示始まりました

 
メディアコスモスから移した今年度の展示、「戦後75年・写真展-戦中、戦後の岐阜市民たち-」が
岐阜市平和資料室で始まりました。白黒ですが写真家近藤龍夫氏をなどが当時の岐阜市民生活の局面を切り取り
戦争と戦後の時代を的確に表現されており、心打たれる写真展になっています。
 また同時に、各務原空襲での爆弾の破片が食い込んだ柱と敷居も展示しました。ご覧ください。

  手動バリカンで調髪の親子

 町内会の防空演習






メディコス子どもたちに伝える平和のための資料展』オープンしまし

 
一時は、コロナ禍で中止も考えられたいた今年の岐阜市主催「子どもたちに伝える平和のための資料展、
節目の年にはぜひと、7月3日からメディアコスモスでオープンしました。
 「戦後75年・写真展-戦中、戦後の岐阜市民たち-」です。
 新規のパネルは作れないので、これまで会が保存していた写真や新聞などを、岐阜市をおそった
焼夷弾や模型などと共に、約70点展示しました。
 丁寧な解説に、写真と手作りパネルを組み合わせ、見応えのある展示いなっています。
 こんな時期でも、多くの市民が入れ替わり見てくれています。
 10日までで、その後は岐阜市平和資料室で展示されます・









岐阜市平和資料室、再開しました
新型コロナウイルスの影響で休館していた岐阜市平和資料室は、6月1日から再開、
利用できるようになりました。お出かけください。
7月には、新企画”終戦75年・写真展 岐阜空襲のころの子どもたち”展示を行います。






<平和資料室へようこそ!>2019
☆当会の『平和講座』は、平和資料室の外でも行っています。→ 『岐阜空襲を記録する会2019.18』
     
ああっ、学校が焼けちゃう…
       ※レポ 中島裕子(会・学芸員)      



◆鏡島小学校3年生3クラス

10月9日、今年も鏡島小の元気な子どもたちが平和資料室に来てくれました。
いつものように二手に分けて、平和資料室の見学と、同じハートフルスクエア内の研修室で「戦争のころのこどもたち」のお話です。
子どもたちの通う鏡島(かがしま)地域は、戦争中、アメリカ軍の爆撃を受けました。
平和資料室で、鏡島に落ちているたくさんの焼夷弾の写真を説明すると、みんなびっくり!
「わっ、いっぱい落ちてる!」 「学校も焼けちゃったの?」
小学校はなんとか焼け残ったんですよ。でもあたり一面、岐阜市は焼け野原になってしまいました。
他にも戦争中の子どもたちのおもちゃを見たり、実物の焼夷弾にさわったり、戦争していたころのことをたくさん知ってもらえました。

研修室では、今年は戦争のころの教科書のお話も。
とても興味深かったようで、「ありがとう!また来るね」と、講師の林智子さんとハイタッチで次の見学場所に出発していきました。




2019年の新企画展がはじまりました



お宮さんもお寺さんも火に追われた
~岐阜空襲のころの 神社・お寺・教会

平和資料室の企画展スペース(折り鶴から手前の入口近く)が、新展示に変わりました。
今年は、『戦争のころの祈りの場』~神社・お寺・教会がテーマです。
戦争に勝つことが優先だった時代は、それぞれ立場と役割が大きく違いました。お寺のお坊さんや教会の神父・牧師さんたちも、神社に参ることを強制されました。スパイの疑いで逮捕された牧師さんもいました。
いわば「信教の自由」「心の自由」がなかった時代です。
それでも岐阜空襲のときは、みな同じように火に追われ、神社もお寺も教会も焼け落ちました。
そのなかから救い出された、国宝(当時)の仏像など貴重な文化財も紹介しています。

平和資料室に先駆けて公開されたメディアコスモスでの資料展は、たいへん反響が大きく、多くの声が寄せられました。
「貴重な仏像を、よくぞ救いだされたものだ。当時の関係者さんに敬意を表したい」
「内心では戦争協力することに心を痛めていた、お坊さんや牧師さんの気持ちを思い、私も心が痛む」
「地元の教会の歴史を初めて知った。『敵国の宗教』と差別されても、もっと弱い人々、孤児や障害者の支援を続けられていたことに感動した」

メディコスの展示では最終日の撤収ギリギリまで、多くの人が熱心にパネルを読んでみえました。
平和資料室では来年の夏まで一年間公開していますので、いつでも見に来てくださいね。
★「寺社や仏像、教会を訪ねて歩きたい。マップが欲しい」との声も多く寄せられたので、【神社・お寺・教会マップ】も追加してあります。


(左) 岐阜新聞、7月2日の一面トップ記事になった『建物疎開』の資料。国内で最初の発見です。実物を見ていただけます。
(右) 空襲の炎から救い出された仏像の写真も紹介しています。すべて国の重要文化財(当時は国宝)です。
 ※鏡島弘法さんと美江寺観音さんに、特別な許可をいただいての公開です。御礼申し上げます。




中日新聞に、平和資料室の戦災資料が紹介されました





※今年も記者さんたちに、平和関連のニュースを多く伝えていただきました


中日新聞に、平和資料室の戦災資料が紹介されました(左) 平和資料室の資料を紹介してくれた、中日新聞の鳥居記者と、学芸員の中島さん。
(右) メディアコスモスでの『子どもたちに伝える~資料展』設営日に。岐阜新聞の堀記者と、見学に来た聖パウロ教会の相原さん、当会の私・篠崎とイラストレーターの林さんも加わって歓談のひと時。
※堀記者には、建物疎開の新資料発見のニュースや、岐阜市『平和の鐘』などを伝えていただきました。
 (↑)これらのニュースや新聞記事は、こちらで紹介しています。→
『岐阜空襲を記録する会2019.18』





食べものも、心も、ゆとりのなかった時代に


(↑) 「なぜ岐阜が、日本中の町が焼かれることになったのか?」年表のパネルで時代背景から説明します。

◆エールぎふ(岐阜市子ども・若者支援センター)
6月27日、今年もエールぎふのみなさんが見学に訪れました。
毎年、子どもたちだけでなく父兄や指導員の皆さんも一緒に、戦争の資料に加えてそのころの小中学生の生活ぶりまで、とても熱心に学んでいかれます。


子どもたちからはいつも鋭い質問が出ます。
昨年は、「子どもまでこんなに戦争に勝つことばかり考えてて、負けた時はどうなってしまったの?」と。
はい、「世界が終わるのか?」と思ったそうですよ。特に女の子たちが。でも戦争が終わって安心して暮らせるようになって、少しずつ明るくなっていったそうです。
今年は、「戦争やりたくない人はどうしたらいいの?」と。
はい、戦争が始まったら「やりたくない」では済みません。そんなことを口に出すだけで生きていけなくなります。
生徒を代表して、こんなお礼の言葉をいただきました。
「戦争は、食べものや人の心の優しさもなくすことが分かりました。戦争をしないように、私たちも努力していきたいです」
      ※レポ 中島裕子(会・学芸員)



 

学校も戦争で焼かれてた!初めて知りました ◆加納中学校2年生5クラス


(↑) 学校周辺に焼夷弾が落ちていく、米軍の写真におどろく生徒さんたち (↑) 戦時の子どものおもちゃを見学

3月6日と13日、加納中学の生徒さんが2回に分けて、平和資料室の見学にやって来ました。
岐阜市の中学校は多クラスが多く、平和講座は私たちが学校に出向いて行ってきました。加納中はここから近いので、1クラスづつ、
岐阜大付属校庭の銀杏の木や住吉神社の灯籠などの戦災遺跡を見学しながらやってきました。
ここでしか見られないものがあります。
・M47焼夷(しょうい)爆弾(通称・100ポンド焼夷弾)
そのまま形が残っている、実物の資料です。しかもこれは、米軍が岐阜駅周辺へ落とした、彼らの学校や自宅エリアに落ちた焼夷弾。
生徒さんたちも、先生も、「初めて知りました!」と目を丸くして見学していかれました。


「戦争は遠い昔のこと、原爆も遠い場所のことと思っていました。でも僕たちのふるさとも戦争の被害にあっていたことが、よく分かりました」
「広島に修学旅行に行く前に、すごくリアルに感じられました」
担任の先生たちからも、「すぐ近くに、こんな良い展示室があったとは」と、喜ばれました。
広島への修学旅行、どうぞたくさん学んで来てくださいね。


(←) 戦時の中学生たちの企画展パネルも、出して見てもらいました。 (↑) M47焼夷(しょうい)爆弾





<平和資料室へようこそ! 2018年>


岐阜市平和資料館がNHKで評価されました

 終戦の日の8月15日のHNK「持論公論」番組の「戦争伝える遺品どう引き継ぐ」で、岐阜市平和資料室は
順調に運営されていると高く評価されました。
 全国に260箇所を数える戦争と平和を伝える施設は、いずれも戦後50年を前に市民グループや遺族会などが設置したが、
資金難や後継者がいない、遺品の引き継ぎ手がいなかったりして運営が困難になっているなか、岐阜市平和資料室は
市民グループが資料を市に寄贈し、ボランティアとして活動に参加し、長岡戦災資料館は市民が企画展を行うなど
自治体の資料館運営に市民も参加じ、厚生省の経営する昭和館とともに活気ある活動をしていると評価されました。
 展示資料作成や見学者のガイドを行っている岐阜空襲を記録する会としては嬉しい報道です。
岐阜市と提携しながら、さらに充実した施設に作り上げていこうと意を新たにしました。 
 




◆2018年 新しい展示始まりました
”戦争中のお母さんは大いそがし!-戦時の婦人会活動を記録した『梅林文書』より-”

 太平洋戦争が始まると300万人からの動員のため、働き盛りの男手が国内から消えたのです。
 米・野菜など農作物も、魚などの漁獲もへって食糧不足がひどくなります。
 衣類や工業製品など生活用品も、入手が困難になってきます。
 代わって、その産業の担(にな)い手が、女性たちと子どもたちに回ってきたのです。
 男手のいない家庭を守り、育児と婦人会の活動に翻弄された、ある町内のお母さんたちの様子を紹介していまます。
 また、最初と最後のこの部屋展示の意義を考えてもらう、年表風のパネルも新調しました。 



 
                                      





戦争の時の子は、楽しいことがなくてかわいそう…

◆鏡島小学校3年生3クラス
10月24日、今年の鏡島小の元気な子どもたちが平和資料室に来てくれました。
いつものように二手に分けて、ひと組は平和資料室見学、もうひと組は同じハートフルスクエア内の研修室で、「戦争のころのこどもたち」のお話を聞きます。
平和資料室では、「バクダンでか~い!」と、焼夷弾(しょういだん)の大きさにビックリ!
「子どもたち」のお話では、ちぃちゃんのコスプレや、戦時の中学生との背くらべで、体が小さかったことや、食べものも服もなかったことを学びます。
「戦争してたころは、おいしいもの、楽しいこともなくて、かわいそうだと思いました」




岐阜の資料室は工夫がいっぱいですね!
 


◆明石と瀬戸より、研究者さん
8月20日、二人の研究者さんが見学にみえました。
岐阜とは交友の深い、「瀬戸地下軍需工場を記録する会」の寺脇さん。
そして兵庫県明石市からみえた安部友里絵さん。安部さんはまだ若いですが、全国の戦争遺跡をめぐって戦時の痕跡をたどっています。
お二人からは、こんな感想をいただきました。
「戦争のときのおもちゃとか、イラストのパネルとか、子どもでも興味をもてるものがあちこちにあって、小さい子も見れるから良いですね」(安部さん)
「空襲で焼け野原にされる、その前に何があったか?戦争をやり続けた50年の結末だったことが分かるパネル(この年再制作)など、いろんな工夫がされていて、いつも感心します」(寺脇さん)
お二人とも、猛暑のなかを、見学にありがとうございました。




◆大学生の見学は、初めてでした

8月10日、名城大学のサークル学生協の方たちが24名、見学に来られました。
スタッフの説明を聞きノールするなど、熱心に取り組まれていました。
こちらもいつもの小学生とは違う切り口で、明治150年ではなく戦争準備の40年、
戦争を繰り返し焼野原となった50年、そして戦争を放棄した70余年の時代区分や、
反戦僧竹中彰元などを、説明しました。
「分かりやすく、とても良い資料室ですね」とお褒めをいただだきました。

 
 

後日、引率された村瀬さんか礼状をいただきました。その中にあった、
感想文です。
見学した学生の感想をいくつかご紹介させていただきます。
「平和がずっと続いて欲しい。」
「子供にまで戦争を意識させていたのに驚いた。」
「瓦礫を取り出すときに、産業廃棄物と言われたことに驚いた。」
「今ある環境が当たり前ではないということを自覚しなければと思った。」
「戦後70年以上経過し、『知る者』が減っていく中で、次の世代に『戦争』を伝える大切さを学びました。」



            

戦争が終わって、子どもたちは立ち直れたのですか?

 ◆エールぎふ(岐阜市子ども支援センター)
6月20日、去年につづいて市の子ども支援センターから、中学生の生徒さんたち、そして父兄やスタッフの皆さんが訪れました。
今年は岐阜の空襲だけでなく、戦争していたころの子どもや中学生の学校生活について、実物資料やパネルを見て説明しました。
・戦車の絵やカブトの形のお茶わん。おもちゃも戦争にかかわるものばかりだったこと。
・戦争に勝つまでは、食べものもろくになく、がまんして働いたこと。
・中学生になったら、男子は「いつでも戦地に行けるよう」覚悟して訓練を受けたこと。


     

説明のあと、女子中学生さんからこんな質問がありました。
「こんなに戦争のことばかり考える生活をしていて、負けた時、子どもたちはショックはなかったのですか?立ち直って、生きていけたのですか?」
するどい指摘に、私ちもビックリ!
敗戦の時、小学校5年生だった篠崎先生が答えます。
「いい質問ですね~ もちろんその時はショックです。でも戦争が終わればもう空襲で逃げなくてもよくなりますから、以前のように学校で落ち着いて
勉強したり、楽しく遊んだりができるようになります。そうして、戦争がないことの幸せを分かっていったんです」

小学生たちは早く慣れましたが、実はすぐに切り替えができなかった子もいました。おもに男子の中学生たちでした。
そのお話は、昨夏当会より出版した『戦争のころの少年少女たち』(岐阜新聞社刊)で紹介していますので、ご覧ください。
書店やAmazonでも買えますが、平和資料室にも1冊置いてありますので、自由に読めますよ。   <レポ 中島裕子(会・学芸員>)







うちの街にも平和資料室を!+++
◆小田原空襲を記録する会


3月4日、遠く神奈川県から視察がありました。
岐阜と同じ米軍の空襲で焼け野原になった、小田原市からです。矢野慎一さんは、5人の仲間と戦時の被害を調べ、
体験者からお話を聞いて記録をまとめています。篠崎先生と同じく高校の先生をしながら、教科書の執筆をする研究者でもあります。
この日は大学生の息子さんとともに訪れました。

「主要駅のそばで、入場料もいらなくて、気軽に入って学べるのがいいですね」矢野さん
「絵や写真がふんだんにあるから、子どもが一人でも理解できると思います」息子さん
小さいスペースでも平和展示の場所があることは、地元の子どもには貴重な学習施設になるそうです。
「小田原市にも、なんとかして造りたいですね!」(レポ:中島)



<平和資料室へようこそ! 2017年>



この秋も、岐阜市内の子どもたちが社会見学などで、つきつぎ平和資料室に来てくれました
子どもたちの平和講座をレポートします。
    
※学校や施設へ出張しての平和講座は、ページトップのリンク先、〈岐阜空襲を記録する会 2017・18〉でご覧ください。



ちいちゃんは、こんなふうに生きてたんだなあ…
◆木田小学校3年生 


11月17日、木田小学校の子どもたちが社会見学できてくれました。
国語でならった、『ちいちゃんのかげおくり』の世界を見てもらいました。
<写真>・資料室で。「ほら、あれが防空壕(ぼうくうごう)の模型。ちいちゃんはこんな所に隠れてたんだよ」
・クラフト室で。「戦争してた時はね、みんなこんな物まで食べてたの


木田小の子どもたちから、かわいらしい感想文がとどきました。ありがとう!また来てくださいね。





「バクダン、すご~~い!」
◆華陽小学校3年生 


9月27日、華陽小学校の子どもたちが、初めて社会見学で来てくれました。
まずは本物の焼夷弾(しょういだん)と・大型の実物大模型(じつぶつだいもけい)にビックリ!
「大きい方は2000発。小さい方は、1万2000発も、この小さな岐阜市に落とされたんですよ。想像できるかな?」
毎月の、最終火曜日だけはお休みですが、他の日はいつでも入れますから、また見に来てくださいね。



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