岐阜空襲を記録する会  2020 2019 2018 2017 事務局 岐阜市五坪1丁目3番1-404 TEL 090-4260-0960 (篠崎 喜樹)      

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岐阜空襲を記録する会2021   

岐阜空襲をを記録する会2020~16

              岐阜空襲を記録する会~12

岐阜市平和資料室
岐阜空襲とは?
このサイトに寄せられた体験記
                                                                                                    
のえいきょうで平和講座のご案内   



<2020年>


戦争を語り継ぐ活動を、伝えていただきました

 
←テレビ局のインタビューも
 

この年はコロナ感染症の流行で、全国的にイベント開催がむずかしい年でした。
そんななか、岐阜市内では「平和を伝える活動をなんとか開催しよう」と、いろいろな団体が努力して実現させました。その頑張りを岐阜新聞が伝えてくれました。
当会の活動も写真付きで紹介いただきました。毎年交友のある「おもと会」の『戦争を語りつぐ会』も開催が決定。その後、人数制限をしたり感染対策をしていろいろなイベントが開催されました。岐阜市の前向きな姿勢も心強いことでした。




「戦争体験を語り継ぐ夕べ」に参加しました 」
 
岐阜市のボランティア団体「おもと会」では3年前から戦争体験を次世代に語り継ぐ活動を続けています。
今年は8月4日、ぎふメディアコスモスで開催され、今年も当会の篠崎先生と私・中島が来賓として参加させていただきました。
岐阜空襲の火の雨のなかを逃げた二人の女性の体験をみなで聞き、また高校生など若い世代からは国際的な視野から戦争の芽を断つことの大切さを訴えました。
幅広い世代が集まって平和を続けていくことを誓う、貴重なひとときでした。(レポ・中島)

同世代で同じ戦争体験者の団らん。空襲体験を発表した島谷きよさんと、会代表・篠崎先生



2020年 行ってきました!<学校&市民の平和講座>

コロナ対策の中学校講座、岩野田中学で無事に開催


この2020年は、コロナ感染症のため3月から3ヶ月近く全国の学校が休校になりました。
授業日数が足らないため、平和講座のような社会学習の時間はどの学校も取るのは難しく、予定されていた講座、また例年ご依頼をいただく学校も大半が開催できませんでした。
また秋以降は第2波の影響で、順延されていた予定もキャンセルになってしまいました。本当に残念なことでした。

そんななか感染が引いた7月下旬に、岩野田中学で平和講座を行うことができました。
学校や生徒さんの努力で、しっかり間隔を取り広い体育館に大きく散って聞いていただきました。
ふだんの講座と変わらず、熱心に聞いた後は「地元の戦争だけじゃなく、もっと広く学んでいきたい」と前向きな感想をいただきました。



戦時の資料や女性雑誌を紹介しました

岐阜市内の高齢者福祉施設・ささゆりケアセンターでは、定期的に学習会を開いています。
10月10日、今年も当会が招かれてお話することになりました。これまで「岐阜空襲」「戦時の少年少女」などはすでにお話をしています。
今年は「戦時の市民資料」と「戦時中の婦人雑誌」を紹介しました。
         
参加した方々は、戦時中は子どもか中高生の世代です。資料や雑誌からそのころの大人たちの生活を思い出しながら熱心に聞いてみえました。
「子どもだった自分たちはとにかく腹がへった記憶が一番だが、父母の世代はもっといらぬ苦労があったでしょうね」
「ひどい時代だったけれど、懐かし
もあります」
などの感想をいただきました。






岐阜市平和資料室 今年度(2020)の新しい展示始まりました リンク→ 岐阜空襲を記録する会2021   

 
メディアコスモスから移した今年度の展示、「戦後75年・写真展-戦中、戦後の岐阜市民たち-」が
岐阜市平和資料室で始まりました。白黒ですが写真家近藤龍夫氏をなどが当時の岐阜市民生活の局面を切り取り
戦争と戦後の時代を的確に表現されており、心打たれる写真展になっています。
 また同時に、各務原空襲での爆弾の破片が食い込んだ柱と敷居も展示しました。ご覧ください。

   
手動バリカンで調髪の親子

 
町内会の防空演習





メディコス『子どもたちに伝える平和のための資料展』オープンしました

一時は、コロナ禍で中止も考えられたいた今年の岐阜市主催「子どもたちに伝える平和のための資料展、
節目の年にはぜひと、7月3日からメディアコスモスでオープンしました。
 「戦後75年・写真展-戦中、戦後の岐阜市民たち-」です。
 新規のパネルは作れないので、これまで会が保存していた写真や新聞などを、岐阜市をおそった
焼夷弾や模型などと共に、約70点展示しました。
 丁寧な解説に、写真と手作りパネルを組み合わせ、見応えのある展示いなっています。
 こんな時期でも、多くの市民が入れ替わり見てくれています。
 10日までで、その後は岐阜市平和資料室で展示されます・


 












岐阜市平和資料室再開しました
新型コロナウイルスの影響で休館していた岐阜市平和資料室は、6月1日から再開、
利用できるようになりました。お出かけください。
7月には、新企画”終戦75年・写真展 岐阜空襲のころの子どもたち”展示を行います。



2020年 <行ってきました!学校&市民の平和講座>

ここにも新コロナウィルスの影響が
新型コロナによる休校などで、2月27日藍川中での平和講座は予定通りできましたが、
その後中学2校の平和講座、2日にわたる平和資料室見学は中止になりました。
5月の平和講座も中止、果たしてどういう年になるのでしょうか。




2019年<行ってきました!学校&市民の平和講座>

                                 <レポ:中島裕子(会 学芸員)
はじめて学んだ戦争のお話。質問がいっぱい!



◆合渡小学校3年生 
10月18日、合渡小学校を訪れました。合渡小での、初めての平和講座です。
元気な3年生の子どもさんたちが、しっかりメモを取りながらお話を聞いてくれました。
戦争のころの中学生と背くらべや、もんぺと防空頭巾の体験もしてもらいました。ちいちゃんみたいで、とてもかわいいですね。

今回は空襲(くうしゅう)や、戦時の子どもたちのお話は短くして、質問の時間をたくさんとりました。
たくさんの手があがって、質問がいっぱいに!その中からひとつ、紹介します。
「岐阜のくうしゅうでは、ひと晩で900人も死んでしまいましたが、アメリカ軍の死者はどのくらいでしたか?」
「はい、米軍の死者は、0でした」
アメリカ軍の戦闘機(せんとうき)が岐阜市上空にやってくると、地上から日本側も大砲を撃って攻撃します。
米軍の記録では、1機に当たって、飛行機は太平洋に落ちました。でもすぐに米軍の救援船から助けが来て、パイロットは助かっています。
残酷な結果ですが、これが戦争なんです。
少し難しい学習だったかもしれませんが、子どもたちは好奇心いっぱいで聞いてくれました。

合度小学校のプール東側に「戦災復興記念碑」という立派な碑が建っています。
当時は合渡国民学校といったこの学校は、この夜の空襲で消失しました。その後我が家の復興よりも
学校の再建を熱望した住民の熱意と奉仕でで、短期間に2階建て2棟の校舎を完成させた様子が記され、
「村民の惨状と苦心を永久に記憶すべくここに記念碑を建立する」と締めくくっています。





岐阜県公立高校退職教職員の会 第45回総会で 話しました

 
9月21日、ホテルパークみなと館で開かれた、公立高校退職教職員の会で、
「戦後を戦前にしてはならないー岐阜空襲を記録する会45年のあゆみー」と題して、1時間40分の
講演を行いました。
 奇しくもこの会と、記録する会はともに45年の年輪を重ねた会であることに驚きましたが、
前半は準備会発足からの45年、当会が何を行い、どんな資料を集め、それをどのような形で
発表してきたのかを、その時々の新聞記事を合わせてながら報告しました。
 後半は中島裕子学芸員が、市主催の「子どもたちに伝える平和のための資料展」でこの数年
発表してきた、子どもたち、中学生の空襲下の生活、今年制作した空襲下の神社、お寺、
教会への戦争協力の強制と自由の喪失、空襲対策の効果などを画像を使って報告しました。
 さすが元先生たちです、長時間にわたる古い時代の話でしたが、しっかり聞いてくださいました。
 終わっての懇親会にも、二人で参加させてもらいました。

 

<岐阜新聞 19.9.27>





第49回戦災・空襲を記録する全国連絡会議・山梨大会に参加しました

 山梨大会は、8月31~9月1日、山梨学院大学で全国から21都道府県96人が参加して開催されました。
記念講演は、浅川保山梨平和ミュジアム理事長、市民の力でで作り上げたミュージアムの経過などを話され、
平和資料館つくりはは民間の手に限ると強調されましたが、岐阜には異論があります。
 岐阜は、一日目中島裕子さんが「戦史の記録から見た、【心の自由】・【心の平和】」というテーマで、今年の資料展
「戦時の祈りの場~神社・お寺・教会」と昨年出版した『戦争のころの少年少女たち』を題材に、30分報告しました。
30日には「米軍資料研究会」も開かれ、31日夜の交流会、1日午后の戦跡フイールドワークなど盛りだくさんの日程でしたが、
世代を超えて伝えられる49年の歴史の重みをしみじみ感じる大会でもありました。岐阜は、第5回から参加し、
28回大会は岐阜が主催しました。山梨のみなさんありがとうございました。

 
       中島さんの報告です              『戦争のころの子どもたち』も大勢の方に買っていただきました




2019年<夏の出張・平和展>


可児市川合地区センターで
『戦争のころの少年少女展』

   
(
左) 地区センターのロビーが会場です。(右) こんなかわいいチラシも作ってもらいました。

岐阜県可児市の北部にある川合地区センターで、夏休み特別展が開催されています。
当会作の、貸し出し人気が一番高い『戦争のころの子どもたち(小学生)』と、『少年少女たち(中高生)』パネルの出張平和展です。
ここは、近年に大型の古墳が発見されて、そのすぐそばに造られました。出土した土器や資料などを展示する資料館も館内にあります。
たくさんの子どもたちや市民の皆さんに見ていただけるといいですね。
8月23日まで開催していますので、近くに行かれた時はのぞいてみてください。

(左) 古墳 (右) こんなかわいい土器もあります。入場無料です。





岐阜空襲から74年 
「平和の鐘」が演目をあらたに、大きく報道されました。

                      
<レポ:中島裕子(会 学芸員)>

終戦の約1カ月前、1945年の7月9日は、岐阜空襲で約900人の市民が犠牲になった日です。
今年も岐阜市主催「平和の鐘」式典が、メディアコスモスで行われました。
今年は「戦争を知らない若い世代に、もっと分かりやすく訴えるものにしたい」という岐阜市の意向から、語り部さんの依頼など準備段階から当『岐阜空襲を記録する会』が協力し、中身を一新して行われました。

1.岐阜空襲の解説

(左) 『岐阜空襲』の説明。冒頭から焼夷弾の構造とその威力を、実物資料を使いながら解説します。
(右) 大型スクリーンに参列者が注目。米軍の攻撃目標・岐阜市の爆撃中心点を、レーザーポインターで差しながら説明しています。語り部の平光さんの自宅は、この近くでした。
 

語り部さんのお話の前座として、当会の篠崎先生が『岐阜空襲』のあらましを解説しました。
岐阜市がどのように米軍から標的にされ、市民や街が焼かれたか。なぜ被害が大きかったのか…。約10分という短い時間ですがお話できたと思います。
解説の篠崎先生に加え、その補佐と女子生徒2名へのもんぺ着付け、また空襲の夜の説明を中島とイラストレーターの林智子さんの2名が受け持ち、3名がフル回転して勤めました。

2.平光美那子さんのお話

(左) 語り部の平光美那子さん(写真は岐阜新聞より)(右) 平光さんのお話には注目が集まり、テレビ局3社、新聞社4社と多くの記者が集まりました。

終戦時9歳だった平光さんは、岐阜空襲で両親と3人の弟、1人の妹、自分以外の家族をみな失いました。母親の実家にひきとられて戦後を生きました。
長い間、その時の辛い体験を話すことはありませんでしたが、今回初めて、語り部として空襲での恐ろしい体験を話してくださいました。
最期に聞いたお母さんの声は、ともに亡くなった弟や妹たちに向けた子守歌でした。
「ねんねんころりよ、おころりよ…」その歌声が響くと、会場では涙ぐむ人も。
辛い体験を、でも冷静にはっきりとした口調で話され、皆が聞き入った20分間でした。

3.市長さんあいさつ、仏教会会長さんのメッセージ
いずれも、辛い体験を話してくださった平光さんへの感謝と、「決して忘れず語り継いで、平和な社会をつくっていきましょう」と、会場の市民や中学生に呼びかけました。※下記の新聞に詳細があります。

4.中学生の『平和の誓い』、平和を祈る合唱

(左) 美しい合唱がひびきわたりました。(右) 生徒さんは『空襲の夜』の説明でも、戦時の女の子の服装をして協力いただきました。
※写真キャプションの文字は(本文と同じ MeiryoUI 色のみ/こげ茶色)

ラストは中央中学生徒さんたちの出番です。代表の生徒さんが、「自分と周りの人の命を大切にします」「僕たちもこの歴史を伝えていきます!」と力強く誓い、生徒全員で平和を祈って合唱を披露してくれました。
悲しい歴史ですが、参加者たちの胸にきざみ、祈りにしていく…おごそかで美しい式典でした。

★テレビで新聞で、大きく報道されました。
 NHKでこの日のお昼と夕方に、2分の時間をとって報道されたほか、テレビや新聞で大きく取りあげてもらえました。
https://www.gifu-np.co.jp/news/20190710/20190710-154698.html
(↑)上の岐阜新聞Webでは、動画も公開しています。

(岐阜新聞)

(中日新聞)






7月9日は「平和の鐘の日」です
岐阜市空襲の日、7月9日は「平和の鐘の日、岐阜市の時鐘楼を始めおよそ130寺院や教会の鐘の音が
あちらからもこちらから「ゴーン」「カーン」と
いっせいに市中に鳴り響き、市民は空襲犠牲者の追悼と平和への誓いを固めます。
 またその時間、岐阜市主催の式典かメディアコスモスで開催され、平和への祈りとともに、
今年は両親と弟妹4人をこの空襲で亡くし孤児となられた、当時国民学校4年生だった平光美那子さんが、
その体験を話されます。また中央中学1年のみなさんが「平和の誓い」を発表し、合唱されます。
 この日は、「平和の鐘を鳴らしましょう」という幟の立っているお寺、教会で鐘をつくこともできます。
25年以上続く、「平和都市岐阜市」の全市をあげての催しです。







令和元年度 「子どもたちに伝える平和のための資料展」
           
        (主催:岐阜市 本会企画・制作)
始まりました

 
今年のテーマは、「お宮さんも お寺さんも 火に追われた-岐阜空襲のときの神社・お寺・教会-)
 と き 7月3日(水)正午~11日(木 )午後3時
 ところ みんなの森 ぎふメディアコスモス ドキドキテラス


 空襲のとき、神社もお寺も教会も、無事ではいられませんでした。
 そこは、大人も子どもも、いつも日本の勝利と家族の無事を祈っていた場所でした。
 またそこには、歴史的な建物や当時の国宝など、岐阜の大切な宝も多くありました。
 それらは、どうなったのでしょう。
 人々の心のよりどころだった神社・お寺・教会の、戦争のときの出来事を伝えています。

 





 この調査の途上、岐阜空襲の直前強制家屋疎開で礼拝堂や幼稚園、牧師館など一切が
取り壊しに遇い、戦後金町4丁目に再建された聖公会岐阜聖パウロ教会を訪れた際、
相原太朗先生からこんなものが見つかったと、譲渡を命令する「譲渡令書」が示された。
岐阜市でも防空家屋疎開家屋は3000戸にも及びますが、こうした文章は初見で貴重なものと判断し、
全国の研究者にも問い合わせていますが、現在までお答はいただいていません。
 岐阜新聞が7月2日一面と社会面で取り上げてくれました。
 こうした文書は対象の全戸に配られたもののか、立ち退きの期限まで10日でスムーズに行ったのか、
いくらで「譲渡させられた」ものかなど疑問点が多くあります。

この教会は、重厚な2階建ての木造教会堂が取り壊され酷いことだと思っていましたが、
そのままならば空襲で焼失したはずの、明治期の贖罪の聖句が漢文で刻まれている祭壇や洗礼盤などが
取り壊されたために残り、今も使われているという皮肉な巡り合わせになっています。


 






2019年<行ってきました!学校&市民の平和講座>
                                 <レポ:中島裕子(会 学芸員)

校長先生が、率先して伝えます!
岐阜中央中学校


(左) 元気な校長先生につられて、生徒たちも元気に手を挙げます。(右) メイン講師の篠崎先生と時おり確認しながら。連携しての講座でした。

6月18日、岐阜中央中学の平和講座にうかがいました。
一年生4クラスの生徒さんは、7月9日の『平和の鐘』式典に出席します。その事前学習です。
今年は校長先生が、まずは岐阜空襲と当時の時代について、最初にお話してくれました。
校長先生は社会科が専門。生徒たちにとっては身近な学習として、すんなり戦争をしていた時代に頭を切りかえてもらえました。
本番の『平和の鐘』での生徒さんたちの活躍は、また当日にレポします!





現役の語り部さんたちが集結!厚見中学校 



(左) 校長室にて。奧にみえる4人の方が、厚見中の近くに住む語り部の皆さん。右側が、岩倉市から見学にみえた語り部さん2名と、市の職員さん2名です。
後ろ姿ですが手前中央の席が校長先生。「今日はようこそお越しくださいました」 (右) 戦争中の食べもののお話。みんな興味しんしん。

7月5日、厚見中学を訪れました。この学校ではご近所に住む語り部さんたちを招いて、2年生の各クラスの教室でお話をするやり方です。
当会はご近所ではありませんが招かれて、篠崎先生と私・中島が2年1組を担当しました。
生徒さんたちと近い距離なので、顔や反応を見ながらお話ができて良いですね。当会が持参した焼夷弾筒などの実物資料は、他の語り部さんたちの教室にも回して生徒さん全員にさわってもらいました。

この日は、愛知県岩倉市から見学に来られたお客様も。岩倉市では児童館で毎年『子ども平和教室』を開いていて、そこでご一緒している地元の語り部さんと市の職員さんたちです。
各教室でのお話が終わったあとは校長室に集合。語り部さんたちは80代から90代と高齢ですが、生徒たちも、若い先生たちも熱心に戦争の時代のお話を聞く姿を見て、「まだまだ頑張りましょう!」とエールを交わしながら歓談されました。
皆さん、これからも語り続けてくださいね!

 
(左) 「何か質問は?」の問いかけにはみんなモジモジだったのですが、「感想のある人は?」だと、たくさんの子がいっせいに手を挙げてくれました。
(右) 「地元の岐阜で、戦争で死んだ人がこんなにたくさんいたなんて、初めて知りました」
 「おじいさんやおばあさん、誰か知ってる人に僕もお話を聞いてみます。そして自分も伝えていきたい」と、前向きな感想をたくさん話してもらえました。






沖縄で学ぶものは-聖徳学園高校

 5月18日(土)、今年も聖徳学園高等学校の平和学習に招かれて、参加しました。修学旅行で沖縄を訪れる2年生、
沖縄戦を学習した上で、身近に起きた岐阜空襲や当時の中学生をとりまく時代についての事前学習です。
降伏が許されない中でサイパン島で玉砕する岐阜編成部隊や市民たち、逃げると卑怯者扱いされた空襲下の市民たち、
戦争下では人権、生存権の保障されない状況などを話しました。
 「身近な岐阜であった戦争がよく分かった」「当時の同年代の中学生の身長や体重の少なさに驚いた」との感想や、
「当時の学校の教育は?」「戦争のない時代を続けるには、何をしたらよいか?」などの質問を受けました。
来年には、選挙権を持つ生徒も出ることになります。正しく時代を見抜ける力を付けてもらいたいものです。

 




広島で、私たちの声を世界にとどけます


◆藍川中学 
2月26日、藍川中学に平和講座にうかがいました。
藍川中の生徒たちは、毎年広島の就学旅行で学び、平和祈念公園で合唱を披露しています。
戦争と平和について、広島で学んだ後の合唱は、通りかがっただけの外国からの見学者も涙するほど、感動的なものだそうです。
数日の滞在でも、多感な年ごろの生徒さんたちが学ぶことはとてつもなく大きいと、藍川中学の校長先生は言います。
お礼の言葉として、代表の生徒さんが誓いました。
「広島で、僕たちは声をとどけて、世界とつながってきます!」




厚見中学で平和講座 卒業直前の3年生、平和の考えを深く  
 2月5日、岐阜市立厚見中学3年生の平和講話に招かれてました。5人の講師が3クラスに分かれて
空襲体験を語るというもので、卒業を直前にした3年生、これまで積み上げてきた人権学習の仕上げの
企画でもあります。50分のうち30分、空襲の現代史での位置づけ、空襲の仕組み、被害状況、その反省に
立った戦後74年、などについて話し、残り20分を質問時間にあてました。
 短時間に深い内容を展開しましたが、3年1組のみなさんは真剣に聞き、考えてくれました。「敗戦の
ショックは?」など質問も時間いっぱいになりました。
 卒業式の日、校長先生がわざわざ家まで生徒さんの書いてくれた感想文と、式を飾った桜花を届けくだ
さいました。どの感想も、ただ理解するだけでなく、更に深め平和のために自分は今後何をなすべきかを
前向きに考えてくれており、嬉しい限りです。すべて紹介したいのですが、スペースの関係でその一部のみに
とどめます。



<感想文の一部> 
*この戦争講話を聞く前は、戦争に対してばくぜんとした考えしかなかったけれど。今日はなしを聞かせて
もらって、今自分たちが住んでいる岐阜もたくさんの被害を受けたことを知り、この先二度と同じことを繰り
返してはならないと強く思いました。これからは私たちが世の中を作っていかなければならないので、平和な
世の中を作り出していくために何ができるのか改めて考えていきたいです。(MHさん)

*太平洋戦争が終わってか74年間平和なことはすごいことだと分かりました。この状態を続けるためにも
戦争についてよく考えて行きたいです。(KOさん)

* 私はあまり岐阜空襲について聞いたことがなかったけれど、話を聞いてその恐ろしさを感じ、もう二度
とおこしてはいけないと思いました。
 私は戦争を体験していないけれど、戦争の悲惨さや怖さを、大人になったら 次の世代へ伝えられるように
したいです。(RKさん)

*太平洋戦争が終わってから74年、平和なことはすごいことだと分かりました。その状態を続けるためにも、
戦争についてよく考えていきたいです。(KOさん)

*戦争について私は深く考えたことがなかったですが、話を聞いてたくさんのことを考えさせられました。
 戦争で亡くなった方々の悲しみや、戦争の終わった後の喜びなど、その人たちの身になって考えて見ると、
とても切なくなりました。
 そして戦争は、今後絶対に起こしてはならないものだと深く感じました。改めて戦争について学習してみよう
と思いました。(MHさん)

*岐阜は特にひがいがすごいと聞いておどろきました。各務原に基地があったとはいえすごくひさんだと思いま
した。74年日本は平和ですが、世界という目で見た時、まだ戦争が残っています。だから今日の話を聞いて
、日本の平和はもちろん世界平和を目標にして、今自分ができることを考え、あくまでも平和的に、一つ一つ
確実に解決していきたいです。
(KKさん)





2018年<行ってきました!学校&市民の平和講座>



僕たちが大人になった時、戦争が起こらないために



◆岐阜大学附属中学
12月13日、今年も岐大の附属中学で平和講座を行いました。
春になったら沖縄へ修学旅行に行く生徒さんたち。沖縄では、戦争について過去のことだけでなく、現代の問題として見てくるのが目的だそうです。
そのため質問も、現代から見た疑問が出されました。
「戦争は悲惨なことが分かっているのに、今現在も世界でなくならないし、将来日本でも起こるんじゃないかという不安があります。
どうすれば防ぐことができますか?」
講師の篠崎先生からの答えは次のようなものでした。
「悲惨な経験も、時が経つと忘れられます。でも多くの人が望めば、戦争は防げます。
戦争は、震災などの自然災害とちがって、人がやめさせることができます。今日聞いたこと、沖縄で見てきたことを、皆さんもまわりの人に伝えてください.
そこから始めましょう」

講座が終わってから、きれいな花束と、養護学級の生徒さんたちが手作りした文房具など、とてもかわいいグッズをいただきました。
ありがとうございました。愛用していますよ!






ふるさとが焼かれたことを、私たちも伝えていきます (ARP明朝体U、特大、紺色)



◆本荘中学 
11月17日、今年も本荘中学へ平和講座にうかがいました。
本荘中は、近年アメリカ公文書館から公開された「焼夷弾(しょういだん)投下中」の写真で、ターゲットになっていた地域です。
今いる校舎の上に落ちていく、100発近い焼夷弾の写真に、生徒たちも先生たちも衝撃を受けていました。

『戦争していたころの学校と生徒たち』のお話では、戦時の中学生と背くらべしたり、女子学生のコスプレをしたり。体験・参加でおおいに盛り上がりました。
最後に代表の生徒さんが誓ってくれました。
「戦争が始まれば、私たちの故郷も攻撃される。二度とくり返さないために、今日の話を私も伝えていきます」





岐阜空襲を記録する会が 出版しました
『戦争のころの 少年少女たち-「ほしがりません、勝つまでは!」の時代に-』



早川三根夫岐阜市教育長から推薦文をいただきました。その一部を紹介します。
「---本書『戦争のころの少年少女たち』は、平和な時代に生きている 今の子どもたちにとっても、
身近な岐阜市の出来事として、いきいきと感じることが出来 ます。
そして、「おじいちゃん、おばあちゃんの子どものころの岐阜はこうだったのか」 と、その時代が分かります。
ぜひ本書をもとに、家族で話題にしていただきたいと思います。---
本書は、多くの人に触れていただき、自身の経験などでふくらますことで、
子どもたちの未来の平和につながっていくものと確信します」

吉成信夫メディアコスモス図書館長も、「市や県にとって大変貴重な資料、副読本にもなる。推薦する」 と
評価いただきました。

 日本は「世界に一つの神の国」だから、アジアを支配している欧米を追い出し、日本を盟主に「大東亜共栄圏」を
建設するこの戦争は正義の戦争、何が何でも「撃ちてし止まん」、いずれは勝つ戦争だからそれまでは
「欲しがりません勝までは」と我慢しながら、勝つことを信じ、皇国の兵士に憧れたあの戦争のころの少年少女たち。
そして思いとは違い迎えた焼け野原と敗戦、彼らはどう止めたのでしょう。

岐阜市の「子どもたちの伝える平和のための資料展」のために作成した4回の展示のパネルを編集した画集を、当会が
岐阜新聞から出版しました。立ったまま読むパネルではないので、好きなときにゆっくり腰を下ろして、手に取って、ご覧ください。
8月13日頃から書店でも販売しています。 
写真やイラストをたくさん使い、読みやすくなっています。子どもさんの夏休み一研究にも使える資料にもなります。
税込み1.200円です。ご購入ください。 <E-Mail sinoyosisi@gmail.com  ☎090-4260-0960 篠崎喜樹>


 
岐阜新聞8月15日号で紹介されました

 每日新聞8月16日

<ネットでお買上げ>
次のページから注文できます。
 ”
岐阜新聞の本”の検索ですぐ出てきます。 または”アマゾン”の検索で、書名『戦争のころの少年少女たち』を入力すれば、すぐ見つかります。






< 2018年 夏の企画です >


笠松町歴史未来館で「企画展 戦争の記憶」

 8月4日(土)から始まりました。9月9日(日)まで。午前9時~午後5時、月曜休館

①戦地に赴いた若者たち(家族を案じ每月葉書を送り続け19年11月に戦死した久納浩一郎さんの
葉書と死亡通知書は痛ましい)、②戦時の国民の暮らし「銃後の守り」、③岐阜空襲の3部構成。
入り口正面には。「こんどの憲法では、日本の国が二度と戦争をしないように、二つのことをきめました。---」
と、1947年文部省発行し全国の中学生が使った「あたらしい憲法のはなし」の、9条に関しての解説文を
筆書きされたものが大きなカラスケースにいっぱい掲示されており、感動的です。整理され、見やすい展示です。
 当会から、3部の展示物をお貸ししました。17日からは、M47焼夷爆弾やE46集束焼夷弾(模型)も
展示されています。


  


    

8月18日(土)13:30~15:00 当会の講演会が企画され,
展示と演題:
”欲しがりません勝つまでは”の時代に-岐阜空襲と子どもたちの暮らし-
会から中島、篠﨑が参加し、前半は岐阜空襲、後半は今度出版した『戦争のころの少年少女たち』に沿った内容を、
プロジェクターも使用して説明しました。
50人会場いっぱいの方たちは、最後までしっかり聞いていただけました。戦災孤児についての質問もいただきました。
CCNTV局の取材や、岐阜県博物館からの企画協力要請がありました。
本も多くの方が、お買い上げくださいました。






世代を超えて、戦争と平和を考える
「おもと会」の戦争体験を語り継ぐ夕べ

 広島原爆の日でもある8月6日、ボランティアグループ「おもと会」の主催で、「戦争体験を語り継ぐ夕べ」がメディアコスモスで
開かれました。会にお招きがありましたので、中島、篠﨑が参加しました。
 広島原爆の記録映画のあと、小学6年生の岡部和男君の「岐阜空襲を語る」、日頃とは逆転して岐阜空襲の説明を
聞き手にまわる初めての体験。小学生の語り部か---、継承がここまで進んでいることに驚きました。
 ついで、ともに92才の元十六銀行員で八ツ梅町で被災された碓井芳子さん、川崎航空機工業本荘分工場の工員だった石神みち子さんが、
川が燃える火の中を長良川堤防で一夜を明かした体験を精一杯話されたり、長良東中学3年田中幸恵さんなど高校生、大学生ら4人が
若者の視点から戦争と平和への思いを語られたり、独唱あり合唱ありのつどいになりました。
 得てしてこういう会は戦争の悲惨さが語られ沈んだ雰囲気になるったり、聞き手も体験した高齢者が多かったりすることが多いのですが、
この催しは違っていました。10代から90代が、体験非体験を問わず語り聞き歌い、「二度と過ちは繰り返さない」の広い共感で結ばれた、
質の高いつどいになりました。主催者の周到な企画に敬意を表します。

 

 





鐘の鳴る丘」を歌い、戦災孤児を偲ぶ -岩倉市児童館の平和学習-

8月2日今年も岩倉市のお招きで、第三児童館での「平成30年度平和を考える会」に参加しました
連日の猛暑のため、参加できない児童館もありましちゃが、元気なみなさんが会場を埋めました。
岩倉語り部の会の中山さんの少年期の戦時体験のお話の後、当会の篠崎が空襲、、中島、林が
戦時の子どもたちの様子を再現、戦時の悲惨で愚かしさに比べ、今の平和の大切さを語りました。
休憩の後は、岩倉馬路さんの当時の子どもが書いた詩を朗読、そして「鐘の鳴る丘」の歌の指導で
盛り上がりました。
午後は映画会で「、後ろの正面だあれを鑑賞しました。

 

 






平成30年度 「子どもたちに伝える平和のための資料展」

7月5日(木 )~12日 メディアコスモス ドキドキテラス
13日以降は岐阜市平和資料室で、新しい企画展として展示しています。ご覧ください。

戦争中のお母さんは大いそがし!-戦時の婦人会活動を記録した『梅林文書』より-

 太平洋戦争が始まると300万人からの動員のため、働き盛りの男手が国内から消えたのです。
 米・野菜など農作物も、魚などの漁獲もへって食糧不足がひどくなります。
 衣類や工業製品など生活用品も生産ができなくなっていきます。
 代わって、その産業の担(にな)い手が、女性たちと子どもたちに回ってきたのです。
 また男手のない家庭を守り、育児と婦人会の活動に翻弄されたお母さんたちの様子を紹介していまます。  
        主催:岐阜市  企画・制作:岐阜空襲を記録する会






中日新聞

岐阜新聞

  
 




岐阜空襲73年 祈りと願いの「平和の鐘」の日

 
れから73年のこの日(7月9日)、午前9時、時鐘楼の鐘を合図に、岐阜市内120余りの寺院、教会の鐘がいっせいにならされ、ゴォーン、ガーン、カーンなど、
さまざまな音色の鐘の音が響きわたり、市中は厳粛な雰囲気に包まれました。
  矢島町1 現正寺では半鐘を

 10時からメディアコスモスでは岐阜市主催の「平和の鐘」式典が開かれました。始めに当時岐阜中学4年生だった国安昌平さんが、川崎航空機への
学徒動員時の制服を横に、その夜のから朝にかけての梅林地域の様子を話し「どうすることもできなかった」と。
 次いで柴橋正直市長は「空襲体験の継承は貴重、平和への思いを結集し、岐阜から世界へ発信しよう」と挨拶されました。
 全員で黙祷の後、代表者により平和の鐘がならされ、岐阜中央中学生徒の代表吉田光太郎、竹市智哉くんが「自分と周りの人の命を大切にする」
などの「平和宣言」、最後に一年生全員の合唱で盛り上がりました。
 73年経っても、こうして行政の手で追悼と平和を希求する行事が行われるのに感動します。「平和都市岐阜市」の旗を高く掲げ、一層の平和にむけた施策を進められることを願います。

     柴橋正直岐阜市長のあいさつ             平和の鐘鳴鐘                      国安さんの体験を聞く
中央中1年のみなさんの合唱
生徒代表の「平和の誓い」

平成30年度 「なごやか文化交流」 無事終了しました
     7月13日(金)11時~16時  ぎふ清流文化プラザ2F ホワイエ 
 ◆
戦争中のお母さんは大いそがし!-戦時の婦人会活動を記録した『梅林文書』より-
岐阜市資料展の一部を、岐阜県退職教職員互助会岐阜支部の行事で ”PKO長良自然とくらしの楽校”など7団体とともに展示します。
主催:「なごや文化交流」実行委員会






2018年<行ってきました!学校&市民の平和講座>

※平和資料室での平和講座は、リンク先の〈岐阜市平和資料室〉でご覧ください。



戦争していた時代、子どもたちも無関係でいられなかった

◆精華中学 


2月7日、今年も精華中学に平和講座に行きました。
雪の降る寒い日でしたが、6クラスの生徒さんたちは体育館でしっかりお話を聞いてくれました。

写真は、恒例の、『戦時の中学二年生・平均身長ボーイと背くらべ』。たくさんの男子生徒さんが協力してくれました。
みんな戦時の平均身長、154㎝を大きく超える子ばかり。当時は栄養が極端に不足していたことが、よく分かります。
「戦争は、戦場に行かない子どもたちも、決して幸せにはしないことが分かりました」
代表して感想を話してくれた生徒さんが、「私たちは大人になっても伝えていきます」と誓ってくれました。(中島)






2017年<行ってきました!学校&市民の平和講座>

2017年も、市内の学校やあちこちの自治体から依頼を受け、平和講座に出かけました。
子どもたちや、生徒さんたちの反応とともにご覧ください。





◆東海交流集会で、特別報告をしました

 例年のように暮れの押し迫った12月17日(日)、「戦災・空襲記録づくり第33回東海交流会」が、ピースあいちで開かれました。
東海だけではなく小田原、敦賀などからも23団体47人が参加しました。
 特別報告は①東海地方の高射砲陣地、高射機関砲(銃)陣地、照空体陣地、対空監視哨、電波兵器陣地などを丁寧に調べ上げ
『東海軍管区の防空陣地』を出版された「戦争遺跡研究会」の清水啓介さん、②城山三郎『捕虜の居た町』と出会い、収容所のあった
有松の現地調査をへて戯曲『捕虜のいた町』を出版、有松で上演をも成功させた南山国際中学・高等学校教諭馬場豊かさんの報告、
③「『岐阜空襲アーカイブ』大学生の卒業作品づくりとも連携した2017の平和展」(岐阜空襲を記録する会)の3本でした。
 岐阜の報告は、愛知淑徳大学4年生国廣有紀さんの「岐阜空襲アーカイブ」制作の意図や制作過程、平和展参加者からの評価、
卒論の仕上げまで、作品を示しての報告、篠崎から制作や2つの平和展での展示協力など、中島裕子さんからはパネル化しての展示と
3人がかりで報告しました。親、子、孫3代にわたる世代の三者三様に違う取りくみに関心が集まりました。
 続いて10団体からの報告があり、昨年から復活した第2部は懇親会、中島さんの司会で寿司などをつまみながら更に深い交流で時を忘れました。
73年も東海はますます元気です。

 報告する国廣有紀さん





岐阜経済大学で、空襲と被害についてお話ししました



11月25日、大垣市にある岐阜経済大学より、お招きを受けました。
同大・地域経済研究所が開催する『市民公開講演会』、今年は平和問題をテーマに行うとのこと。
『想いをつなぎ、平和を考える』のタイトルで、当会の篠崎代表と、「空襲体験を語りつぐ大垣の会」高木正一さんが講演しました。
岐阜・大垣それぞれの活動や、空襲の被害とともに、昨年篠崎・高木両氏で調べた『大垣空襲の被害を少なくさせた、陰の功労者』、
第二の杉原千畝さんともいえる人がいたことなどにも触れました。

体験者より 「命と地域を守るには、国まかせにしないこと」
質疑応答では、地元市民や同大の学生さんからも活発な意見が寄せられました。
防空壕や平和問題など、戦時や非常時の行政の対策については、戦争体験者でもある篠崎先生がやや厳しい回答をしました。
「戦時中、防空壕も消火訓練も、焼夷弾攻撃には役に立たなかった。今、北朝鮮のミサイル攻撃に政府が対応策を出しているが、
『それで本当に国民を守れるのか?』 冷静な国策と、市民たちの対処が必要でしょう」

最期にまとめた、大学の森教授と、大前先生の感想が印象的でした。
「大地震も戦争も、人命や地域経済を破壊します。地震など天災は防ぎようがないが、戦争は人災で、人間が防ぐことができます。
命も、地域社会も、大切に維持していくためにも、いま平和であることをおろそかにせず考えていかなくてはいけない。今日は良い機会でした」
    (レポート:中島)


大垣からは、高木正一さんが、紙芝居やイラストなどを使って子どもたちに戦争のことを伝えていることをお話ししました。






戦争と平和のお話を、北方町で

◆北方町主催 『平和人権祈念講演会』

 
8

8月8日、北方町主催の夏のイベントに、講師として招かれお話ししてきました。
小中学生に加えて、市民の皆さんも大勢参加するイベントです。
太平洋戦争中に、岐阜が受けたアメリカ軍の爆撃とその被害。また戦争中の子どもたちの暮らしぶりを紹介しました。
「戦争の時の、地元のお話が初めて聞けた」と、たいへん歓迎していただきました。

<写真>・中学1年生の平均身長イラストと、みんなで背くらべ
・戦争時の教科書のページをバックに、戦時の女の子のコスプレ。「朝ドラの女の子みたい」と言われました。




『芽吹けミヤコよ』が、萌木会朗読会でよみあげられました

 10月17日(火)、岐阜中日文化センターの朗読講座萌木会(指導者吉本伶子さん)の「朗読会」が、
ドリームシアタ岐阜メインホールで開催されました。
 今年は信長岐阜命名450年ということで岐阜を舞台にした作品や、生誕150年の夏目漱石の作品など7点の中に、
当会が1985年刊行した絵本『芽吹けミヤコよ』(全国学校図書館協議会認定図書)が取り上げられました。
 読んでくださったのは吉井繁子さんと山形愛子さん、どちらも戦争体験のないかたですが、しっかりと読み込み、
温め直して、新たな命を吹き込んでくださいました。
 無機質な文字の表現から、朗読によりあのときの空間が大きな広がりを持ってよみがえり、聞くものの心に
響いてくるのを感じました。吉井さんからのお手紙に、参加者のアンケートには「『芽吹けミヤコよ』の作品が心に残った
と書いてくださった方が多数おられ、本当によかった」と書いていただきました。
 出版して30年以上たっても、このように大切にされ、生かされていることをうれしく思います。

 吉井繁子さんと山形愛子さん





戦争って、みんな死んじゃうの?

◆岩倉市児童館 『平和を考える会』


8月4日、今年も岩倉市よりお招きを受け、お話ししてきました。
児童館に集まった小学1~3年生の子どもたちは、元気いっぱい!
「こんなバクダンが落ちてくるんだよ」
「自分は死なずにすんだけど、お父さんが戦争に行ったままだったり、お母さんが死んだり、お友だちをなくした子もたくさんいたんだよ」
戦争の時に、岩倉で子ども時代をすごした中山さんのお話も聞きました。中山さんも、お父さんを戦争で亡くしています。
お話のあとは、戦争でひとりぼっちになった子どもが、元気を出すために歌った歌、『鐘のなる丘』を、馬路さんに教えてもらってみんなで歌いました。





本巣市”学校教育における平和学習"展

  本巣市教育委員会が毎年夏おっこなう平和展、今年も8月1日より1ヵ月「しんせいほんの森」で開かれました。
 展示は当会からお貸ししたパネル
「進め一億 火の玉だー本土決戦のころの少年少女たち」に合わせ、小学・中学の
 国語や社会の教科書や、平和・反戦の図書を展示し、学校で扱う平和学習教材を紹介しています。
  またそれを読んだ児童生徒の感想文も展示されており、平和都市宣言をした市での平和教育の展開も
 分かるるようになっています。学校で平和問題がどのように取り組まれているか知るいい機会となりました。
 

 




市労連”平和展2017「かたりつぐ平和のおもい」

 
岐阜市職員労働組合や自治労岐阜ブロックが共催する35年目となる平和展は、7月22日(土)~23日(日)
メディアコスモスドキドキテラスで開かれ、当会はパネル展示
「岐阜空襲と当時の子どもたち」
DV
D[芽吹けミヤコよ」上映と、講演を2回行いました。
 半月前と同じ会場ですが、パネルも別のものに取り換え、講演会場も設営され、折り鶴つくりのコーナー
読書テーブルも置かれ、かなり違った雰囲気で行われました。

 




退教互”なごやか文化交流”展示
 
7月13日(木)、岐阜市文化センターで行われた退職教職員互助会岐阜支部総会の際に、
退職教職員が市民とともに趣味や特技を生かして行う文化活動を交流する”なごやか文化交流”
の展示部門に今年も参加しました。
 
 ここでも愛知淑徳大学生の國廣有紀さんがタブレットを使い、
「岐阜空襲アーカイブ」を紹介しました。
年配者ですがさすが元教員しっかりと閲覧し、「これはいい、現場の平和教育に使える」などと高い評価をいただきました。
午後になり、國廣さんのセミの菅野教授が大学院生や学生さんたをつれて来られました。
「アーカイブもだんだん良くなっている」ことともに、地域社会の中で広がりを見せ、
評価が高まっていることを喜んでおられました。
若い人たちが発信元となり、若者にも年配者にも関心事となることはうれしい限りです.








戦争と平和を子どもに伝えるには

◆全国フェミニスト議員連盟・サマーセミナーinぎふ 


全国の女性議員さんたちが党派を超えて協議・協力する、『全国フェミニスト議員連盟』。その夏の大会が、岐阜で開かれました。
7月9日、その分科会として、「図書館と平和」をテーマにした会合がメディアコスモスでありました。
吉成館長さんのお話とともに、当会の中島と林が、「戦争と平和を、子どもにわかりやすく伝える取り組み」についてお話ししました。

戦争を伝える取り組みは、原爆を受けた広島・長崎以外では女性の参加が少ないのですが、ここでは全国各地で、絵本や紙しばいを有効に使って子どもたちにアプローチしているケースが多く報告されました。
「こういう時こそ、図書館をおおいに活用してください」と、吉成館長さんが呼びかけました。






岐阜市”昭和29年度 子どもたちに伝える平和のための資料展”

 ハートフルGから昨年メディアコスモス ドキドキテラスが会場となった岐阜市主催平和資料展、
今年は7月3日(月)~12日㈬開かれました。
 ①「焼け野原からの再出発~そして今」と、②「戦うぼくら、少国民~岐阜空襲と、立ち向かった子供たち」
をテーマに当会が企画制作した展示です。
 今年は空襲直後,再建の始まった様子を十六銀行本店と丸物百貨店(今の中日ビル日立つところ)から
360度撮影した写真と同じ場所の今を焼け跡と撮影したもの(この夏、会と國廣さんで十六銀行、中日新聞に協力もとに)
を比較し、72年の平和を考えようというのが①、当時の岐阜の子供たちが戦争に巻きこまれていった様子を
知ってもらうのが②の展示の狙いでした。

 また会場では、愛知淑徳大学の4年、國廣有紀さんが、①の素材を使って卒業論文として作成した
「岐阜空襲アーカイブ」を、タブレットを使って公開し、新聞各紙やテレビ局に取材・に取材され、話題となりました
また、愛知淑徳大の報道関係者の取材や、岐阜市教育委員会や先生方からの協力、支援の申し出もありました。

 さすが一日3000人が入館するという会場、途切れることなく会場は賑やかでした。
 

 

2017年7月14日 朝日新聞金

 7月9日岐阜空襲の日、岐阜市の行う「平和の鐘」の式典も、この会場で行われました。
当時岐阜中学3年生だった国安昌平さんの学徒動員と岐阜空襲の体験を聞いた後、
参加していた岐阜中央中学1年生の代表が「平和の誓い」を述べ、参加者が順次
会場に準備された「平和の鐘」を撞きました。
 当会の篠崎喜樹代表は、それまでに矢島町現正時で鐘を撞き,午後は西荘敬念寺に呼ばれ
講演をしました。

  岐阜空襲の体験を語る国安昌平さん



ふるさとの『平和の鐘』から、平和学習をはじめます

◆岐阜中央中学 




6月16日、岐阜中央中学で平和講座を行いました。
翌月7月9日は、市の主催行事『平和の鐘』が行われます。一年生の生徒たちはこの行事に参加するので、その事前学習として戦時の岐阜市のことを学ぶのです。
そう、『平和の鐘』の7月9日は、米軍の岐阜空襲があった日なのです。この空襲で約900人の市民が一夜にして命を落としました。
「僕たちのふるさとから、平和の勉強を始めたいと思います。二度と戦争で、尊い命が犠牲にならないように!」

<写真>たくさんの生徒さんが、戦時の平均身長イラストと順に背くらべしました。みんな当時の平均より大きい子ばかりですね。