2015・16・17・18
岐阜市橋本町1-10-23 ハートフルスクエアーG・2階東南角(JR岐阜駅改札から直通)
午前9時〜午後9時開館 毎月最終火曜日のみ閉館
ホームページ作成:篠崎喜樹(岐阜空襲を記録する会)TEL 090−4260−0960
→ 岐阜空襲を記録する会
<平和資料室へようこそ! 2018年>
うちの街にも平和資料室を!
◆小田原空襲を記録する会
3月4日、遠く神奈川県から視察がありました。
岐阜と同じ米軍の空襲で焼け野原になった、小田原市からです。矢野慎一さんは、5人の仲間と戦時の被害を調べ、
体験者からお話を聞いて記録をまとめています。篠崎先生と同じく高校の先生をしながら、教科書の執筆をする研究者でもあります。
この日は大学生の息子さんとともに訪れました。
「主要駅のそばで、入場料もいらなくて、気軽に入って学べるのがいいですね」矢野さん
「絵や写真がふんだんにあるから、子どもが一人でも理解できると思います」息子さん
小さいスペースでも平和展示の場所があることは、地元の子どもには貴重な学習施設になるそうです。
「小田原市にも、なんとかして造りたいですね!」(レポ:中島)
<平和資料室へようこそ! 2017年>
この秋も、岐阜市内の子どもたちが社会見学などで、つきつぎ平和資料室に来てくれました
子どもたちの平和講座をレポートします。
※学校や施設へ出張しての平和講座は、ページトップのリンク先、〈岐阜空襲を記録する会 2017・18〉でご覧ください。
ちいちゃんは、こんなふうに生きてたんだなあ…
◆木田小学校3年生
11月17日、木田小学校の子どもたちが社会見学できてくれました。
国語でならった、『ちいちゃんのかげおくり』の世界を見てもらいました。
<写真>・資料室で。「ほら、あれが防空壕(ぼうくうごう)の模型。ちいちゃんはこんな所に隠れてたんだよ」
・クラフト室で。「戦争してた時はね、みんなこんな物まで食べてたの」
★木田小の子どもたちから、かわいらしい感想文がとどきました。ありがとう!また来てくださいね。
戦争の時は、おもちゃも教科書もぜんぜんちがうね!
◆鏡島小学校3年生
11月1日、鏡島小学校の子どもたちが。3クラスあるので、平和資料室は二手に分かれて見学してもらいました。
資料室では、戦時の子どもたちが遊んだおもちゃを、熱心にメモしていました。
そのあいだ、もうひとグループは戦時の子どもたちのお話を研修室で。もんぺコスプレでは、かわいいちいちゃんができあがり!
「バクダン、すご〜〜い!」
◆華陽小学校3年生
9月27日、華陽小学校の子どもたちが、初めて社会見学で来てくれました。
まずは本物の焼夷弾(しょういだん)と・大型の実物大模型(じつぶつだいもけい)にビックリ!
「大きい方は2000発。小さい方は、1万2000発も、この小さな岐阜市に落とされたんですよ。想像できるかな?」
毎月の、最終火曜日だけはお休みですが、他の日はいつでも入れますから、また見に来てくださいね。
新しい展示始まりました。
8月1日より、今年度の新しい展示「戦うほくら少国民〜岐阜空襲から立ち上がった子どもたち〜」と
「焼け野原からの再出発〜そして今」を展示しています。ご覧ください。
戦争で岐阜の街が焼かれたこと、初めて知りました
◆エールぎふ(岐阜市子ども支援センター)
6月20日、市の子ども支援センターから、子どもたちと父兄・スタッフの皆さんが訪れました。
太平洋戦争の時、地元・岐阜の街も壊滅したことは、子どもたちだけでなく若い父兄の皆さんも、初めて知る人が多かったようです。
街に米軍の焼夷弾が落とされている写真や、市民たちの焼けた生活品を、熱心に見学していかれました。
平和資料室の資料を使った稲葉さんの授業
藍川まちづくり協議会事務局長の稲葉勇さんは、1月24日藍川小学校6年生のみなさんに、
71年前の徹明、本荘校区での空襲や戦争体験を話されました。
その際、岐阜市平和資料室がお貸しした千人針や焼夷弾筒を使い、
分かりやすく説明された様子が、翌日の岐阜新聞に掲載されました。
子どもさんたちには好評で、たくさんの質問で盛り上がったとのことです。
保存している資料のの貸し出しも、資料室の大切な役割と思います。
<平和資料室へようこそ 2016年>
福井県から、平和学習の視察にみえました
(左)空襲の遺品を見学。猛火の痕跡と、戦時の生活ぶりが分かる資料に関心が集まりました。
(右)見学の後、研修室でお話。子どもや戦争を知らない世代に、どうやって興味を持ってもらい伝えているか、スタッフの中島さんが解説しましあ。
11月18日、福井県おおい町から、人権教育推進協議会の委員さん17名が平和資料室に見学に訪れました。
おおい町は、高浜漁港や海水浴場もある風光明媚な町です。(お魚は絶品のおいしさ!)
戦時中の空襲などはありませんでしたが、戦時の学徒動員や、家族が戦死した経験のある方々が語り部として、子どもたちに伝える活動をされています。
平和資料室では、焼夷弾など空襲の資料と、戦時の生活品、子どものおもちゃなどを見ていただきました。
そのあと研修室で、市立の平和施設が誕生した経緯と、〈戦争と平和〉を子どもに分かりやすく学んでもらう岐阜の取り組みをお話ししました。
「将来、戦争体験者はいつかは居なくなる」その時のために、どのような教材を用意し伝えていくか…。」
これは全国どこでも同じ課題です。
視察団の皆さんはさかんにメモを取り、また「子どもの関心が高い」資料を撮影していかれました。お互い頑張りたいものです。
この秋、岐阜市内の子どもたちが社会見学で、つきつぎ平和資料室に来てくれました!
3校の児童たちの平和講座をレポートします。(レポ:中島)
「戦争の時の子どもって、かわいそ〜〜〜!」
◆鏡島小学校3年生
(左)「戦争をしていたころ、子どもたちが遊んだおもちゃです。何をしてるか、分かりますか〜?」 「え、いじめてるの?」みんな興味しんしん。
実物資料を見てもらいながら、加藤恵理子さんが解説します。
(右)恒例の【戦争中の中学1年生と背くらべ】 「僕の方がもう大きいよ!」 「戦争の時の子、小っちゃいなー」
「どうして小っちゃかったか、分かる人いるかな〜?」 講師は林智子さん。
10月28日、今年も鏡島木田小学校3年生の子どもたちが平和資料室にやってきました。
3クラス88人は一度に入れないため、二手に分けて交替し、資料室の見学と研修室で「戦争中の子どもたち」について学んでいきました。
この鏡島小学校は、岐阜空襲の時に雨のように焼夷弾(しょういだん)を落とされた地域でもあります。
上空から焼夷弾が落ちていく写真を見ながら、みな真剣にメモを取っていました。
担任の先生といっしょに事前学習をたっぷりやったという子どもたち。質問の時間になると、スゴイ質問が次々と!!!
「機関銃で迎え撃つことはしなかったんですか?」
「B29は、ロケラン(ロケットランチャー)で撃ち落とさなかったんですか?」
案内の私たちもビックリ! 時代が少しちがうこと、またそのころの日本は貧しく、原料になる金属資源がまったく足りなかったことも話しました。
小3には難しい内容でしたが、子どもたち、納得の表情でした。
「ちいちゃんの服と、防空ごうだー!」
◆早田小学校3年生
(左)「かわいいちいちゃんの、できあがり〜」 女の子はちょっとうらやましそう。
(右)自由見学の時間に。資料室のいちばん奥、〈空襲の遺物〉と〈丸物のカベ〉の展示に質問が。
「おばあちゃんから、丸物のこと聞いたよ。焼けちゃったの?」 「鉄筋の建物は、すすけて残ってたんだよ」
10月28日の午後、鏡島小学校の見学のあと休憩していたら、早田小学校の子どもたちが見学にやってきました。
先生にお聞きすると、まったくの自由見学のおつもりだったそうですが、その場に居合わせたこともあり急きょ解説をすることに!
焼夷弾や、戦時のおもちゃなどを紹介すると、みんな大張はりきりでメモを取っていました。
とりわけ関心が高かったのが、〈防空ごうの模型〉と〈ちいちゃんのコスプレ〉!
実はやりたい子が多くて、女子10人以上でジャンケンをして決まったのです。みんなに着てもらえなくてゴメンネ。
このあともうひとクラスが訪れて、2クラスの子どもたちに戦争の資料を説明することができました。(中島&林)
「バクダンすご〜い!」「平和でよかった…」
◆木田小学校3年生
(左)「ようこそ平和資料室へ!」 まずはどうしてこの資料室が岐阜市にあるのか、展示をつくった篠崎先生が解説します。
(右)みんなが注目して見ている先に…そうです。国語で出てきた、今は町のどこにもない〈防空ごうの模型〉があるのです。
11月7日、今年も木田小の元気な子どもたちがやって来ました。
「私がみなさんの年のころ、この国は戦争していたんです。
岐阜くうしゅうを知っている篠崎先生の話に、
「でっか−い!」
集束焼夷弾(しゅうそくしょういだん)
「これが、岐阜の街に2300発落とされました。
その数の多さにも驚く子どもたち。
〈背くらべ〉や〈ちいちゃんのコスプレ〉で、戦時の子どものことも学んだ木田小の子どもたち、自由見学の時に思わずひと言。
「平和で良かったわー」
みんなにそう思ってもらいたくて、平和な時代を続けてもらいたくて、そのためにこの資料室ができたんですよ!
企画展”進め一億火の玉だ!〜「本土決戦!」のころの少年少女たち〜”
7月3日から ぎふメディアコスモス、16日からハートフルスクエアーG キュビックギャラリーで
展示を続けてきた今年の「子どもたちに伝える平和のための資料展、
29日には平和資料室に帰ってきました。
高い評価をいただいた板津包信画伯の作品や郷土部隊の玉砕の遺品ははおかえしし、
その頃の岐阜の中学生や女学生に焦点を当てたあたらしい展示です。
他ではできなかった当時の子どもの遊び道具(お手玉、オハジキ、ビー玉など)や、
岐阜一中の生徒の通学カバン、ベルト、靴なども展示しました。
「読み応えがある」と一枚一枚、パネルを丁寧に見てくださる方もいました。
本巣市図書館で平和展、 パネル・資料の貸し出し続く
昨年に引き続き、本巣市では市立図書館しんせいほんの森で8月3日〜30日まで平和展を開催しました。
これには小学生の平和学習の作品や、学校での平和教育の教材などが紹介されるとともに、
平和資料室所蔵、岐阜空襲を記録する会が制作したパネル「欲しがりません勝までは」も展示されました。
会場にはびっしりと資料が並べられ、充実した展示になりました。10時〜18時。月曜休館日。
また7月22日〜27日には、「長森・日野、親と子の平和まつり」に、「撃ちてし止まむ」のパネルや岐阜空襲DVD、、
8月2日〜8日には、「ごうど九条の会平和写真展」に、「戦事中のお母さんは大忙し」のパネルや焼夷弾筒、
千人針などを貸し出しました。
静岡平和資料センターの皆さんが、見学に!
岐阜と同じように空襲を受けた静岡市には、街なかに『静岡平和資料センター』があります。
そこで働かれているボランティアスタッフの皆さんが、3月8日、岐阜の資料室を訪れました。
戦争を体験された世代から女子大生まで、総勢10名!古株(失礼!)のお一人をのぞいて、全員が女性です。
『空襲・戦災を記録する、全国交流会』など研究会でもよくご一緒する、静岡の皆さん。
実は岐阜と静岡は、とても共通点が多いのです。
・平和施設が、小規模だけど街の一等地にあること。(静岡の平和資料センターは公立ではありませんが、市の助成を受けて運営されています)
・戦争を体験していない世代が多く活動していること。しかも女性が多い!
・子ども世代に伝える、新しい工夫や取り組みをしていること。 などです。
「平和施設を、公設にするにはどうしたら良いか」の話題や、岐阜の平和講座を復元資料とともに体験いただいたり、ふだんから仲のいい静岡の皆さんと、なごやかで実りある一日でした。
※中華のランチも良い交流会になりました。集合写真を撮り忘れたのが残念でした。
(↑)大学院生の二人のスタッフは、岐阜の防空壕模型と、県(当時)からの「防空壕製造指令書」の実物資料に興味しんしんでした。
資料のコピーをお持ち帰りいただきました。研究の、役に立つと良いですね。
M69焼夷弾筒など、新たに展示しました
このほど岐阜空襲を記録するは、会大垣空襲を記録する会で長くがんばってこられた柳瀬博さんのご遺族から、
戦時の遺品を引き継ぎました。その内E46集束焼夷弾の仕組みがわかる集束用立板3枚と、
M69焼夷弾筒3箇を、岐阜市の了承を得て岐阜市平和資料室に展示しました。
MP69などの文字も読み取れ、当時の緑色系の色も残るもので、貴重な資料です。
資料室自慢のE46集束焼夷弾の模型とセットで迫力があります。
<2015〜16年企画展>
戦争の悲しみをえがく
板津包信展
終戦70年の岐阜市平和資料室の企画展が7月25日始まりました。長良小の校長などを務め、自由美術協会で活躍された
板津包信(かねのぶ)さんの作品展と、戦没者への「挽歌」に答えたサイパン遺品展です。
空襲直後の岐阜の街をえがいた「帰郷の真夜中 岐阜駅から柳ヶ瀬」や、南の海や山でなくなった友人たちの墓標とも言うべき
作品がスポットライトを浴びて、戦争の悲惨さ、愚かしさを訴えています。
また、あわせて板津さんが心を痛めた南の島のひとつサイパンでの悲劇を紹介しています。
岐阜で編成された4052人の136連隊が、1944年7月2日「陣地ニ来タルモノ一兵モナシ」とサイパンで全滅した様子を伝える会が入手した「戦史資料」や、
遺族会が岐阜護国神社に預けた鉄兜や銃剣などの遺品をお借りし展示しました。
勝つ見込みのない戦争を止めることができず、莫大な人命を犠牲にしたこの無謀な戦争は何であったのかを、改めて考えさせられます。2016年?月まで展示します。
板津さんの思いを代弁しました
<平和資料室へようこそ!2015>
大阪から、四国から、
岐阜の平和資料室が注目されています。
夏のおわりに、遠くから2名の方が平和資料室を訪れました。
『愛媛新聞』記者 亀井咲希さん
9月9日、みかんの産地、四国は愛媛県から若手新聞記者さんが取材にみえました。
愛媛県では松山、宇和島などとともに今治市も空襲を受けています。
『今治空襲を記録する会』の研究者・新田大作さんは、『空襲・戦災を記録する全国研究会』で岐阜とも長年お付き合いのある方です。
「今治にも、岐阜のような平和施設をつくりたい」と、地元で動きがあるそうです。
亀井記者さんは、「市民に支持される平和施設をどのように作っていったか」
「子ども世代に来てもらう工夫はどのように?」など、次々に質問が飛びました。
展示内容やパネルの作り方について、「クォリティ高いですね−!」と感想をいただき、
本職クリエイターのスタッフが大喜びしていました。ぜひ今治でも実現を期待しています!
◆『大阪空襲訴訟を伝える会』 水田隆三さん
太平洋戦争では、東京に次ぐ大空襲を受けた大阪市。
大阪では一般市民が受けた空襲被害について、国に対し訴訟が起こされています。
その訴訟とともに、戦争と空襲の恐ろしさを次世代に伝える取り組みが続けられています。
水田さんは、前月に東京で開催された『空襲・戦災を記録する全国研究会』で岐阜の発表を見て、
9月13日、資料室を訪れました。
「子ども世代に分かりやすい伝え方を、大阪でも取り入れたい」とのこと。
これまで作ってきた企画展、『戦時の子どもたち』や、『中学生』、『お母さんたち』のパネルを熱心に見学されました。
水田さん 「まずは『自分たちの住む地元に、爆弾が落ちた』ことが、身近な戦争を伝えることが子どもたちに伝わりますね」
篠崎先生「入門編でまず地元から始めて、そこから戦争のいろんなことを学んでいってもらえるといいですね」
<レポ:中島>
平和の尊さを改めて--- 岐阜市子ども・若者総合支援センターー
7月7日、中学・小学生さんたちと付き添いさんたち10数名の方が見学にに来られました。岐阜市青年・子ども支援センターの方たちです。
焼夷弾の実物や模型の前で岐阜空襲の狙いや、被害の状況、火に追われ逃げまくった跡に残った遺品の数々の説明に次いで当時の子どもたちの生活。
「神国日本」「撃ちてし止まむ」「欲しがりません勝までは」の合言葉のもとで、好きなことを見つけることもできず迷うことなく兵士の道を目指した時代に驚きの様子、
平和な時代をあらためて感じてくれたようでした。しっかり聞いてくれました。
平和資料室の焼夷弾模型が話題になっています
岐阜市平和資料室オープン前の2000年、岐阜市の江崎模型KKが制作した岐阜市を攻撃したE46集束焼夷弾の模型が、帝国書院の高校日本史の教材『図説 日本史通覧』P283の「本土空襲と敗戦」のページに掲載されました。
また、この春リニュ−アルした「ピースおおさか 大阪国際平和センター」,7月オープンの「愛知・名古屋 戦争に関する資料館」では、岐阜の模型を計測され、それをもとに新しく制作・展示されています。
昨年9月松山市で開かれた、NHKグローバルメディアサービス主催の「戦争と平和展」にも参加して、多くの観客の関心を集めました。
←できあがったばかりの焼夷弾模型
<平和資料室へようこそ!2014>
「こんなもので 火は消せない!」「戦争が終わったとき何を」
〜盲学校中学部のみなさん
岐阜県立盲学校中学部2・1年の生徒さん、引率付き添いの方たち9人が、11月17日資料室を資料室を見学に来てくれました。最初に私たちもと、「戦争や 人の殺し合いを するのではなく 話し合いで 解決できる 世の中になりますように」などメッセージの書かれた折り鶴を千羽鶴の仲間にに加えてくれました
焼夷弾の模型や実物や、熱で溶けかかったカラスビンや野球ボールなど実物に触れながら、また鉄かぶとや防空頭巾も試着してもらい、69年前の戦争の悲惨さや愚かしさを感じてもらいました。
「戦争が終わったときはどんな気持ちでしたか?」「ミヤコの木はどこにあるの?」などの質問も受けました。
これから長い人生を送る人たちです。なぜ、戦争が終わってから69年も一度も戦争をしない時代が続けられたのか、どうしたらそれがこれからも続けられるかを考えるきっかけになればと思います。
生徒さんたちの手作りのクッキーをいただきました。ありがとう。岐阜新聞堀記者のの取材も受けました。
後日、生徒さんさんたちから礼状をいただきました。点字で書かれたものもありました。
◆ 向寒の頃となりましたが、いかがお過ごしでしょうか。
さて、先日はお忙しい僕たちの校外学習のためにお時間をいただきありがとうございました。
僕は実際に実際に焼夷弾の模型や中に入っていた筒を触り、自分で思っていたより精密な構造をしていて、被害がとても大きかったことが分かりました。
篠アさんの話を聞いて、僕は戦争について全く知らない人たちに、戦争は絶対やってはいけないということを伝えていくべきだということが分かちました。
貴重な体験をさせていただきありがとうございました。以下略(TK君)
◆僕は戦争で食べ物がなかったという話を聞いた時、みんなおなかがペコペコだっただろうなと思いました。
もし自分だったら、悲しい気持ちです。
戦争の時、爆弾を作るため鉄を持っていってしまったので、陶器で水筒やアイロンを作っていたことが分かりました。
防空頭巾をかぶって見たときは、鉄の爆弾にはかなわないと思いました。
僕はこれからは戦争がない方がいいと思います。(KT君)
◆岐阜の街を焼いた焼夷弾をさわって、私は大きくて、びっくりしました。そして怖いと思いました。
篠崎さんのお話はとても分かりやすかったです。
陶器のアイロンや水筒も始めてさわりました。われたら危ないと思いました。
戦争はないといいです。(KSさん)
◆僕は、たくさんの人がアメリカの爆弾で亡くなり悲しいと思いました。
陶器のアイロンを使っていました。こわれそうだなと思いました。
戦争は、止めてほしいと思います。
篠崎さんの話はとても分かりやすかったです。
平和資料室はずっとあった方がいいとおもいます。(MY君)
「このころの、3年生さんの平均身長は、118センチでした」
「うわ、小っさーっ!!」 〜三輪北小学校3年生
10月29日、三輪北小学校の3年生さんが、今年も探検バックを持って見学に来てくれました。
平和資料室には、みんなが国語で習っている「ちいちゃんのかげおくり」の資料が、たくさんあります。
「ちいちゃんたちが襲われた空襲(くうしゅう)は、私たちが住む岐阜にもあったんだよ」
焼夷弾(しょういだん/燃える爆弾)や、焼かれてしまった街の写真を見てびっくり。でも、みんなしっかりメモを取っていました。
そのあとは、『戦争をしていた時のこどもたち』のお話。ちょうど今年の企画展示になっています。
「そのころの、3年生さん平均身長は、118センチでしたよ」 「ええーっ、小っさーい!」
「ちいちゃんの、コスプレをしてみましょう」 「わー、可愛いー!」
そのころの子どものたちのミニ体験もして、とても楽しく学習できたひと時でした。
「子どもに伝える工夫、岩倉市も頑張ってます!」
戦争の語り部さんと、市職員さんが来訪 8/19
愛知県岩倉市から、4人の語り部さんと、2名の市職員さんが、平和資料室をにおいでになりました。
見学していた後、それぞれの実践の交流をしました。
子どもたちに参加してもらいながら伝えていく工夫は、岐阜とほとんど同じでした。
◎『戦争の時の子どもたち』展、来年夏は岩倉市で!
岩倉市には、戦争中に空襲などの大きな被害はなかったとか。でも平和を伝える活動を、市が熱心に支援しています。
毎年夏には、図書館など市の施設で『平和展』も開催。
いま平和資料室で公開中の、今年の企画展、『戦争の時の子どもたち』を、皆さんにたいへん気に入っていただきました。
来年の夏は岩倉市に出張して、子どもさんたちに見てもらう予定です。
本巣市”平和な未来”展に、岐阜空襲パネル展示
本巣市は平成24年5月、核兵器廃絶と恒久平和を願い『非核平和都市宣言』行いました。
その具体化として今年は、「しんせいほんの森」でテーマ展示「平和な未来へ」を行っています。岐阜空襲も取り上げられ、岐阜市平和資料室の写真パネルを提供、協力しています。
8月1日より9月1日まで。10時〜18時。月曜休館日。
”欲しがりません 勝までは!” 新しい展示が 始まりました
岐阜市平和資料室今年の企画展は、「戦争の時の子どもたち」がメインテーマです。子ともたちがどのようにして戦争に巻き込まれていったのかを、「神国日本」「撃ちてし止まむ」などの当時のキーワード、教科書、少年兵などで明らかにしています。子どものおもちゃ、泥人形、ゲームなども軍事一色でムードを高めています。そしてそれはどんな結末に。こんな日本に戻してはいけないとの思いで準備しました。
「悲劇をくり返さないように…」
医療を担う、若者たちが来てくれました。07/10 )
岐阜市のみどり病院では、毎年新人研修のひとつとして、平和資料室を見学する学習会を行っています。
今年も、看護師さん、薬剤師さん、介護士さんたちが資料室に来てくれました。
彼らが職場で日々接する高齢者の方々は、戦争の時代を経験しています。
平和学習とともに、地元の歴史を知って、高齢者さんへの理解を深めることにもつながっているそうです。
この日は空襲の悲劇に加えて、当時の市民たちについて、『防空法』という戦時の法律にしばられて
アメリカ軍の火災爆撃から、逃げることも許されなかったことに話がおよびました。
「律儀に法律を守って犠牲になった人たちは、どんな気持ちだったのか…」
「なぜこんな法律や、体制を作ってしまったのか…」
戦争とは何か、人間とは何か、とても深い議論になった学習会でした。
資料室展示を作る若手クリエーターが記事に! 2014年7月9日『中日新聞』
羽島北高・放送部のみなさんが収録に!
★「平和を伝える活動で、番組をつくります」
4月26日、羽島北高校・放送部の皆さんが、平和資料室を訪れました。
目的は、番組づくり。
当会のホームページで『平和講座』の様子を見て、「面白そう!」と思ったとか。
岐阜で起こった空襲や、当会の平和を伝える活動で番組を作り、
今年の夏に行われる、放送コンクールに応募されるそうです。
当日は、資料室の解説とともに、機材を動員して収録。
全員で輪になって、戦時のいろんなお話も聞いていただきました。
さてどんな作品ができるのでしょう。とても楽しみです!
やりました!羽島北高、放送コンクールで岐阜県1位に。→全国大会へ
羽島北高放送部は、当日収録した岐阜空襲を記録する会の活動を編集し、NHK全国放送コンテストに出品しました。
6月7日岐阜県大会で審査が行われ、見事ラジオドキュメント部門で県内1位に入賞しました。直向きに取り組まれた成果です。
8月2,3日 の全国大会への出場も決まりました。一層の健闘を祈ります。
芦屋市の市議会議員さんが視察に
「私たちの町にも、平和資料室をつくりたい!」
4月12日、兵庫県芦屋市から、日本共産党芦屋市議団の議員さんたちが平和資料室を訪れました。
「芦屋市は大都市にはさまれた小さな町ですが、空襲を受けてます。でもそれを伝える施設がまだないのです」
岐阜の平和資料室は、
・市民と行政が協力して造られ、その体制で今も運営されていること。
・取っつきやすく、市民に親しまれている。
などから、お話を聞きにみえました。岐阜市の担当職員さんも同席しました。
当会の篠崎からは、資料室ができるまでの経緯として、以下のようなお話をしました。
・戦時資料や記録を集めることと、市民の側から平和施設をつくる運動を、ほぼ同時進行で進めたこと。
・公設の平和施設の計画は、かなり早い段階に(約20数年前)、党派を超えた市議会の承認を取ったこと。
また展示を見ていただきながら、
・行政が行う平和展示の作り方、・子どもに分かりやすくする方法、・戦時資料の管理保持方法
などを、学芸員の中島がお話ししました。
議員さんたちは、岐阜には焼夷弾実物など、全国的にも貴重な資料がたくさんあることにも感心され、
「芦屋にも資料は残っています。ぜひ後世に伝えていく施設を造ります」
と力強く話してみえました。
四日市から40人の方々が、人権教育の視点から視察に
2月21日、四日市より、市南部ブロック人権教育連絡協議会の方々が、視察研修として平和資料室を訪れました。
研修講師の長谷川博久さんは、元四日市市職員の歴史研究家。40名で、観光バスでの来訪です。
焼夷弾の実物と、集束焼夷弾・実物大模型、そして空襲当日の激戦が分かるパネルの数々に、
「四日市にはここまで詳細なものはまだなく、初めて見ました」と、喜んでいただきました。
実は空襲では、岐阜と四日市は縁があります。
「空襲当日の1945年7月9日は、深夜11時の岐阜空襲の直前、夜8時ごろに米軍は四日市を攻撃していたんです。だから『今日は岐阜には来ないな』と、当時の市民は安心して寝ていた。でもそのあと岐阜に別編隊がやって来て、街ぐるみ燃やされてしまったんです。寝込みを襲われたんですね」
篠崎が説明すると、「妙な縁ですねえ」と皆さんも感慨ぶかげ。
ふだんから人権教育に取り組む皆さんは、戦時の生活と被害が分かる『空襲の遺品』や、
戦時の小学生が『兵士に宛てた激励文』を、熱心に見てみえました。
当時の生活意識や人権意識が読みとれるそうです。
この冬は市内外から多くの大人の見学者さんが、視察や研究として資料室に来ていただきました。
展示をつくる私たちもおおいに勉強になり、励みになったシーズンでした。
瀬戸の研究会が来訪 子どもに見せる工夫の『アート交流』ができました!
2月18日、瀬戸から見学にみえました。『瀬戸地下軍需工場跡を保存する会』の方々です。
戦史研究の仲間として、岐阜の当会とも研究会でよくご一緒する仲です。
同会の寺脇さんが発行する会報は、瀬戸だけでなく東海全域の戦史や聞き取り調査の最新情報を発表されており、広く読まれています。
この日は寺脇さんと、栄木正敏さん房子さんご夫妻が訪れました。
栄木正敏さんは愛知県芸大で陶磁器製作を教える先生であり、ご自身も陶磁器作家。房子さんは元小学校の図画工作の先生。
岐阜で近年とり組んできた、『子どもに分かりやすい戦争解説と展示づくり』に瀬戸でも取り組まれるそうで、公開中の展示にくわえて、過去好評だったパネルも出して見ていただきました。
戦時の風景や子どもを再現するイラスト手法、細かな修正に適した画材、パネル展開やデザインの手法まで、専門分野で意見交換ができました。
イラストレーターの林とパネル制作担当の中島にとっては、美術の先達から貴重なご意見をいただくことができて、大喜びでした。
また『戦災遺品』の展示についても、興味深い意見交換がありました。
篠崎「戦災ガレキの『廃棄物』だったものを、『資料』として見てもらえるようになりました」
栄木「いえ、これは『資料』だけでなく、『アート』として通用します。訴える力がありますから。資料室の、もっと入り口に展示できるといいですね」
瀬戸の皆さんと岐阜の資料室の、ステキな『アート交流』の一日でした。
E46集束焼夷弾模型 今年は鹿児島市へ行ってきました
総務省の委託を受けたNHKグローバルメディアサービス企画・制作・実施の「戦争と平和展」に招かれての長旅でした。
平和展は9月19日〜23日、鹿児島県文化センター宝山ホールで開催され、火山灰の降る中でしたが、多くの市民の皆さんに見てもらえました。
過日、帝国書院よりE46集束焼夷弾を高校日本史副読本に使いたいとの申し込みがあり、岐阜市からその写真を提供しました。
2014年4月から、全国の教室でも見てもらえることになりそうです。
<平和資料室へようこそ!2013>
「次世代へ向けた授業です!」〜 高校の先生たちが見学に。
11月27日、岐阜地区の高校教員・地歴公民部会の研修会に、当会の篠崎が講師として呼ばれました。
岐阜市や各務原市などの高校で、歴史・地理・公民を教える先生たちの研修会です。いわば元高校教諭・篠崎の、後輩にあたる先生約30人が、平和講座を受講し岐阜市平和資料室を見学いただきました。
100分のプログラムは先生たちの希望を取り入れ、このように組みました。
1.岐阜空襲とその被害、戦争直後の復興開始まで
・米軍はどのように岐阜の街を壊滅させたか? ・最新の入手写真の解析結果
・復興が始まった市内の風景。活性化はどこから始まったか?
2.今も残る戦時遺跡
3.戦時の子どもと生徒たち
・戦時の子どもや旧制中学生たちの環境、体格、学校生活。
4.この被害から学ぶべきこと
・何がここまでの被害をもたらしたか。 ・戦争に、子どもまで巻き込んだ、3つの柱。
・時代の変遷から、何を読み取るか?学ぶか?
5.岐阜市平和資料室の見学&解説
・この資料室の問題意識 ・代表的な展示品 〜常設展から
・本年の企画展 ・自由見学&質疑応答
若い先生たちには「岐阜空襲」の話自体が初めての人も多く、熱心にメモを取り、話に聞き入っていました。
平和資料室ではいろいろな資料を感慨深げに見学され、解説が終了すると一斉に拍手がわき起こりました。
終わりに、担当校長の浅井文永先生が、このように御礼を言われました。
「今日は、我々の大先輩の話が聞けました。
生徒たちにどのように教えていくか、授業の方法論として。また研究者としても手本を見せていただけた。
当時の遺品や、地図・写真などの図版資料をどのように解析するか、活用するか。
なにより自分のライフワークに、感情を挟まず冷静に研究して、戦争の残酷さを資料からあぶり出す姿勢。
篠崎先生の長年のご努力と、この資料室の質の高さに敬意を表したい。
我々もそれぞれの授業や研究テーマに、このような姿勢で臨んで成果を上げていきたいと思います」
(レポート:中島)
★「見ごたえがありました」- 富山から、立山遺族会の皆さんが見学に
10月31日、富山県立山町の遺族会から12名の方が見学にみえました。
空襲は富山にもあったため、焼夷弾の実物や今年の企画展『地上での激戦』を真剣にご覧になっていました。岐阜市立の立派な平和施設があることにも感心されていました。
皆さんがもっとも注目したのが、『戦没兵士の遺族』の展示です。
18歳の若さで沖縄にて戦死を遂げた山田博さんの、充兵(招集)証書、死亡通知書と、戦後に出された復興省岐阜地方世話部からの案内書です。扶助料(遺族年金)は打ち切られ、靖国神社の記載もなくなるなど「英霊」とされた戦中から、戦死者は戦後一転しておざなりな扱いに変わり、遺族にとっては残酷な歴史が刻まれています。
70年近く経過しても肉親への思いは募るのでしょう。自らの経験と重ねて話ははずみました。
最後には「いい展示でした」、また若手スタッフには「ご苦労さん、これからもよろしくね」と激励の言葉もいただきました。
★「焼夷弾がまき散らされた!」 新企画展始まる
今年の岐阜市主催「子ども立ちに伝える平和のための資料展」は、7月20日より、「広島・長崎の原爆ポスター展」が事務所前ギャラリーで、「狙われた故郷〜新公開写真から見る空からの攻撃と,地上からの抵抗」(岐阜空襲を記録する会制作)を平和資料室で始めました。
今回は空襲当日の焼夷弾攻撃を受けている瞬間の岐阜市を撮影した米軍のカラー写真や米軍作製地図、岐阜市に配備された高射砲部隊の反撃、防空監視哨や家屋疎開などの行政の対策、市民の防空訓練など68年前に起こった戦争の現実を,その結果と合わせて見ていただけます。
新聞・テレビ・情報誌などにも丁寧に取り上げられ、写真集「岐阜空襲の記録」の無料配布もあり、初日から多くの方でぎわいました。
★「焼夷弾の大きさにびっくり !」
6月19日、日野小学校3年生 の生徒さんと先生あわせて71人が、平和資料室に来てくれました。
大勢なので2組に分かれてもらい、資料室を見学する間、他の組には研修室で岐阜空襲のDVD を観てもらったり、当時の子どもたちの生活を話したり体験してもらいました。焼夷弾や、防空壕に関心が集まり、当時のおもちゃなどの展示品や「ミヤコの木」など活発な質問も受けました。熱心にメモをとる子もいました。スタッフ4人がかりでした。
その後、日野小学校3年こどもさんからきれいに装飾されたお手紙や「やながせ新聞」を送っていただきました。
*むかしみんながかくれた所や水とうを見せてくださってありがとうございました。また、 土・日におかあさんとおとうさんと行きたいです。(Mさん)
*むかし、このぎふにせんそうがおそってきた話や昔のどうぐとかを見せてくれたり、お 話を読んでくださってありがとうございます。せんそうでなくなった人たちを見てかわ いそうだと思いました。また行きたいです。(Sさん)
*きのうは、ぼくたちのためにじゅんびしてくださってありがとうございました。また平 和しりょうかんに行きます。すごく楽しかったです。(Iくん)
*むかしのことをいろいろ教えてくださってありがとうございました。頑張って下さい。 楽しかったです。(Fさん)
*いっぱいかざりを見せてくれてありがとう。うるのつながとるやつとか、いっぱいいっ ぱい岐阜市のどこがこわれたのかくわしく話してくれてありがとう。(Kくん)
<平和資料室へようこそ!2012>
★平和資料室、企画展を展示替えしました
少々季節はずれですが、9月になって恒例の企画展スペースの展示替えをしました。
今回のテーマは『防空』。
1945年、来るべきアメリカ軍の空襲にそなえて
市民と軍(鏡島部隊)がどんな対策と応戦をしたのか、見ていただけます。
実物資料も「防空壕の模型2点」が入り、3年ぶりに展示替えすることができました。
この展示は、2009年に市労連の「平和展」で2日だけ公開したもの。
今回は、見学者の一番多い夏の展示替えができなかったこともあり、
来年の夏に向け、さらに充実した内容の『防空』展を作りたいと考えています。
総務省委託 NHKグローバルメディアサービス企画・制作・実施
平成24年度 戦災と平和展 に3000余人と好評でした
岐阜市平和資料室から E46 集束焼夷弾模型、M47 焼夷弾
岐阜空襲を記録する会から パネル写真を提供しました
と き 9月12日(水)〜16日(日) 午前10時〜午後7時
ところ 新潟県長岡市大手通1−4−10 アオーレ長岡西棟3階 市民交流ホールB.C
若い看護師さんたちが、平和資料室を見学
★7月9日岐阜空襲の日、NHKでも報道されました。
67年前岐阜の街がアメリカ軍に焼き尽くされた当日に当たる7月9日、
平和資料室を『岐阜民医連』の看護師さんなど新採職員さんのが訪問しました。
昨年につづき、若い新任の職員さんたちに、平和の尊さを学んでもらいたいという試みです。
看護師さんたちは、70代前後の戦時を知っている世代の患者さんに接するすることが少なくありません。
しかし20歳前後の彼女たちは、両親や祖父母から戦争体験を聞く、という経験がもうほとんどありません。
そこで『戦時のことはまったく未知』の、学生向けのプログラムでお話ししました。
資料室では、米軍の空襲と、戦時の暮らしを。
また戦争中の子どもや少女たちの様子を、研修室で資料やパワーポイントで見てもらいました。
熱心に話に聞いてくれた看護師さんたち。平和の大切さを知るだけでなく、
患者さんたちをこれからも励ましていかれるだろうと思いました。
見学の様子は、当日夕方のNHKニュースでも報道されました。
若い看護師さんたちが、平和資料室を見学
↑若い看護師さんたち。当会の篠崎が歓迎の挨拶。
↑カメラが見守るなか、米軍空襲の怖さを学びます。
<NHK終戦記念特集>
『丸物の壁』物語がNHKで報道されました。
丸物百貨店は、戦前から岐阜市にあった唯一の百貨店で、まさに岐阜のシンボルでした。
当時はめずらしい鉄筋の建物だったために、空襲にもすすけた姿で焼け残り、
戦後の復興にはきれいに塗り直されて営業を再開しました。
2000年、(当時は近鉄百貨店)ついに取り壊しが決まった際、
空襲被害ですすけた壁の、一部を切り取りました。
最上階の従業員用の階段、踊り場部分の壁だけが、戦後ずっとそのままに残されていたからです。
いま平和資料室に展示されているその壁に、NHK岐阜支局の小川記者が注目し、
終戦記念向けの報道特集を作ってくれました。
『戦前、戦災、戦後の復興までを見まもった丸物の壁』の物語です。
報道は、8月13日(東海北陸全域)、14日(岐阜地方)と2夜に渡って放映され、
多くの反響をいただきました。
報道を見て、平和資料室の存在を知った方も多く、
資料室の展示内容の充実ぶりを、いまさらながらに喜んでいます。
←平和資料室の、一番奥にあるのが『丸物の壁』です。
←建物だけが残った『丸物百貨店』の写真パネル。 カメラも注目です。
<平和資料室へようこそ!2011秋>
祖父母から聞かれた空襲を、熱心に見ていただきました。
◆岐阜子ども劇場のみなさん
『岐阜子ども劇場』のみなさんが秋のイベントとして、9月24日平和資料室の見学に来てくれました。子ども劇場は、生の舞台鑑賞や体験学習を、親子と地域で楽しんでいるNPO法人です。
当日は子どもたち以上にお母さんたちの関心が高く、「おばあちゃんから空襲のことを何度か聞かされた。一度しっかり見てみたかった」という声が多く聞かれました。焼けてしまった繁華街の柳ヶ瀬の写真、掘り出された遺物…。皆さん熱心に見ていかれました。
その後ハートフルの和室で、戦時中の子どもの生活と戦後の復興のお話も聞いていただきました。
<夏休み平和教室:自由研究・お助け隊>のご案内
小学校高学年、中学生のみなさんと戦争と平和について学びました。
◆ 岐阜市柳ヶ瀬(1945年7月) ◆津波の被害を受けた岩手県田老町(加藤宗男さん撮影)
岐阜空襲ビデオ「芽ぶけミヤコよ」の一部と「焦土・岐阜」を見た後 @平和資料室見学と
岐阜空襲とその被害、A戦争中の子どもと学校生活、B戦争にまきこまれた市民と、戦後の復興の三部構成で、実物や映像・パネルなどを使い4人のスタッフで説明しました。夏休みの一研究に岐阜空襲を取りあげることにした小・中学生や父母、一般参加の方など28人が参加されました。この日岐阜市の最高気温は37,7度、全国第2位を記録しました。暑い中、ご苦労様でした。
<こんな感想が寄せられました>
*せんそうの空しゅうの時にどれだけひがいが大きいかが分かったから、戦争をぜったいに起こさないように したいです。(9才 男性)
*広島・長崎ばかりでなく、岐阜でも大きな被害を受けたのを知り、おどろきました。どうしてこんなことになって しまったたのか、どうしたら戦争をなくせるか、夏休みの課題として取り組んでみます。(14才 女性)
*内容豊富だったが、モンペを着せたりが慌ただしく、もう少しじっくり話をしても良いのではと思った。
戦争の話は「ひどい目にあった」という、聞いてる方も滅入るような話が多いけれど、ここでは戦後に 「こうして頑張ったから、今がある」という、復興のプラス思考の話が聞けて良かった。(20才
男性)
*大変勉強になりました。岐阜市がこのような傷を受けた中で復興してきたという事実に、感銘を受けました。
資料をきちんと残していただいたことが、とても貴重でありがたいです。(40代 女性)
*戦災と震災を結びつけ、破壊と復興という現在の課題として取りあげられたのは大変参考になりました。
震災後、私たちの世代ももう少し頑張らないと…。(43才 女性)
*ガレキのひとつひとつに込められている背景に思いをはせるのは、当時の人々の心に寄り添うようでした。
子ども(小4)と同じ話を聞いて、同じものを見れたので、帰ってから少しずつ話をしてみようと思います。
子どものクラスメイトにも、話してくれたら良いと思っています。
今回は小・中学生が少なかったかもしれませんが、来年も是非行っていただきたいと思います。(45才 男性)
*小・中学生にとっては、どういう印象の話だったのだろうか?
私にとってはオビに短し、タスキに長しの感じがしました。(56才 男性)
*1949年生まれで戦争は知りませんが、周りの大人から話を聞いていました。
今日は焼け跡の写真を見せていただき、逃げまわった母たちの思いを想像していました。
二度と戦争に巻き込まれないように、平和について学んでいきたいと思います。(61才 女性)
*具体的に当時のモノを使った説明は、具体的、実際的でよく分かる教室でした。
最後の長崎の少年の写真とお話は、深く心に残りました。(74才 女性)
*出席者が、もっと多くなって欲しいですね。やはり伝えていく事が大切です。そうでないと忘れられてしまう。 各学校でもっと取り上げるべきではないでしょうか?
66年前を思い出しながら、戦争を再びやるようなことがあってはいけないと、強く思いました。(77才 女性)
主催:岐阜空襲を記録する会 後援:岐阜市・岐阜市教育委員会
。
「子どもたちに伝える 平和のための資料展」 終了しました。一部は平和資料室でご覧になれます。
岐阜空襲の記録〜 破壊からの再生〜
空襲の翌10日と11日、非常炊き出しのおにぎりが被災地に届けられた
岐阜空襲はどのように行われたのか? その被害と、焼け跡の廃墟から岐阜市民が立ち上がる様子を写真や当時の新聞、イラストで紹介します。
今年は特に空襲の被災直後の様子を、マンガなどでで再現してお伝えします。岐阜空襲を記録する会が企画・構成し、資料を提供した展示です。
と き 2011年7月19日(火)〜7月29日(金) 午前9時〜午後9時
7月26日(火)は休館日でお休み、29日は午後3時まで
ところ ハートフルスクエアーG 2階(JR岐阜駅東隣接)
<入場無料>
平和資料室では、空襲時の鏡島の高射砲陣地軍の防衛、民間の防空を紹介する新しい展示、「岐阜空襲−市民と兵士はいかに備えたか」を始めました。こちらもご覧ください。
主 催 岐阜市 問合せ:市民参画部市民協働推進課 058-265-4141 内線6175)
岐阜民医連の「平和学校」、平和資料室へ
民医連の新人10人の研修会「平和教室」が、2010年7月11日ハートフルスクエアーの研修室と、岐阜市平和資料室で行われました。
まず、、岐阜空襲を記録する会の篠崎・中島が映像や写真、資料を使い岐阜空襲の経過や被害状況、また直後の復旧に立ち上がった岐阜市民の動きなどを加えて説明した後、平和資料室に移動しました。
資料室では戦時下の厳しいくらしのようすや戦災遺物などを実物を使い説明し、より具体的に理解できるようにしました。
参加者の感想文の一部を紹介します。
*空襲の話は何回か聞いたことはあったが、そこからの復興の様子をはじめて知って、「力強さ」を感じた---。
岐阜の空襲の話を聞いて、自分の地元のこともあり、岐阜を見る目が変わってきた。震災と絡めた話のところがとても興味深かった。---
年少の少年の立ちすくんでいる写真について語る様子に心打たれた。原発と絡んだあの話は、神話がキーワードになっていて、世の中への批判的な見方の重要性を感じた。雰囲気に知らないうちに流されるおとがとても怖いことだと知った。
*原水禁での勉強会で大垣に原爆の模擬爆弾が落とされたことは聞いて知っていましたが、岐阜市やその他の多くの場所で空襲があり、大きな被害が出たことを知りました。空襲直後のこと、その後の復興のことまで知ることができ、とても貴重な時間だったと思います。映像や写真でより身近なことに感じ、自分で本などを読むよりも考えさせられるものになりました。
当時のことを実際に体験した人たちが減る中で、戦争の歴史を伝えていくことは大切なことだと思いました。(Yさん)
*---7月29日の大垣空襲や、8月6日の広島。8月9日の長崎原爆投下は、ポツダム宣言(7月26日)時点で宣言が受け入れられていれば止められた空襲であったこということもはじめて知って、いたたまれない気持ちになりました。空襲後の町並み、復興の様子を生の写真で見られてより理解が深まりました。(Nさん)
*自分の住んでいるところに、過去に空襲があって、今自分が生きているということが、奇跡的なことだと思いました。だからこそ、知らないといけないし、伝えなきゃいけないと感じた。
印象的だったのは、男の子が死んだ弟を背負って焼却の順番をを待っている写真。あの年の子どもがあんな表情をして入ることがすごく悲しくなりました。もう、あんな顔ををする子どもをつくってははいけないなと思いました。竹中さんというお坊さんお話は、すごく感動しました。(Hさん)
*---また、戦争後の 岐阜の復興の写真や話には感動した。人間一人ひとりが多くのものを作ることができる。こわす力ではなくつくる力として復興していったこと、人間のエネルギーを感じることができた。そんな一人ひとりのエネルギーを戦争を通して学んだことをムダにしないよう、今後のわたしの中で何ができるか課題として考えていきたい。(Tさん)
ようこそ平和資料室へ!
羽島市立正木小学校・6年生が社会見学 <2010年11月11日>
正木小学校6年生5クラスの子どもたちが、秋の社会見学に平和資料室を訪ねてくれました。当会では3つの平和講座を用意。空襲のおそろしさと平和の大切さを、岐阜のおとなりの羽島の子どもたちは熱心に、そして元気に学んでいきました。
▲まずはハートフルスクエアGの古田副館長より、子どもたちに歓迎のメーセッジ。
[平和講座@]岐阜市平和資料室の見学
▲実物大の焼夷弾と焼け跡の写真を前に,戦争をしていた時代の話に、聞き入る子どもたち。→米軍の資料とB29の模型。男子も興味しんしん
▲当時の生活用品。陶器でできたアイロンや、お ままごとの道具のような調理器具に、女の子た ちもビックリ!=説明は児童館勤務の加藤まみさん
[平和講座A]DVD『芽ぶけ ミヤコよ』観賞
岐阜空襲の体験が語られる絵本、『芽ぶけミヤコよ』を映像化したものです。ごくふつうの市民が戦争に巻き込まれる様子を見てもらいました。
→「皆さんも私も戦争の体験はありませんが…」 上映の前に絵本を紹介して、子どもたちを65年前の岐阜の町に誘導します。=加藤恵理子さん:映像ソフトクリエイター
[平和講座B]戦争をしていた時代の少年・少女
→戦時中の中学校のお昼休み。お弁当のフタをあけると半分食べられてて持ち主は大ショック。どうして?その後どうなった?
戦争をしていたころの、子どもたちはどんなようすだったのでしょう? 学校生活は?
当時を伝える写真や再現イラストを、パワーポイントで映写して解説しました。=林とも子さん :イラストレーターと中島ゆう子さん:コピーライター(当会学芸員)
※上映資料は、当会がこれまで手がけた企画展、『戦時の子ども』『教科書』『中学生』などの展示パネルや、収集した記録・証言からまとめました。
→終了後、クラス委員さんの司会で 質問や意見を発表します。
「戦争中の子たちは楽しみがなく、女の子はおしゃれもできなくて可哀想だった」
「戦争は、戦場に行かない人まで巻き込まれるから怖い」
「苦しい生活で食べ物もないのに、友だちに分けてあげるなんて偉い。自分もそういう人になりたい」
などなど、素直で素敵な感想を聞かせていただきました。
正木小学校6年生の皆さんの感想です。
いただいた感想文のなかから、一部をご紹介します。
◆平和資料室を見学して◆
空しゅうからのこった物で、熱で曲がったビンやボロボロになった名札を見ました。戦争のおそろしさを感じました。(3組女子)
何の関係のない人まで戦争で亡くなる人が多くて、おまけにぎふの中心地をねらって爆弾を落とすなんて、とてもひどいと思いました。(5組男子)
子どもが兵隊さんにおくった手紙では、「中国人の首をおみやげにして持って来てください」と書かれていて、正直こわくなりました。家の中にある鉄を国にあげたり、たくさんの人々が国につくしていたことが心に残りました。(5組女子)
今、岐阜市は平和都市宣言をして、「もう二度と戦争を起こしたくない」という強い気持ちから、千羽づるをつくったりしていることも分かりました。私も平和を大切にしていきたいです。(2組女子)
空しゅうは何十年もかけてつくりあげた、ほこりある町をいっしゅんで灰にしてなにもかもが消えてしまう。前までは「戦争はこわい」と思っていただけだけど、今は「戦争はいけないんだ」と分かりました。(2組女子)
一番おどろいたのが、その時代の中学一年生の平均身長が141pで、体重が34キロで、植物のつるやくきまで食べていたということです。自分たちはいい生活をしているんだなと感じました。(5組男子)
戦争時代の人々のくらし方がよく分かりました。中学生の人が「20歳くらいまでしか生きられないだろう」と考えていたと思うと、今の私たちはどれだけめぐまれているか考えさせられました。(4組女子)
◆だから僕は、私は、こうしたい!◆
生きたくても生きられなかった人、食べたくても食べられなかった人のことを考えると、すぐに「死」という言葉を口に出すのはしつれいだなと思ったし、食べものを残すのもしつれいだなと思いました。(2組男子)
あばら骨体操の写真を見た時は、とってもびっくりしました。私は好ききらいがはげしいけど、昔の子ども達にとっては白い米も食べれたかどうかなので、しっかりと食していきたいです。(3組女子)
争いが起こるということは、コミュニケーションが取れていないから。 私はコミュニケーションを取るために、一番身近なあいさつからはじめたいです!(1組女子)
私のおじいちゃんおばあちゃんは、戦争でにげたことがあるとききました。おじいちゃんおばあちゃんが生きてくれていたからお母さんお父さんがいる。お母さんなどいたから私が今いきていられる事がきせきだと思いました。(1組女子)
当日のスタッフ
羽島市歴史民俗資料館・企画展 「昔のくらしと道具展−戦争と人々のくらし−」展に、資料を提供しました
同資料館では、子供さんの社会科学習、国語学習、総合学習に活用されることを目標に、企画展として岐阜市空襲や戦時下のくららしを取りあげてています。
空襲コーナーや、当時の茶の間や教室の再現、軍人の服装、当時のままの竹槍、教科書など、見所の多い展示になっています。
岐阜市、岐阜空襲を記録する会は、岐阜空襲パネルや焼夷弾などをお貸ししました。
開催期間 10月9日から12月18日 午前9時〜午後5時(入場は4時30分まで) 休館日:毎週月曜日
入館料:映画資料館と共通 大人300円(団体250円) 小中学生無料
この夏は65年ぶりに発見された、空襲後の岐阜市街の写真で大いに湧きました。発見から美江寺観音の空襲慰霊祭での初公開、また平和資料室の常設展示に登場するまで、広く取りあげていただきました。(新聞で計15回、テレビ1回)
とりわけ平和資料室は、これまでマスコミで報道いただく機会が少なかったのですが、今夏は7月に常設展を新装してから8月終戦記念日ごろまで、大手4紙とほぼ全新聞で報道いただきました。テレビでもニュース特集として伝えてもらいました。おかげで来場者も増えています。
「新聞で知って、始めて来ました」という方によくお会いしました。嬉しい限りです。
今夏の報道記事の一部を紹介します。新聞社や記者さんによって、記事も個性的です。
2010年5月20日 岐阜新聞・社会面(潮見井記者 写真発見の第一報です。)
2010年7月14日 岐阜新聞(永井豪編集委員) 常設展の新装を直後に伝えていただきました。
★永井記者は岐阜新聞の編集委員、論説委員でもある重鎮で、潮見井記者は中堅記者さんで、美江寺観音の空襲犠牲者慰霊祭も取材されました。
岐阜新聞ではこの夏、写真の撮影者・佐藤信次郎さんの記録から空襲や戦争を追う記事を多く特集されました。また永井記者は、佐藤さん宅で「終戦の玉音放送を家族で聞く」貴重な写真も、自ら発掘されています。聞く
2010年8月13日 中日新聞(稲熊美樹記者) 2ページにわたり佐藤さん撮影の写真を計5点、図解つきで、現在の写真とも比較しながら掲載いただきました
*この図解記事は、平和資料室でご覧になれます
★「平和問題はもっとしかり取り組まなくては」と語る猪熊記者は、この夏何度も平和資料室に通っていただきました。記事は終戦記念日を挟んだ4回連載で、新発見写真を図解つきで紹介。佐藤さんのご遺族や美江寺観音の加藤住職さんなど、戦争と平和を伝える人たちの取り組みも伝えていただきました。
2010年8月15日(終戦記念日) 中日新聞(稲熊記者)
2010年8月16日 毎日新聞(石山絵歩記者)
★毎日新聞社には新発見の写真フイルムのパネル化や、パノラマ写真の使用ついて大変便宜を図っていただきました。石山記者には新しい資料室の見所や、来場者の様子を若い人の感性で伝えていただきました。
*ほかに、朝日新聞では『平和資料室の終戦記念日の様子』を。またメーテレは『新発見写真と平和資料室』などの内容で放送いただきました。
多くの報道をいただけたのは65年ぶりの発見があったこともありますが、それ以上に新しい情報と、良質の展示を市民の皆さんが求めていたからではないかと感じています。
毎年夏には、戦争と平和を社会全体で考えていく---、そのためにも毎年夏に向けて、これからも良い展示を作っていくつもりです。当岐阜空襲を記録する会にには、まだまだ未発表の資料がいくつも収集されています。たとえば全国的に貴重な、戦時の行政文書、町内会資料など---。若い世代や子供たちにも関心を持ってもらえるような展示作品に、今後仕上げて行きます。
岐阜市平和資料室常設展スペースは2002年オープン以来のものでしたが、この夏大幅に展示の入れ替えをしました。それは岐阜の丸物百貨店の設計をされた佐藤信次郎さんのご遺族宅で、空襲直後長住町の十六銀行本店から岐阜市内を360度移した10枚のフイルムを見つけることができたからです。
古いフイルムのため、どの写真屋さんでも断られましたが、最終的に毎日新聞名古屋本社でファイル化とプリントできたものです。これまでにない新岐阜周辺の様子が新しいアングルで見ることができます。また30年前に毎日新聞が出版した本に掲載されている、丸物屋上から空襲直後の岐阜市内を撮影したパノマラ写真も、毎日新聞社の許可を得て、はじめてパネルにし展示しました。是非ご覧ください。
なお事務所横の展示スペース、キュービックギャラリーでは8月2日まで、岐阜空襲関連の岐阜空襲を記録する会の写真を使ったパネル展と、うえのたかしさんの自らの体験をもとに制作された岐阜空襲版画展を行いました。
テーマは〈岐阜空襲の調査〉と〈平和を願う長良の人々〉
長良小6年2組の児童たちが見学に
09年11月2日、長良小学校6年2組の児童さんが見学にみえました。
担任の小島伊織先生は、社会科学習のなかで、『平和をねがう長良の人々』という単元をもうけています。7日には当会の篠崎喜樹事務局長(長良小卒業生)を教材に取り上げ、公開授業を行われます。その一環としての平和資料室見学でしたが、その様子を紹介します。
1.篠崎さんのお話 (クラス全員 :中研修室にて)
@小学校5年の時に体験した「岐阜空襲」と、戦前&戦後の学校の 様子。
A記録する会の入手した空襲直前撮影の米軍空撮地図から読みとる、長良の街づくりの特徴と人々の暮らし。
B日本の近現代史での、戦争と平和の時代区分から空襲を考える。 その他
Aでは昭和20年の空襲直前の米軍空撮写真を使い、長良に住む子どもたちに身近な話題を取りあげました。「当時の資料から読みとる」、小学生にはたぶんめずらしい学習でしたが、子どもたちの目は輝いていました。
「校庭に写っている灰色の部分、これは何だと思いますか?」→「○○です!」
小島先生の事前学習の成果か、子どもたちは問いかけにも次々と答えてくれました。
2.平和資料室の案内 (クラスを2班に分けて、↓下記と2交代で)
巨大な焼夷弾模型や、戦災品など〈常設展示〉を、子どもたちはびっくりしながら熱心に見ていました。
溶けたガラス瓶やメガネ、化粧コンパクトなど戦災遺品の数々をさして、
「持ち主だった人たちは空襲で必死に逃げたのです。遺品はものを言わないけれど、焼け残った物から何かを感じてください」の言葉が印象的だったと、あとで小島先生が感想を話してくださいました。
3.戦時中の子どものパネル紹介
@『腹ペコだった子どもたち』(04年) A『戦火の中学生日記』(07年)
これまで平和展に出展したマンガパネルから、子どもに身近なものを抜粋して見てもらいました。 戦争中の中学生の等身大パネル(中一の平均身長)の、背の低さにまずは皆ビックリ!いかに栄養が足りなかったか、熱心にメモを取っていました。
また当時の中学生の『軍事教練』の写真や、学校行事がすべて無くなったマンガ、『お弁当事件』などの絵パネルとお話に、子どもたちは真剣に耳を傾けてくれました。
約2時間の日程を終え、児童を代表してこんな感想をいただきました。
「戦前と戦後で、子どもも大人もずいぶんとまどったと思う」
「これからも戦争のことを知って、平和の大切さを学びたい」
最期に子どもたち全員の元気な声で、御礼をいただきました。
※資料室以外での平和見学・平和のお話は、ホームページ「岐阜平和通信」〈岐阜空襲を記録する会〉の部屋で紹介しています。
(レポート/記録する会:中島裕子)
岐阜市平和資料室の見どころ
JR岐阜駅の改札口(2階)を出てそのまま真っ直ぐに進んだところが 「ートフルスクエアーG」、その一番奥まったところに岐阜市平和資料室がある「岐阜市平和館をつくる会」が10年余り岐阜市に働きかけ、その結果2002年1月オープンに至ったものである。
岐阜市市民協働推進課が管理する無人施設で、展示室110u倉庫10uと手狭ではあるが市民待望の平和施設である。
展示内容は、主に「岐阜市襲と戦時下の市民生活」と「反戦戦僧竹中彰元の裁判記録」など、十五年戦争関係」のものからなる。
入口付近のガラスケースには、平和資料室設置の準備中に、市民へ戦争遺の提供を呼びかけ集められたものの一部、換金されないで紙切れに終わった時国債や飯ごう、軍靴、戦意をあおる携帯用提灯(ちょうちん)や扇子(せんす)などが展示されてる。
中ほどから奥にかけての左側は岐阜市空襲以前、正面から右側には空襲後様子が示されている。防空頭巾(ぼうくうずきん)や火たたき、バケツリレーでそなえる市民にたいして、事前に岐阜市の航空写真や地図を準備し、爆撃範囲や爆撃中心点を決めて計画的に攻撃を行った米軍との対比がおもしろい。
丸物百貨店屋上から岐阜市西方を撮った正面の合成写真を始め各所の焼けを写した写真は、被害のすさまじさをリアルに物語っている。
特筆すべきは、1997年に岐阜市空襲の焼け土や瓦礫を盛り上げて作られ岐阜駅西陸橋が取り壊された際、52年ぶりに市民の手で発掘した大量の戦災遺品である。溶けたガラスビンや変色した焼瓦や眼鏡、コンパクト、ボタンどが、タイムカプセルから取り出されたままのように展示されており、圧倒れる。
また、1999年閉店取り壊しの際に切り取ることのできた近鉄百貨店(当丸物百貨店)の8階おどり場の戦災壁が、当時のままの黒いすす着いた状態展示されている。
オリジナルのE46集束焼夷弾の実物大の複製模型やM47100ポンド焼夷爆弾、風船爆弾の50分の1模型への関心は高く、他県の平和展からの借用申し込みや問い合わせがかかる。
また、当時の代用品や戦色あふれる玩具など当時の暮らしを示す多様な品々が、ラスケースに所狭しと展示してあるにのもここの特徴である。「シナ人(中人)の首を取って土産(みやげ)に持って帰ってください」と書かれた子どもの慰問文ど、ひとつひとつが戦争の時代の重みを物語っている。
日中戦争開戦の年、「これ以上の戦争は、侵略だ」と訴え有罪判決を受け明泉寺住職竹中彰元の岐阜地裁の「予審終結決定」、師の言動を「非違なきとしてゆるやかな判決を求める檀家(だんか)の「嘆願書(たんがんしょ)」などの展示は異色であり、見ごたえがある。
「岐阜県下の空襲」「焦土:岐阜」「『芽ぶけミヤコよ』より」など岐阜空を記録する会制作の岐阜空襲のビデオも見ることができる。
常設展以外にも「青い目の人形」「風船爆弾」「岐阜県下の空襲」などの特別展も定期的に行っている。
JR岐阜駅改札口から1分という立地の良さもあって、施設内の研修室やステージをって「平和展」「原爆展」「講演会」「平和コンサート」などがリンクして開れるようになった。また、小・中学校の戦跡巡りや資料調査に利用され、平学習の拠点として機能し始めている。平和資料室・友の会活発も軌道に乗り、特別展の開設、平和施設の見学会や学習会、講演会を催している。
岐阜市平和資料室
500-8521 岐阜市橋本町1-10-23 ハートフルスクエアーG Tel 058-268-1050
交通=東海道線JR岐阜駅下車 改札口からそのまま直進1分
開館=午前9時〜午後9時 休館は12月29日〜1月3日、最終火曜日
入場料=無料
岐阜市平和資料室開設の経過とその後
1,岐阜市平和資料室開設までの経過
(1)「岐阜空襲を記録する会」の発足(1974.)
「資料の永久保存などを目指す資料館の建設---」
「岐阜県下の空襲により県民が受けた惨禍と戦時下の生活を県民の手で記録して、これを現代に問いかけ、さらに後世に伝え、再びこのような歴史を繰り返させないように、真の平和を築く一つの力となること---」(規約第三条)
対県・対市交渉、調査・記録活動、「体験を語る会」・「空襲展」の開催、ニュースの発行、書籍の出版、スライド・パネル・ビデオの作成と貸し出し
(2)岐阜市議会が、「岐阜市平和都市宣言」を決議(1988.6)
岐阜市非核都市宣言請願署名運動(1983.7〜84.2)
「岐阜市非核都市宣言をめざす運動推進センター」(記録する会が事務局)
呼びかけ人325人、請願署名27.471人提出
「常設展示場---を市当局や議会に要求し、---」 市議会は「比較都市宣言請願」を22対25で否決するも、2年後上記「岐阜市平和都市宣言」を決議した。
(3)平和都市として何をするのか
岐阜市は年間500万〜700万円の「平和都市宣言啓発事業費」を予算化する
野村容子議員が平和資料館の設置を、蒔田・淺野市長に繰り返し迫る
岐阜教組ら7団体が「平和施策に関する要望書」を市長に提出(1992.6.6)
(4)「岐阜市平和館をつくる会」を発足(1993.4.25)
コープぎふ、母親連絡会、平和遺族会など24団体で署名運動、市長交渉など
市側は 「平和資料館は早い時期に実現したい。資料の収集、発掘は時期を失すると滅失するので、平成5年から収集を行う」(1992.9)
「50周年をめどに、館を前提とした資料収集を平成5年度より」(1993.2.20)
「戦争・戦災資料収集に関する委員会」をスタートさせ(1993.9.3)、95年7月までに329点の資料を市民から収集し、岐阜市歴史博物館で保管。行政視察として「ピースおおさか」「国際平和ミュージアム」見学
つくる会も 「平和ミュージアム見学の旅」(93.6 43名参加)
「岐阜の戦争遺跡」の刊行(93.8 2000部 知事・市長などから推薦文)
「'94 ぎふ平和展−50年前は戦争だった」(94.8.11〜15 岐阜市文化センター入場者3225人 パンフ4000部)
「市民平和講座」(94.1〜7 6回開催)
「子らに伝えよう−ぎふ戦争と平和展−」(95.8.4〜8 中日新聞共催 近鉄百貨店 入場者1.800人)
「岐阜空襲の夕べ」(随時)
「ミス岐阜と青い目の人形−日米人形交流展−」(96.9.27〜10.3)岐阜高島屋 入場者13.000人)
「空襲・戦災を記録する会 第28回全国連絡会議 岐阜大会」(98.7.19〜20) グランヴェール岐山など 191人
(5)実現に向けて
「平和資料室」を四次総に位置づける(96.3月議会)
「国際交流」の部分に、「本誌は昭和63年に『平和都市宣言』を行いましたが世界に目を向けると平和を脅かす様々な出来事が起こっており、平和に対する認識を新たにする必要があります。戦争体験者が減少し、戦争に対する認識が風化しつつある今、戦争という悲劇を繰り返さないためにも、戦争について学び、平和の尊さを認識する必要があります」として「平和意識の高揚と展示機能の充実=人類にとって永遠のテーマである平和意識の高揚を計るため飢餓、環境破壊をはじめとする種々の視点から資料展示を通じ、広く啓蒙活動を行います」と位置づけ、所管を市教委文化課から総合企画部文化行政推進室へ移す。(96.4)
*岐阜市主催平和展「子供たちへ伝える平和のための資料展」に協力
「岐阜空襲」96.7.9〜30 「戦時下のクラシ」(8.5〜30)」
以後開設まで4回開催
* 岐阜駅西陸橋取り壊しに伴う戦災遺物の発掘(97.3.27 7.26 8.13)
*市は「市民文化活動拠点施設整備基本構想(案)をいったんは策定(98.3)
市民会館改築後の施設の2階中央図書館の一角に、約135uの「平和資料室」を配置 →中止
2,「平和資料室」オープン(2002.1.26) ハートフルスクエアーG
*展示室110u 倉庫10u 文化生涯学習課所管
*岐阜市空襲と戦時下の市民生活をテーマにした展示(常設展)
左手−空襲以前=防空、戦意高揚、米軍の偵察と空爆準備、焼夷弾
正面−岐阜市の焼け跡パノラマ写真、空襲遺物
奥の平台−岐阜市焼失地帯を示すジオラマ
手前の平台−空襲遺物(発掘品)
右手−空襲以後=焼け跡、バラック生活
ガラスケース−防空用品、子供玩具、代用品、雑誌、グラフ
ほかに竹中彰元(反戦僧)、サイパン玉砕の郷土部隊、軍隊生活など
空襲を記録する会制作ビデオ随時上映
*午前9時から午後9時まで開館、休館日は月1回(最後の火曜日)
*無人、監視ビデオ
*4月より「ハートフルスクエアーG」を「岐阜市教育文化振興事業団」へ民間委託するが、「平和資料室」だけは文化生涯学習課(今の市民協働推進課)の所管
*展示品の製作・管理、見学者へのガイドを「つくる会」「友の会」のメンバーが必要により随時行う
<特別展>
「岐阜から戦争の時代に関係した人々」(02.1.26〜3.31*)
1周年特別展「青い目の人形展」(03.1.25〜2.5)*
「戦時中の教科書」(04.8)*
「戦争中のお母さんは、大いそが−大日本婦人会岐阜支部の活動−」*
(06.7.9〜07.7.20)
「反戦を貫いた僧 竹中彰元」(08.7.19〜09.7)*
「子供たちに伝える平和のための資料展」(岐阜市主催96以降毎年7月開催)
「広島平和資料室からのメッセージ」(02.7.5〜159
「岐阜でつくった風船爆弾」(03.7.9〜22)*
「開戦、戦中の暮らし、そして空襲」(05.7.9〜31)*
「長崎原爆特別資料展」(06.7.22〜30)*
「学校もたいへんだった−戦火の中学生日記-」(07.7.22〜8.5)*
「サダコと折り鶴」展(08.7.19〜8.9) (*はは会製作)
<アンケートの反応> (2004.5までの常設展 875通)
*興味をそそられる 88.9% 普通 7.9% 興味を持てなかった 1.4%
*よくわかった 65.7% 多少わかった 25.9% わかりにくい 2.2%
*説明の必要はない 9.2% 文字説明がほしい 38.8% スタッフの説明が ほしい 36.3%
*印象に残った展示物=戦災遺物、焼け跡の写真、焼夷弾、丸物の壁、米軍作製の地図、竹中彰元の裁判記録、遺言書、陶器の焼夷弾---
3,「岐阜市平和資料室・友の会」の発足(2004.12.23) 会員 128(08.8現在)
04年 スタート集会(12.23) 山辺昌彦氏 52名
05年 立命館大学国際平和ミュージアム見学バスツアー(5.29)24名
「平和の鐘」運動に提案
「岐阜も戦場だった−岐阜・各務原・大垣−」出版(7.1) 2000部
特別展「開戦、戦中の暮らし、そして空襲」(05.7.9〜31)
「岐阜空襲60周年のつどい」(7.9)木戸季市氏 76名
「岐阜空襲60周年記念講演」(7.28)早乙女勝元氏 170名
第2回総会 (12.17) 近藤一氏 40名
06年「平和ほのぼのツアー」(6.4) 平和文化資料館ゆきのした、雨森芳州庵、渡岸寺、丸岡城 32名
「語り継ぐ、岐阜市が火の海になった日」(7.9) 所史隆氏、青木総一郎氏
特別展「戦争中のお母さんは、大いそがし〜大日本婦人会岐阜支部の活 動を中心に〜」(7.9〜)
第3回総会(12.10)@音楽紙芝居「ハマユウの咲くころ」
Aお話「戦時下の岐阜の中学生たち」 31名
07年「平和ほのぼのツアー3」(5.26)横井庄一記念館
戦争と平和の資料館ピースあいち40名
「07’岐阜空襲の夕べ」(7.7) 山本詢子さん 鈴木頼恭さん47名
「子どもたちへ伝える平和のための資料展−学校もたいへんだった 戦火 の中学生日記」7月22日〜8月5日
「特別展協賛講演会」(7.27)佐藤明夫さん 32名
第4回総会(12.8)@李徳林さんの二胡演奏
A大東仁さん「平和への願い 竹中彰元とともに」40名
08年「平和ほのぼのツアー3」(5.25)舞鶴引揚記念館 浮島丸殉難碑 妙楽寺)
「08’岐阜空襲の夕べ」(7.9)鈴木頼恭さんパート2「私の憲法9条」35
特別展「反戦を貫いた僧 竹中彰元」7.19〜 市は「サダコと折り鶴」展
「特別展協賛講演会」(8.10)大東仁さん「竹中彰元とともにパート2」50
第4回総会(12.6予定)金子力さん「模擬原爆パンプキンを追う」
4,今後の課題
(1) 行政・所轄課との関係の位置づけ
(2)スタッフの常駐
(3)資料提供の扱い
(4)学校や諸活動への働きかけ
(5)戦争の経緯や犯罪性、侵略・加害側面の扱い、平和学習の入門の場
(6)「つくる会」と「友の会」のあり方→「友の会」へ一本化
( 篠崎 喜樹 2008.11作成)
岐阜市平和資料室・友の会 第5回"12月のつどい”で 金子力さんの記念講演
NHKテレビ「その時歴史が動いた」「ETV特集」に登場
08年12月6日(土)ハートフルスクエアーG 中研修室で開かれた第5回「12月のつどい」の記念講演は、「模擬原爆パンプキンを追う」と題した金子力さん(春日井戦争を記録する会)にお願いしました。金子さん達はは米軍資料から原爆模擬爆弾を使った投下訓練が行われていたことを発見し、1991年「5d爆弾を投下せよ」で発表して以来知られることとなりましたが、今年あらためてNHKテレビ「その時歴史が動いた」と「ETV特集」でとりあげられた。
放映後のテレビモニターによれば、5段階評価で前者が4.2、後者が4.5と好評、こうした事実を「知らなかった」という感想が大半だったと言う。金子さんは、「あらためて話題になっていることは嬉しい」を語っていました。プロジェクトを使って写真を示しながら、分かりやすく説明していただきました。30名あまりの参加でした。以下講演の要旨です。
米軍資料の謎を解くことで新発見
中学の教師である金子さんは、平和学習で広島・長崎を学んだ後の生徒の結論に、「広島に生まれなくってよかった」とあり、戦争はよそで起こったこととしてしかとらえられていないことに気づき、春日井にもにも戦争があったことを掘り起こし、知らせることの必要性を通感じ、研究に手をつけた。
軍需都市春日井での空襲被害は5回に及ぶが、注目したのが終戦前日の8月14日の4ヵ所への大型爆弾の投下。しかし、全国339回に及ぶ米軍の通常の空襲報告書に春日井は入っていない。被害があるのに記録がないのはなぜか。調べていくと原爆投下作戦を特別任務とする509混成群団の存在、それによる50発の原爆模擬爆弾の投下訓練の実施、その中に14日の春日井空襲を見つけ出した。
14日の春日井空襲が1万ポンド(約5d)4発による原爆投下訓練であったことが判明した。だが、なぜ終戦前日だったのかの新たな疑問が発生。これについては、この長崎に投下されたファットマンと同型で同重量の1万ポンドパンプキン爆弾の通常兵器としての効果を試すためのものであったことも明らかにした。
その後も金子さん達は投下された50発のパンプキン爆弾投下地を追跡して全国に調査に入り、調査ネットを広げ発掘を続けた。その結果多くのことが明らかになったが、原爆の犠牲者が投下訓練だけで約400人、氏名の分かった285人が新たに判明したのもその一つである。
地域にこだわる研究が全国の記録を書き換える
これにより今まで1d爆弾による空襲で死者20人、重傷者100人と言われてきた大垣の7月24日の犠牲も、原爆投下のためのものであったことに書きあらためられが、伝聞をあらためて検証して、事実を正確に記録して残すのとの大切さを教えられました。最後に金子さんは、これまで事実の発見が遅れたのは原爆の研究者と空襲の研究者が違っていたため見過ごされてきたためであること、地元の地域にこだわることで全国の不確実なものが明らかになり、それが広島・長崎につながったこと、まだまだほかに知られないことが多いのではないかとまとめられました。
、
岐阜市平和資料室特別展」公開中
お坊さんは
「戦争はもう止めなさい」と言った。
そして警察につれていかれた。
反戦を貫いた僧 竹中 彰元
岐阜市平和資料室・友の会は2004「国民学校の教科書」、05年「岐阜県内の空襲」、06年「お母さんは大いそがし」、07年は岐阜市の「子どもたちへ伝える平和のための資料展−戦火の中学生日記−」に協力してきました。今年は、昨年07秋真宗大谷派主催の「竹中彰元師 復権顕彰大会」で名誉回復し、また「12月のつどい」でも大東仁氏の記念講演で取り上げられた竹中師をひろく市民に知ってもらうための特別企画展です。平和資料室内での展示となり、7月19日(土)オープンしました。
{展示内容}
展示は3部構成とし、
第1部は、陸軍刑法で有罪判決を受けた師の反戦言動、思想、受けた処罰、またその時代背景
第2部は、師の出生から2つの大学を卒業し全国布教師となるなどエリートコースを歩んだころの活動
第3部は、昨年の復権大会と名誉回復に至った経過
を取り上げ、戦時下、戦局が厳しくなる中で時代に迎合せず、信念を通し戦争の犯罪性と愚かしさをを主張した師の生涯を紹介します。また、真宗大谷派名古屋教区教化センターや大垣教務所などの協力を得て、宗門の全面的な戦争協力の姿とし、そこで反戦を唱えた彰元さん勇気ある行動を紹介しています。
(竹中彰元 師)
彰元さんの本が出版されました
「戦争は罪悪である−反戦僧侶・竹中彰元の叛骨」
第一章 真宗大谷派僧侶 竹中彰元
第二章 反戦僧侶 竹中彰元
第三章 わたしたちと竹中彰元
著者:大東 仁 出版:風媒社
定価:本体1200円+税
「戦争は罪悪である−竹中彰元師 復権顕彰記念誌−」
巻頭資料
第1部 戦争の時代と平和の願い
第2部 竹中彰元師 復権顕彰大会
巻末資料
発行 真宗大谷派大垣教務所
頒価 600円
”反戦を貫いた僧 竹中彰元」展 記念講演
楽しくて、よく分かる記念講演でした 「竹中彰元とともに パート2」
話す人 大東 仁さん
大東さんは真宗大谷派圓光寺住職で、大学卒論で大谷派の戦争協力を研究中竹中彰元師を知り、掘り起こし研究を深め、世に広げた、彰元研究の第一人者です 。この夏、彰元さんの本を出版されます。
”楽しくて、よく分かる記念講演”とキャッチフレーズのついた大東さんの講演は、63年目の終戦記念日を直前にした8月10日、ハートフルスクエアーG
中研修室で開催されました。50人の参加でした。
昨年12月のパート1に続くもので、前回の事件中心のお話に続き、今回は彰元さんの人となりや彰元さんをとりまく人たちについて、「大東のフィルター」を通しての分析と前置きされて話されました。お話の概要は次のようです。
1,学問好き、新しいもの好み、裕福ではなかった
幕末に生まれ、明治新時代の激動の続く1886(明治18)年に明泉寺住職になるが向学心旺盛でじっとしておれず、経済的には苦労しながらも大谷派本山の「夏安居」を9年聴講、哲学館(いまの東洋大)、真宗大学(大谷大学)、さらには軍隊・監獄布教のための「教導講習会」などに学び、本山布教師としてエリートコースを進む。日清・日露戦争時には真宗大谷派や他の僧侶と同様、戦争協力に対する疑問・批判は全くなかったと思われる。旅順陥落を祝い、「皆万歳と言い 皇城を拝す」という漢詩を書いている事からも伺える。当時の彰元は反戦僧ではなく年に4〜ヵ月北陸・関西を中心に説教して回っている大谷派のエリート僧であったが、本来の真宗の僧ではなかった。
2,訴えたのは村人ではなく村のお坊さん
1937(昭和12)年9月15日の「戦争は罪悪だ、人類に対する敵である、止めた方が賢明である」と言われた村人は、「もうろくしている」「やつけてやるからな」と「痛罵難詰」しながらも警察に届けることはしないで彰元を守っている。一方10月10日の法要の席での「戦争は罪悪だ、これ以上の戦争は侵略だ」の発言にその場では僧侶たちは何も言わずに穏やかだったが、その後2人の僧侶が密告して事件になった。本山や国に忠実で、戦争協力を美徳とし任務としていた僧侶たちには、村人とは違い、看過できない問題だったのだと思われる。
3,村人の感覚と国際的視野を合わせ持つ
檀家の息子の出征を心配したことが反戦行動をするきっかけになったといい、戦争は予算浪費だとか損だとか、普通お坊さんが言わない損得を問題にし普通の村のおじいちゃんレベルで反戦をいう一方、排日・侮日の中国を懲らしめる「聖戦」としているものを「侵略」と言いきり、沢山な彼我(敵も含めて)生命を奪うものと主張する村のおじいちゃんを捨ててしまう国際的視野の持ち主でもあった。
彰元の死の直前の1945年8月戦争は決着がついた。「おじいちゃんの言うとおりになったね」という孫娘に、「うふふ」と笑ったという。一番大事なのは家族だったのではないか。
新興仏教青年同盟委員長を務め治安維持法で逮捕され、戦後知恩院管長や東海高校校長を務めた林霊法さんが1948年頃明泉寺を訪ねていることを知った。また桐生悠々(名古屋在住反戦ジャーナリスト
)、植木徹誠(伊勢市の反戦僧)、河野法雲(神祇不拝の笠松出身大谷大学学長)などとの接触の可能性が考えられるので調べてみたい。
主催・岐阜市平和資料室・友の会 協賛 全岐阜生活協同組合連合会
2008年「岐阜空襲の夕べ」においでください
頼恭先生の平和授業 パート2 「私の憲法9条」
だまされた少年時代の20年を取り戻し、120才まで生きて憲法を守りたいという先生のお話をもう一度お聞きします。
と き 7月9日(水) 午後7時〜
ところ ハートフルスクエアーG 中研修室
入場無料
主催:岐阜市平和資料室・友の会 協賛:全岐阜県生活協同組合連合会
”平和交流ほのぼのツアー4”
平和への願い:舞鶴引揚記念館・二十四面千手観音などに訪れました
好評の初夏の平和探訪ツアー、4回目になる今年は5月25日(日)舞鶴引揚記念館をメインに、浮島丸殉難の碑、小浜妙楽寺などを巡るバス旅行を行いました。前日からの雨が朝方にかけて降り止まず心配しましたが、舞鶴到着の頃にはあがり、日本海の展望も開けて一同ほっとしました。2名の取り消しがあり33名の参加でした。
参加者の集合が早く、JR岐阜駅じゅうろくプラザ前を 8時出発予定時間より早く出発、多賀SA、熊川宿で休憩し、一路舞鶴へ向けての長旅でしたが、参加者の自己紹介、岩井弘光さんの浮島丸についての説明などをお聞きしているうちに予定通りに着きました。
少し早めですが舞鶴で評判の農村レストランふるるFARMで昼食をとりました。地元産の安心 ・安全な食材を使った豊富な自然食メニューを、バイキングでいただきます。味もよく何度も皿をいっぱいにして、みなさん満足そう。
ゆっくり食事時間をとったあとは海岸線をドライブし浮島丸殉難碑へ。戦直後の1945年8月24日、朝鮮から強制連行で連れてこられた人達とその家族数千人を乗せて青森から釜山港へ向かう旧海軍輸送船浮島丸が、なぜか舞鶴に入港、爆発・沈没し、少なくとも525人が死亡したもよう。当時の新聞は一切記事にせず、その後も政府は原因調査すらしておらず、疑惑に包まれたまままのこの事件を消さないための記念碑です。毎年8月24日帰国を果たせなかった犠牲者を偲び追悼集会が開かれており、今もなお政府に対し損害賠償請求訴訟が続いている浮島丸事件を学びました。
次いで向かったのは舞鶴引揚記念館、旧ソ連、中国などから13年間に約67万人の引き揚げ者を受け入れた地に1988 (昭和63)年に開館し、今も見学者で賑わっています。。特にシベリア抑留者の生活、引き揚げの経過などが豊富な資料で展示されています。ボランテイアガイドの方の丁寧な説明もうけました。展望広場からは引揚桟橋など舞鶴湾内が一望できました。4年前ここから満州引き揚げ漫画家の描いたマンガをお借りし展示したことも懐かしく思い出されました。
最後に何かと話題の小浜市で、若狭観音霊場巡りの筆頭にあげられる妙楽寺を訪ねました。ご住職のわかりやすい説明をお聞きし、平安中期の珍しい二十四面千手観音像(重文)などの諸仏と厨子(重文)を間近から拝観できました。戦乱の時代をいくつものりこえ、今も静かな山中にひっそりと歴史をきざみ続ける仏たち、その存在価値を改めて感じました。小さいながらしっとりと安定感のある檜皮葺の鎌倉時代の本堂(重文)、それに美しい音色の梵鐘や幽寂な参道に心やすらぎました。
岐路は途中海遊バザール千鳥園でおみやげを買ったりしながら、予定どおりの18時30分頃じゅうろくプラザ前へ帰着しました。
岐阜市平和資料室・友の会 第4回"12月のつどい"開催されました
第1部の総会は、岐阜市生涯学習室長の白木隆さんから「平和の尊さを絶えずはぐくむことが必要」との来賓挨拶を受けた後、活動報告、会計・監査報告、来年度計画、役員選出などが提案され、原案通り採択されました。
第2部は岐阜大学の中国語講師の李徳林さんの二胡演奏、北国の春、チャングムの誓いノテーマソング、収穫の歌、雪中に咲く梅をたたえる曲など心が癒やされる美しい曲の数々に、しばらく聴き惚れていました。
第3部は忘れられていた反戦僧竹中彰元を学生時代から取り組み、世に知らせ、今年の11月大谷派本山から処分の取り消しと謝罪を行わせるきっかけをひらいた真宗大谷派圓光寺住職の「平和への願い 竹中彰元とともに」と題した大東仁さんの講演。以下その要約です。
1,日中戦争が始まると、従軍僧侶として銃を撃ったのもいれば、占領地に寺院を建て宣撫したりお坊さんたちはあらゆる形で戦争協力をしたことに関心を持ち、調べてきた。12月13日南京で開かれる南京事件70周年の学術フォーラムでそれを発表することになっている。
2,竹中彰元は真宗大谷派のエリートだった。2つの大学を卒業し、大学卒を対象に布教のプロを育てるための教導講習会(1年)で学び全国布教師の資格を得る。日露戦争の旅順陥落時には「皆万歳を唱え 皇城を拝す」と漢詩を読んでいるほど、もともと戦争を否定する人ではなかった。組織のエリートになったその頃の彰元は戦争に協力する真宗大谷派に忠実な僧で、本来の浄土真宗の教えに背いていた。
3,なぜその彰元が1937年、本来の仏教に変わったのか。@お寺の檀家役員の息子が出征していったこと、A新聞をしっかり読む人で、ルーズベルトの「隔離宣言」が出され、日本の侵略への批判を受け止めるだけの国際的な視野や判断力を持っていたこと、B不殺生を「彼(敵国人)我の生命を奪い」と深くとらえていたこと、C云えば損得をいう僧としての評判を落とすのを顧みず、「この戦争は損である」と、相手に損得で理解しやすく語っているなど、「大乗的立場」に立って云わなければならないことを云う確信犯だった。
さらに質問に答え、今まで知られなかった岐阜地方裁判所の判決は1938年3月12日に出され、「禁固4月」の実刑判決だった。彰元はこれに不服で控訴し、名古屋控訴院で執行猶予を勝ち取っている。治安維持法違反でなく、陸軍刑法違反として扱われたのは、大谷派の戦争協力への評価と、地域のの混乱動揺を警戒したからとされた。わかりやすく、ユーモァーを加えた語り口にぐいぐい引き込まれていきました。30名の参加でした。
と き 12月9日(日)午後2時30分〜 ところ ハートフルスクエアーG 中研修室
「復権顕彰大会」
真宗大谷派は真宗大谷派(東本願寺)は、10月19日(金)不破郡垂井町の明泉寺で、竹中彰元師の名誉回復のための「復権顕彰大会」を開き、「処分を下したこと自体が、宗派が犯した大きな過ちであります」と「復権・顕彰に関する宗派声明」を発表しました。処分から69年ぶりのことです。
竹中師は日中戦争が始まった1937年「戦争は罪悪である」「これ以上の戦争は、侵略だ」などと発言、旧陸軍刑法で有罪判決を受け、真宗大谷派も全国布教師資格を剥奪し、軽停班という処分をくだしていたのです。
この竹中彰元師を掘り起こし、最初に「反戦を訴えた僧侶」として紹介したのが今回の講師、一宮市圓光寺住職の大東仁さんです。名古屋別院の平和展にも取り組んでおられ、仏教と平和問題に深く通じておられる方です。お話が楽しみです。
平和資料室では、オープン以来竹中師についての展示を常設で行っています。
竹中彰元のページご覧ください
”07’夏の企画”をおこないました。
好評だった春の平和バスツアー、充実した一日を送ることができました。、引き続き今年の夏の企画を実施しました。平和資料室の発展・充実のため、友の会の活動会員の皆さまの一層のご協力をお願いいたします。
4,特別展に協賛して、佐藤明夫さんの講演会が開かれました。
と き 7月27日(金) 午後6時30分〜 (午後6時 受付開始)
ところ ハートフルスクエアーG 2階中研修室 入場無料
内 容 「少年・少女たちの戦争〜勤労動員〜」
講師 佐藤明夫さん(半田空襲と戦争を記録する会)
佐藤さんは大垣市に生まれ、戦時中には岐阜一中に通い、戦後は愛知県立高校の社会科教師。愛知県史の編纂委員を務め、地域戦争史や、とりわけ学徒動員については東海地方屈指の研究家です。
岐阜市、岐阜市教育委員会から後援をいただきました。
佐藤さんはB4用紙4枚のレジュメを用意され、1時間40分にわたり、資料にもとづき整理された内容をわかりやすく話されました。
まずご自分の体験から、小学校-国民学校時代を「熱狂的信念、集団訓練、自発的従属」が植え付けられた時代とし、その結果予科練など14才からの少年兵動員に生徒たちを競って応募させた「集団ヒステリー」の中で戦争に協力・加担された状況を導入とされました。
ついで、「極めつきの戦争協力」として学徒勤労動員を取り上げ、「奉仕から動員へ」拡大強化されていった経過、半田に動員された岐阜師範学校女子部や青年師範学校女子部生徒の様子、さらには全国的な動員の実態や犠牲(全国の動員中の学徒死者数約1万2千〜4千人)とりわけ多かった愛知の様子を具体的に説明されました。
最後に、こうした悲惨な状況の中で、で動員学徒が生きることより死を考えたり、文学書に耽ったり、サボタージュ、不服従、批判、反抗、ストライキ、集団脱走など様々な抵抗があったことにふれられ、「厭戦的敗戦的感情の萌芽」と治安当局(特高)に言わしめた事態を説明された。
そして、高校生にボランティアを義務づける東京都教委の姿勢について、ボランティアと強制動員の関係について注意する必要があるのではと結ばれました。
3,「学校もたいへんだった−戦火の中学生日記」終了しました。
”子どもたちに伝える平和のための資料展”
と き 7月22日(日)〜8月5日(日) 午前9時〜午後9時(31日休館日)
会 場 ハートフルスクエアーG 平和資料室前展示コーナー 入場無料
「軍事教練」「勤労動員」「学徒出陣」---
かつてこの国が戦争をしていたころ、少年たちは勉強をやめて、大人と同じように働き、また兵士となって戦場に向かいました。そして戦争が負けて終わると、今度はこれまでと正反対のことを教えられたのです。
展示は、@戦時中の学校は、きびしかった、A戦火が学校にもやってきた、B戦後、少年たちのとまどいと苦しみの3部構成からなり、それぞれの学校生活を、少年たちの心の動きを追いながら、手作りの楽しいマンガパネル約30枚と、当時の資料約70点で再現しています。
好評のため、引き続き第1部を平和資料室内で展示しています。
第2部以下は順次入れ替え展示していきます。
アンケートより=会場でアンケートをいただいておりますが、その一部
回答数 100 資料展の印象は? 興味をひかれた94 普通6 興味が持てなかった0
展示内容はよく分かりましたか よくわかった87 多少わかった11 わかりにくい2
*実物を使って、とても分かりやすく説明していた。文章だけは少し分かるけど、各展示品に一人スタッフを立たせるともっとよい。(11才男性
*当時の中学生の思いや言葉が書かれた展示がよかった。(14才女性)
*少年兵のつらさや、国民の生活、空襲の様子がとても詳しく分かった。焼夷弾や爆げきの写真がすごかった。 展示会をこれからもやってほしい。(14才女性)
*昨年とはまた違っていてよかった。戦争を経験したことが少なくなるなか、過去にこんなことがあったということを、今もっと若い人々に伝えて
いかなければと思う。(16才女性)
*岐阜高校に行っていたわたしとしては、岐中の制服や訓練の様子、空襲後の学校は衝撃でした。話で聞くのと見るのでは違い、見に来てよ かったです。もっとたくさん現代の人に知っていただきたいことです。(19才女性)
*戦争の悲惨さを肌で感じました。今、現代の世界を見てみたとき、今でも紛争で戦争下にいる人がいることに心が痛みます。一刻も早く平和 な世の中になることを願います。歴史がそれを教えてくれました。(21才男性)
*当時の生徒の日記や、戦争を実際に経験された方の思いを知ることができました。学校で習わないことや、今日初めて知ったことがたくさん ありました。今の子どもたちにも是非知ってもらいたいと思いました。(21才女性)
*私は戦争は実体験がないので分かりません。しかい、このような企画や色々なお話を聞くことで、戦争の悲惨さ、平和の大切さを知ることが できます。これを子どもたちに伝えていくことによって、世界平和が実現できる世の中になってほしいです。(21才男性)
*子どもたちが必死に生きてきたんだということが手記から伝わって。とりわけ日記は強く驚きました。戦争を経験していない私さえ、戦争の恐 怖、二度とくりかえしてはならないと思いました。こういった展示等を通し、次世代へ訴えていかなければならないと思いました。(21才女性)
*戦時下の中学生の日記が印象に残りました。小学校の教員を志す者として、何のために教育をするのか、子どもにどう成長してもらいたい かを、深く考えさせられる内容でした。(23才男子)
*川崎航空機工場のエピソード。勇気ある大人がいたことに感謝の気持ちを持ちました。60年前の平和を願う気持ちが今薄らいで、また逆 行しようとしている現実があります。戦争を体験された方はもっと声を大にして、平和の大切さを訴えてほしいと思いました。(31才女性)
*当時の子どもの様子に心が締め付けられました。また戦争をしようとしている日本をくいとめるために、展示は有効だと思いました。またど んどん平和のために資料展を続けてください。(38才女性)
*マンガが多用されて、わかりやすかったし、またコミカルで明るい平和展でした。(41才女性)
*60年以上前の戦争時代の資料を見ると隔世の感があります。パネルによってそれが自分に引き寄せられて考えられるようになっています 。本来守られなければならない子どもたちを動員した日本の戦争、二度とあってはいけないことだと思います。(45才女性)
*学校で教師が変わってしまったこと。「戦争に負けたこと以上に、大人の節操のなさに驚いた」という部分が、一番端的に表れていると思う。 つまり、国家の意思で学校も操作されていたことがよくわかる。(47才男性)
*このような企画展を市が行われることに敬意を表します。子どもたちにももっと見てもらいたいですね。巡回展も行ってはどうでしょうか。(54 才男性)
*こういう展示会を催すのも、人・金の面で大変だと思います。平和の大切さを先々まで伝えて行かなくてはならないと思います。スタッフのみ な様のご努力に敬意を表します。(62才男性)
*5歳の時に引き揚げてきました。今の時代、昔に戻る危うさにこうしては居られない!!という思いと、この企画展をみんなに知らせなければと 思っています。たくさんの資料見ごたえがありました。(67才女性)
*14才の少年戦士たちの写真は、いま見れば胸せまる思い。あどけない顔に、日本を護る想いが伝わる。(76才女性)
*戦災を経験しました私にとって、当時をそのままに伝えようとする努力をしてくださっていることに感謝します。(75才女性)
*展示全体に大きな感動を覚えました。(77才男性)
2,平和の鐘:「平和都市宣言」をした岐阜市の、平和を願う事業に協力しました
7月9日(月)8:30から、権現山時鐘楼前で「平和の鐘」開催。体験談を聞いた後、岐阜市長、来賓、伊奈波中学生徒代表の打鐘、伊奈波中学3年生による「平和メッセージ」や合唱が行われます。市内の130寺院、教会でも9時から一斉に平和の鐘が鳴り響きました。
「岐北・九条の会」では、今年も西郷小野の立法寺で、”忘れんともまい岐阜空襲−平和の鐘を撞き、岐阜空襲の話を聞こう−”を開きました。
1,[いい会だった」と評判、岐阜空襲の夕べ
と き 7月7日(土) 午後7時〜 (午後6時30分 受付開始)
ところ ハートフルスクエアーG 2階中研修室 入場無料
七夕の日、そして日中戦争が本格化した蘆溝橋事件70周年の日、岐阜と姫路の空襲体験を聞く会に55人が参加しました。20才前後の若者の時代に翻弄されながら必死に生きた体験に聞き入っていました。終わってから何人もの人が、「いい会だった」と感想を述べていました。
NHKテレビが取材、この日の夕方放映されました。
第一部 「岐阜空襲の話」 山本 詢子さん(当時京町国民学校教師)
昭和19年岐阜女子師範本科2年になると学徒動員が実施され、学校へ行かず岐阜駅の西南にあった川崎分工場で飛行機の胴体組み立て作業についた。正月も、元旦しか休めなかった。
昭和20年4月、18才で京町国民学校の1年の担任になった。空襲警報が頻繁に発せられ、その度に授業中止、集団下校となり落ち着かなかった。内科検診のさなか警報になり、集団下校を遅らせないように子どもに服を着せるのにパニックになったが、他の先生の加勢で何とかしのげた。
7月9日は警戒警報で午後9時ころ家を出て、真っ暗な道を登校した。ラジオが「四日市攻撃中」というので今日は無事と帰宅の準備をしているとき、突然あたりが青白い光で包まれ、向かいの家も浮かびあがった。西隣の官舎も炎と煙で燃え上がる。誰かの「逃げろ」の声に、きょとんとした。逃げるという考えは全くなかったから。
B29の爆音、ザーという焼夷弾の落下音、その中を東の山に向かって逃げた。「若い者が逃げるのか!」と街角に立つ警防団の人に怒られたりもした。そのうち焼夷弾の音で落下が近いか遠いかが聞き分けられるようになっていた。鶯谷の真っ暗な道のない山を、ひとりぼっちになって登り夜を明かした。
奉安殿は無傷だったが、校舎は全焼していた。普通の火事場とは違う。平面的、柱は焼け尽き、赤茶けた瓦が地面に一面に、へっちゃけたという感じで並んでいた。近くの質屋の蔵、丸物百貨店の窓から赤い火が吹き出ていた。10日間臨時休業。我が家も焼けてしまい、北方の知人の離れに引っ越した。家具はきれいに盗まれていた。
西別院の塔頭の本堂を借りたが、授業にはならない。食糧難で運動もさせられない。校舎が建ったのは年が明けてから。机・椅子、教科書は新聞紙様で各自が裁断製本するのだがホチキスもなく仕上げられない。チョークもないので水を使った。10教室なので3部授業になったが、教室があるのは嬉しかった。弁当泥棒に注意するのに胸が痛んだ。平和時にはないしらみ・のみをとるため毎日子どもを残した。
2〜3時間の破壊だったが、取り返すには長い時間が掛かった。戦争の愚かしさを経験したはずなのに、九条改悪、靖国など最近はおかしくなってきた。残念に思う。
第二部 「平和でこそ天守は輝く〜不発弾処理をして元将校の話〜」 鈴木 頼恭さん(岐阜9条の会・呼びかけ人)
中学で5年、専門学校で3年軍事訓練を受け、繰り上げ卒業だったが、速成の兵士が育てられていた。甲種幹部候補生を昭和20年6月卒業し、20才で陸軍見習将校に就任、姫路へ。下士官2人、兵10人をつれて不発弾処理の訓練を3〜4日受けて現場へ動員された。相生空襲に出動。石川島播磨造船所で1d。500`、250`爆弾の1〜2割は不発弾。地面から引き抜いて寝かせ、スパナで信管を外す仕事だ。始めの1〜2発が大変だったが、なれると平気になれた。あとは船を借りて海に捨てた。海中で爆発させ、魚を漁師に捕らせたこともあった。
7月3日が姫路空襲。その夜は週番司令で連隊本部で宿直任務に就いていた。姫路の街が攻撃され、姫路城内にある連隊は本部は消火し無事だったが、兵舎などは全焼した。幸い姫路城は残った。部隊内、姫路駅などの不発弾処理をしていたが、連絡が来て姫路城へ行く。城内にも不発弾があちこちに。分担をして天守閣へ上ると、5つある南側の窓の右から2つめの窓を破り、床の上に100ポンド焼夷弾がが転がっている。信管を外そうとしたが見たことのない新型のもの。爆発させてはいけないので、担いで下ろすより仕方ないと2人で45sを運び出し、外へ出て処理をした。今日でも一番人気のある国宝姫路城天守閣は、不発弾で救われた。犬死に覚悟の不発弾処理部隊だったが、お役に立てたよう。終戦後もしばらくは20人ほどが不発弾処理の仕事を頼まれ、復員が遅れた。
瀬戸内海へ投げ捨てた不発弾が気になる。中国や南太平洋、フィリピンなど侵略地でも戦後処理は終わっていない。白骨や毒ガス弾・不発弾がそのまま放置されている。集団的自衛権をいうなら、自衛隊を使って掃除をし、現地で謝罪うぃしてからにしたらどうだろう。戦後はまだ終わっていない。
岐阜市平和資料室・友の会 「平和交流ほのぼのツアー3」 盛会でした
恒例になった、春の岐阜市平和資料室・友の会「平和バスツアー」、40名が参加されました。
5月26日(土) 前日とうって変わり快晴に恵まれ、大型バスで予定通り8時30分出発しました。当日2名欠席は残念でしたt。
岐阜駅元ぱるる前出発(8:30)→横井庄一記念館(10:40−12:10)→戦争と平和の資料館(11:20−12:30)
→ランチ(13:15−14:00)→徳川美術館・徳川園(14:30−16:30)→岐阜へ
横井庄一記念館:名古屋市中川区富田町に、昨年5月オープンしました。
30年近くグアム島の山中で頑張った横井さんの生活ぶりが再現され、帰国後陶芸や書 で活躍された作品などが展示されており、奥様の横井美保子さんが、丁寧に説明してくださ いました。
戦争と平和の資料館ピースあいち:名古屋市名東区よもぎ台に、今年5月4日オープンしました。
館長の野間美喜子さんから歓迎の挨拶をいただき、またスタッフの方からオープンまでの経過などの説明を受けた後、時間まで自由に自由に見学しました。
2階が、メインになっており、@愛知県下の空襲、A戦争の全体像(十五年戦争)、B戦時下の暮らし、C民間戦災被害者などを取り上げた”終わらない戦争”という柱立てで、充実した内容でした。また1階では”現代の戦争と平和”、3階では”象列車がやってきた” 展が行われていました。しっかり見るには、時間不足でした。近くにこのように立派な平和資料館ができ、心強く思います。
。
徳川美術館・徳川園(名古屋市東区徳川町)
バスの中で、岐阜歴史教育研究会長の所史隆さんから御三家筆頭の尾張藩についての説明を聞きながら徳川美術館に到着、遅めの昼食をとった後、常設展と特別展「尾張の殿様物語」、そして徳川園を時間をかけて見ることができました。 徳川家康の遺産をもとに、さすが尾張徳川家の刀・甲冑・茶道具など格式の高い品々を鑑賞することができました。
参加の皆さんも満ち足りた表情、帰ってからも「よかった」と電話や、手紙をいただきました。また4名の方が友の会に加入されました。
[岐阜市平和資料室・友の会:12月のつどい]開催されました
”ぼくらの青春は戦争だった−戦時下の、中学生たちのお話−”
第1部の総会は、岐阜市生涯学習室長の川瀬雅夫さんの来賓挨拶を受けた後、活動報告、会計・監査報告、来年度計画、役員選出などが提案され、原案通り採択されました。
第2部は小沢みさ子さんの心打つエレクトーンの伴奏と、黒田芳子さんの巧みな語りにより、戦争に翻弄される人たちを描いた上野芙美さんの絵本が紙芝居になって、絵本の立体的に再現されました。
続いて、太平洋戦争のころの中学生は、教室で勉強をすることはできませんでした---とても「青春」とは呼べない日々から、敗戦を迎え、正反対の価値観を教えらとまどった戦後---多感なな時期を必死に生きた当時の中学生たちの様子を、3人の話し手に語っていただきました。
と き 12月10日(日)午後1時30分〜
ところ ハートフルスクエアーG 大研修室
午後1時30分〜 岐阜市平和資料室・友の会総会--- 来年度の計画などを検討、どなたでも自由にご参加ください
午後1時50分頃〜 音楽紙芝居「ハマユウの咲くころ」
絵:上野芙美さん 語り:黒田芳子さん キーボード演奏: 小沢みさ子さん
午後2時20分頃〜 お話「戦時下の岐阜の中学生たち」
話し手:長野良一さん 国安昌平さん 高木滋興さん
(いずれも太平洋戦争下の旧制中学校に通い、現在は当時の資 料収集や研究・出版をされている方々をお呼びしました。)
同日、午後0時30分〜 岐阜市平和資料室平和資料室、展示説明会を行いました。
訪れた方から「スタッフによる展示説明がほしい」との御意見を多くいただきました。この機会に常設展と本年度特別展「戦争中のお母さんは大いそかし」の展示説明を行いました。
来年夏の岐阜市主催「子どもたちに伝える 平和のための資料展」には、友の会も協力して「戦時下の青春・岐阜の中学生たち」(仮称)を計画しています。中学生の他にも高等科、青年学校、師範学校などの「学徒」の資料や情報提供など、ご協力をお願いします。
好評です!
平和資料室(ハートフルスクエアーG)で特別展
”戦争中のお母さんは、大いそがし”〜大日本婦人会岐阜支部の活動を中心に〜
7月9日(日)からはじまりました 入場無料
勤労奉仕に貯蓄割り当て、そして質素倹約運動に慰問袋作り、防火訓練などに駆けまわった戦時中の女性たちの生活を、梅林・金華校区の町内会や婦人会の貴重な資料とアニメパネルを使い紹介します。
軍国の母、大日本婦人会
貯蓄ノルマを達成せよ
おしゃれはダメよ!!
歓呼で送り、無言で迎える
抜け毛を集めよ!袖を切っておむつを作れ!
”男のいうことなど聞いていてはダメ” などオリジナル展示です
アンケートから
.「お母さんは大忙し」女性の立場から見た展示は珍しいので、戦争中は大変だったこ とがよく分かる。集金のノルマがすごいと思った。43女
.「お母さんは大忙し」拝見しました。髪の毛は何に使われたのでしょう?48女
.「お母さんは大忙し」の展示は見やすく、内容的にも優れたものです。考えさせられ ました。54男
.「お母さんは大忙し」で女性が家計まで収奪されていく様子がよく分かった。東条英機の義嫁=清子さんの手紙等の資料は、当時の様子がよく分かるので大切な資料であ る。58男
平和資料室アンケート(2006.4〜9)まとめました
岐阜空襲の夕べ「語り継ぐ、岐阜市が火の海になった日」
岐阜市街地の74%焼き尽くし、約900人の市民の尊い命を奪った岐阜市空襲から61年の7月9日(日)午後6時30分から、ハートフルスクエアーG 大研修室で、岐阜市平和資料室・友の会は「岐阜空襲の夕べ」を開催し、体験者と研究者の報告を中心に、その夜を再現しました。
第1部 講演「米軍資料からみた岐阜空襲」 報告者 所 史隆さん(岐阜県歴史教育協議会会長、大垣北高教諭)
所さんは「第21爆撃集団 作戦任務報告書」を分析し、岐阜空襲を米軍側から多方面から明らかにしました。
米軍の本土空襲作戦の位置づけや経過の説明に続き、岐阜空襲の目的として@各務原から疎開し部品工場となっている繊維工場の破壊、Aその従業員2500人の住居をの破壊、B東海道線の主要駅岐阜駅の攻撃があげられていることを指摘、つづいてB29の経路、被害状況などの説明のあと、綿密な事前調査や、飛行ルートに潜水艦や海難救助艇などを配備するなど、日本の特攻精神などと違い兵士の命を重視ししていること、敢闘精神とは違う科学的合理的精神のもとに作戦が組み立てられているとまとめられました。
第2部 空襲体験を聞く 語り手 青木総一郎さん(82歳 元高校校長)
当時名古屋工専(今の名工大)の学生で21歳、岐阜市元宮町1丁目で被災。周辺の安全 地帯をめざし逃げた人が多い中で、家を守りるため居残り、火の海に取り残された貴重な体験を語っていただきました。
当時の青年の生活や社会の状況を丁寧に語られたあと空襲体験の話に入り、類焼を防ぐためみんなで協力し二階建ての板壁に注水しその建物を反対側へ倒し家を守ったこと、その家に焼夷弾の鉄のおもりが屋根を突き破り床下まで落下し、危うく命を失う
所だったこと、翌朝人形を抱えたまま亡くなっている子供や、顔が丸焼けになった女性など悲惨な情景を話され、戦争の愚かしさと、この地球上からあらゆる核兵器が消滅することが日本人の悲願だと訴えられました。
その後参加者の質問・感想のコーナーでは、米軍の爆撃中心点と「包囲火災」戦術との矛盾、その時の風向き、町内会が髪の抜け毛を集め目的などが出されました。約70名の参加で盛会でした。
7月9日「平和の鐘」、全市に響く
岐阜市が平和事業として行っている「平和の鐘」は、今年で17回目になります。
7月9日午前9時、空襲犠牲者の追悼と平和への思いを込めて岐阜市内の130の寺院・教会の鐘が一斉に鳴り響きました。また、防災行政無線を通じて、平和への願いを込めた時鐘楼の鐘の音が、全市に流されました。今年は日曜日ということもあり、いくつかの寺院では鳴鐘の後、
主会場の権現山時鐘楼での、伊奈波中学3年生156名が参加する催しは、直前の激しい雨で中止になりました。
広がる「平和の鐘」と催し---鐘を撞いた後、「体験を聞く会」などいろいろの催しが行われました。
「平和の鐘をつきましょう」 長良 真福禅寺 7月9日(日) 午前9時から
紙芝居 空襲体験のお話 岐阜空襲の版画展 イラク写真展 主催 新婦人長良東班
「忘れんとこまい 岐阜空襲!-平和の鐘を撞き、岐阜空襲の話を聞こう」
西郷小野 正法寺 7月9日(日) 午後1時から鐘楼に昇り一人づつ鐘を突いたあと、本堂 で 岐阜空襲のビデオを見たり、空襲体験や戦時下の暮らしを聞きました。約40人の参加でした。 岐北・九条の会
半鐘を鳴らす人たち−岐阜市矢島町 現正寺
岐阜市矢島町 現正寺でも午前9時、時鐘楼の鐘に合わせて9時から7人で半鐘を叩きました。ここでは61周年ということで61回ならします。年々増えて行きます。周辺にはお寺が多く、高く低く競うように鳴り響きました。
岐阜市平和資料室:友の会
「平和交流ほのぼのツアー」に32名参加
友の会2回目平和の旅を「平和交流ほのぼのツアー」は、晴天に恵まれた6月4日(日)、予定通りの充実した旅となりました。
午前7時45分、中型バスとワゴン車に32名が分乗し出発、参加者の自己紹介の間に、10時半丸岡城へ到着しました。丸岡城は現存する最古の天守閣、岐阜城のモデルとなった国の重要文化財指定の天守閣、一同木造の急な階段を3階屋上にあがりました。「一筆啓上 おせん泣かすな馬肥やせ」記念碑も人気です。
ついでメインの「平和文化資料館ゆきのした」へ。田島伸浩館長の出迎えと丁寧な説明を受けて、行政の設置する岐阜市平和資料室と違う民間の手になるユニークな展示や運営について学びました。資料に埋まりそうな元工場跡の常設の展示館を中心に、平和や文化の地域活動を発信を続ける役割の大切さを、あらためて知らされました。
「越前竹人形の里」での筍料理の昼食後は、湖北の雨森芳州庵を訪ねました。鎖国下の日朝交流に功績を残した芳州の生家跡に建てられたひっそりとした資料館、彼の業績を残す資料等の展示もさることながら、郷土の偉人を顕彰しながらの村あげての町づくり、日韓高校生同士の現地交流などを説明したスライドに感激しました。招かれた高校生は民家にホームステイをし何日かをともに過ごし、別れ際には涙ながらに再会を約束する感動的な場面、歴史認識問題で揺れる国レベルのものと異なった民間外交、芳州の思いが実っていると感じました。
門限ぎりぎりに飛び込んだ渡岸寺、国宝の十一面観音像を丁寧なガイドを受けながら拝観しました。バスの中もビデオやゲームで盛り上がり、テーマ通り文化と平和、交流に満たされた一日となりました。
小.中学生の平和資料室見学続く
学校からの平和資料室の見学つづいています。今年に入っても1月26日午前則武小学校約80人、午后木ノ本小学校6年生約48人、2月8日には岐阜聾学校中学部3年9人が来館しました。普通はハートフルスクエアーGの事務所の協力を得て、研修室などでプロジェクターを使い、平和館をつくる会会制作の岐阜空襲ビデオ「芽ぶけミヤコよ」(35分)などを観てから、資料室を見学します。多い場合にはグループに分けておこないます。希望によって会でガイドをしたり、資料を提供しています。
平和学習や総合学習に大変役に立つ施設と考えています。一層活用されることを願っています。
木ノ本小学校から昨年見学した6年生の見学感想文が会に寄せられましたので、一部を紹介します。
平和資料室見学で思ったこと
私は、見学に行く前は、他人事だと思っていました。でも、資料室やビデオを見せてもらってるうちに、これからも戦争のことを勉強して、これからの世界を正していかないといけないなと思いました。
びっくりした事は、死者と負傷者の多さです。今ではありえないことなのですごく怖いなあと思いました。岐阜空襲は、よっぽどひどかったんだと分かりました。
これからは「非核3原則を日本だけでなく世界にも広めたいし、日本も「平和主義」を守っていってほしいです。(MSさん)
平和のために
2月15日、「平和資料室」へ息ました。そこには痛々しい戦争のあとが残されていました。当時のおもちゃ、本、めがねなど、古めかしく、なにか分からないものまで置いてありました。最初に私の目をひいたのは、50分の1のサイズの風船爆弾でした。日本がゆいいつ、アメリカを攻められた武器でした。それで亡くなったアメリカ人は6人。ほとんど効果もないことが分かりました。
その次ぎにアメリカが落としていった爆弾を見つけました。こんな大きいものを、合計14.608発も落とされたと知り、岐阜が火の海になったのも分かりました。
子どものおもちゃを見てみると、日本の兵隊の人形や外国の兵隊を殺そうとしている兵隊などがあり、戦争は大人だけでなく、子どもにまで影響していることを知り悲しくなりました。
日本の代表者が戦争することを決めたら、日本人、全員が戦争をやらされたり被害にあってしまったのだと、少しの人のせいで、多くの人が亡くなったり、けがをしたりしたことは本当に反省したいです。今は、国民主権になって国民が決める政治になったので、平和な世界になってほしいです。(KMさん)
平和資料室へ行って
私は、初めて平和資料室へ行き、平和について関心を寄せました。
今までは、あまり平和について興味は無かったけれど、平和資料室にあった昔の戦争の資料や戦争のあとに見つかった、当時使われていた日用品を見て戦争の恐ろしさをあらためて知りました。
特にガラスケースに入っていた、メガネやコンパクトなどボロボロの日用品を見ていると、戦争の激しさがそのまま伝わって来るようでした。(中略)
ビデオでも、家族が亡くなった人達や家をなくした人達のことを考えると、私達はとてもしあわせだと思いました。
初めて見るものばかりだったし、戦争の恐ろしさが伝わってくる物ばかりで、戦争について学ぶことができました。
これからも時間があれば、戦争について学習したいです。(INさん)
戦争について
5.6時間目にハートフルスクエアーGに行きました。そこにつくと、2月なのにあせが出るほどでした。
最初に、篠崎さんの話を聞きました。戦争中のことを聞いて、私は計14.608発も爆弾が落とされたなんてびっくりしました。ほかにもびくりしたことは、昔の人は、コンパクトの中のパフが使えなくなったら新聞紙を使っていたということと、空襲の高熱でビンも溶けていたということです。ビンのことを見ると、爆弾という物は、とても恐ろしいとしみじみ思いました。
戦争中の子供のおもちゃだって、戦争に関わるものばっかで少し怖いと思いました。
その後ビデオを見ました。家族もみんな死ぬことや、町や家がすべて爆弾によって破壊されたことはすごく悲しい悲しいと思います。うすいふとんにミズをつけ、それを頭からかぶっても、すぐに水がお湯になるくらい高熱だといっていて、やっぱりすごくあつかったんだと思いました。
昔の人は、よくこの試練を乗り越えたなあと思いました。日本はもう戦争をしないと決めたけど、ほかの国はまだ今でも戦争をしているところがあると思います。なぜ、戦争をするのだろう。争うより話し合いが一番なのにと、時々思います。(UTさん)
平和資料室へ行って思ったこと
平和資料室へ行って、当時のことを教えてもらいました。私たちはまず、昔の物や服装を見てまわりました。私は見た時すごく今の自分たちの生活とちがうことに改めて感じました。私は特に、その当時のお金や釘が溶けてひっついれいるのを見て、その時いた人々がどれだけ熱いと思い、苦しくて、「もっと生きたかった」と思った時なのかが少し分かるようでした。 その当時の戦争中が目の前n写るようでした。
今は、科学が進んで、日本の大勢の人が死ぬことはなくなったけど、北朝鮮では核兵器を作っている。
北朝鮮も何人も人を亡くしたのに、なぜまた人を殺す武器を作るのだろう。人を傷つけてどんな意味があるのだろう。世界のみんなが幸せに暮らせるようになってほしいと思いました。(KTさん)
岐阜市平和資料室友の会・総会開催されました
岐阜市平和資料室友の会が結成されて1年、それに戦後60周年ということもあり、会は様々な活動を行ってきました。そのまとめと、来年の活動を検討するための総会、及び元兵士近藤一氏の記念講演を計画しました。振るってご参加ください。
と き 12月17日(土) 午後6時30分〜8時45分
ところ ハートフルスクエアーG 中研修室
内 容 総会(経過報告、会計報告、来年度計画、申し合わせの変更、役員選出など、提案通りに可決さ れました)
記念講演 講師 近藤 一さん(元帝国陸軍歩兵第13大隊 伍長)
「元日本兵が語る、二つの激戦地〜中国と沖縄地上戦」
近藤さんは中国山西省で初年兵教育を受けながら中国戦線を経験し,沖縄南部戦線では1200名の部隊中中95%が戦死、ご自身も重傷を負いながらも奇跡的に生還され、現在85歳。
二つの激戦地での日本兵の貴重な体験を聞ききました。
「中国で人間を虫けらのように扱った日本兵は、沖縄では住民とともに本土を守る捨て石にされ、虫けらのように捨てられました。戦争 とは被害にしろ加害にしろ人を苦しめます。沖縄や中国で死んだ兵 士を犬死にに終わらせないためにも、戦争 士の真実を知ってほしいのです。」
近藤さんの証言は、内海愛子・石田米子・加藤修弘さん たちによってまとめられ、今年1月「ある日本兵の二つの戦
場」(社会評論社)として出版されています。当日18冊、販 売しました。(2800円+税)
ご希望の方は当会までご注文ください。
会員以外の方も含めて、38名の参加でした。
早乙女勝元さんを迎え
「子どもたちに伝える平和のための資料展協賛 記念講演」 盛会でした
と き 7月28日(木)13:30から
ところ ハートフルスクエアーG 大研修室
講演 「いのちと平和の尊さを」
講師 早乙女 勝元氏(作家、東京大空襲・戦災資料センター館長)
ビデオ 人形アニメ「おかあちゃんごめんね」(26分)早乙女勝元氏原作
早乙女氏は開会前、会場となりの岐阜市平和資料室をのぞかれ、「いい場所にある。駅に来た人、出てくる人が1年中寄れる場所。分けてもらいたいよい資料がいっぱいある」と感想を講演の中で触れておられました。170名の参加でした。
主催 岐阜市平和資料室友の会・岐阜市平和館をつくる会 Tel058−246−7273
子供たちへ伝える平和のための戦争展 終了しました
ハートフルスクエアーG 2階 平和資料室
7月9日(土)〜31日(日) 午前9時〜午後9時(26日は休館)
「敗戦、戦中のくらし、そして空襲」と副題が付けられましたが、まず目にはいるのが開戦時の国民学校の教室のイメージ、子供たちが戦争に巻き込まれていくようすが、パネルなどでうかがえます。
岐阜市歴史博物館所蔵の戦時下のくらしを考えさせる展示のあとは、今年特に各務原市、大垣市の空襲に関する資料を、岐阜市のものと比較して展示を行っています。各務原爆撃に使われた1トン爆弾や250kg爆弾、大垣に投下された焼夷弾などが迫力をもって迫ってきます。
また最近アメリカ国立公文書館から入手した岐阜空襲の一ヶ月前に空撮された岐阜市の写真も展示されまいた。道路疎開のあとが鮮やかに撮され、公会堂(いまの市民会館の位置)の屋上に設置され不気味な警報を伝えていたサイレンまで確認できるほどの精密な写真です。
子ども向けのイラスト入りの説明パネルも展示され、見やすくなっています。
また、うえのたかしさんの幼い頃の岐阜空襲の記憶から制作した版画「炎の記憶」、上野芙美さんの体験を書き上げた絵本「ハマユウの咲くころ」の原画も展示され話題となっています。
国民学校の教室イメージ
市歴史博物館所蔵品の展示
1トン爆弾模型の展示
付属小6年生の皆さん(7月20日)
3市の空襲の比較
岐阜空襲の夜「岐阜空襲60周年の夕べ」盛会でした
と き 7月9日(土)18:30〜
ところ ハートフルスクエアーG 中研修室
講演 「あの日、あの夜から、戦後60年を考える」
講師 木戸 季市氏(岐阜聖徳学園大学短期大学部名誉教授・ 岐阜被爆者の会事務局長)
ビデオ 60周年新版「岐阜県下の空襲」(30分)「焦土;岐阜」(4分)
まず、長崎原爆被爆者である木戸さんは、10m以上吹き飛ばされ気を失っていたとあの日の体験から話をはじめられました。被爆者の受けた犠牲の大きさに対してのアメリカ政府および日本政府の責任を国際法や国際司法裁判所の「勧告的意見」にふれてあきらかにされました。
ついで、戦後60年を考える前に、戦争を繰り返した戦前60年を見直した上で、日本国憲法と日米安保条約、高度経済成長からバブルそしてその崩壊と戦後日本社会の特徴に触れながら、戦争の出てこない時代を強調されました。
さらに、部落問題は解決したとしてその現状や問題点、「弓矢裁判」「人権擁護法案」、憲法9条擁護など目の前にある具体的な課題を的確に指摘されました。15枚にもおよぶ貴重な資料も準備されており、時間不足が惜しまれました。73人の参加,「岐阜も戦場だった」も41冊買ってもらいました。
主催 岐阜市平和資料室友の会・岐阜市平和館をつくる会 Tel058−246−7273
岐阜空襲60周年特別出版 7月2日から自由書房、三省堂書店などで発売しています。
「岐阜も『戦場』だった−岐阜・各務原・大垣−」 をどうぞ
岐阜県歴史教育者協議会:岐阜市平和資料室友の会共同出版
A4版 57n 頒価1.000円(税込み)
未発表の写真や証言、分かりやすい資料などを使い、岐阜県下の空襲をの実態や
戦災遺跡を紹介しています。
11名の執筆者中1人をのぞいては戦後生まれの社会科教師。戦争を知らない世代が
継承者になって、語り継ごうとしています。
また、これまでに「岐阜空襲誌」などを出版して20年近くなり、その間に入手した米軍
資料など新資料を使うなど話題になっています。
早乙女勝元さん(作家)、松田之利さん(岐阜大学名誉教授)、 岐阜市教育長の安藤征治さんも推薦文を寄せてくれました。
大好評!3週間で1500冊出て行きました。
岐阜新聞は、7月2日一面トップで、この本の内容を伝えてくれました。
岐阜市平和資料室友の会「国際ミュージアム見学の旅 5,29
一新した 「立命館大学国際平和ミュージアム」を見て
中国引き揚げ漫画家石子順、ちばてつや、森田拳次氏を聞き
カキツバタ最盛期の 平安神宮神苑を 鑑賞しました
戦後60年を迎えました。日本全土を焦土と化し、中国・朝鮮を始めアジアの人たちに大きな犠牲を強いた十五年戦争から私たちは多くのことを学ぶびました。そしてそのことを次代へ伝えようとささやかながら岐阜市にも平和資料館ができて3年がたち、昨年末「岐阜市平和資料室友の会」もスタートしました。
その「友の会」が初めての「平和の旅」を行いました。立命館大学の「国際平和ミュージアム」は開設して12年、リニューアルオープンしました。展示範囲をイラク戦争までひろげ、展示品・パネルを一新し、量・質共に充実していました。「みて、かんじて、かんがえて、その一歩をふみだそう」をキャッチフレーズにスタートを切りました。、やはり日本を代表する平和博物館です。
特別展「漫画原画展−中国からの引揚げ少年の記憶」も開催していましたが、この日関連の記念講演が開かれました。3人の漫画家が引き上げの様子や、描いた漫画について安斎館長の軽妙な司会のもとに座談形式で聞けたのが儲けものでした。2時間があっという間でした。24名の参加でした。
岐阜市平和資料室へおいでください
市民待望の平和資料室は、JR岐阜駅東側高架下の岐阜市生涯学習拠点「ハートフルスクエアーG」2階にに、2002年1月26日オープンしました。
資料室は岐阜市空襲と戦時下の生活をテーマにした常設部分と、年に何度か入れ替える特別展部分とになります。今回は「岐阜で戦争にかかわった人たち」としてビザ発行でユダヤを救った外交官杉原千畝、日中戦争勃発時に反戦的な言辞で有罪判決を受けた竹中彰元などを扱っています。
市民の関心は大きく、26日は午後からですが約900人、27日は約1000人のかたが途切れることなく、待ちかねたように来室されています。自分の戦争体験を語る人、子供に懸命に説明している母親、資料の提供を申し出るひと、正面の焼跡の写真を見て「こんなにひどかったのか」つぶやく青年、人間魚雷回天の模型を見て「これに一人で乗っていくの?マジでー」と驚く娘さん、「戦争は絶対やったらいかん」とお年寄り、説明してまわるスタッフ--、終日戦争が語られていました。
初日には梶原知事、浅野前市長も来られ当時の様子を話しておられました。
岐阜駅西陸橋から発掘した戦災遺品
岐阜市に投下された左M47焼夷爆弾、右E46集束焼夷爆弾(模型)
資料室は約110uの展示場と約10uの倉庫からなります。特別展も年に何度か予定され、近くビデオも入ります。周辺には研修室や女性センター、パソコンルームなどが置かれ、3階の駐車場も使えます(施設利用の場合は割引になります)。開館は午前9時から午後9時まで、月曜休館です。
本来ならば、2階の駅改札口からそのまま会場に来られるのですが、残念ながらJRの工事のためその通路が使用できず、いったん南出口を出て約100m東進、あらためて入館することになります。不便ですが、6月までご辛抱ください。ようやく改札口とつながりました。改札を出て、そのまま真っ直ぐ書店三省堂の前を通り進み、事務所のところで右に折れ奥に進むと到着します。
ささやかな平和館とはなりましたが、市民と行政の手で実現しました。戦争の悲惨さと愚かしさを伝える平和学習の入口として、遜色のない、立派なものにしていきたいものです。