フォーマル            
 
リンク⇓

  岐阜空襲を記録する会 13~


岐阜市平和資料室
岐阜空襲とは?



このサイトに寄せられた体験記
                                     
                                                                                                    
平和講座のご案内
    

                                                                                                                  
岐阜空襲を記録する会 <2012年まで>   2015・16年

                                                        2017~20年はこちらで

                                                        
2021~23年はこちら                                   林 智子さん(岐阜市)画   

                                           

                                            事務局 岐阜市五坪1丁目3番1-404
                                            TEL/FAX 058-246-7273(篠崎 喜樹)

                                              
                                                                                            
 




<行ってきました!学校・平和講座2012>

「昔はここも、戦争で焼かれたの?」
 

★11月16日、本荘中学の2年生に、戦争していたころのお話を聞いてもらいました。



毎年修学旅行で広島を訪れる、本荘中の生徒さん。
広島・長崎の原爆は知っていても、住んでいる岐阜も戦争の被害にあったことはほとんどの子が知りません。
事前学習として、地元・岐阜の空襲について聞いてもらいました。
アメリカ軍は綿密な準備をして、岐阜の町を攻撃したこと。焼夷弾とはどんな武器か。
ひと晩で約900人の市民が殺されたこと…。
初めて聞く地元の被害に、真剣に耳をかたむけていました。



戦時の中学生の体験コーナーでは、モンペと防空頭巾を着用した女生徒さんから、
「防空頭巾は、音が聞き取りにくくて、不便だったと思います」と、貴重な指摘もいただきました。
好奇心旺盛な生徒さんたち。広島の修学旅行でも、たくさんのことを学んでくることでしょう。

 戦争の時代のあと、今は平和の時代です。続けていけるかどうかは、将来のみなさんが決めます。

12月になって本荘中学から、生徒さんの感想文を送っていただきました。「どんなことが印象に残っていますか。どんなことを感じましたか。どんなことを思いましたか」に答えたものです。そのうちから5編UPしました。

◆ この地域 本荘でとてもひどく悲惨な空襲があったなんてとても信じられません。岐阜空襲では約900人の人が亡くなって、10万人が家を失った。数だけきいてもピン!とこないし、かわいそうの一言でおさまらないと思います。
 また、自分たちと同じ年の人が20歳までしか生きられない。20歳まで何をして生きるかを考えたり、すごく悲しいことだと思った。自分の夢は何ですか?と言われたら兵隊になること。としか応えられなかった。そんなんで楽しいと思うのか?疑問に思いました。中3になったら、戦争のための飛行機や器具をつくる。戦争へ行く!考えられません。中学で戦争のための授業、大人がいないから自分が、幼い子が働く。今の自分達の世界、現状からあり得ないし、戦争へ行くための授業=人を殺す授業というものに繋がります。そんなことを中学でしてもいいのか!何故日本はそこまでしてそこまで戦争を続けたのか。約310万人以上の人が亡くなってからしか戦争がいけなかったこと!ということに気がつかなかったのか。その考えから疑問もも感じるし、310万人以上の人の死から怒りを感じます。
 日本の平和が日常ぶってか当たり前になっている。しかい、世界では戦争・紛争が続いている国もあります。今自分がゆうふくに自由に生きていることを幸せと思い、1人の命でも大切である。世界で起こっている戦争・紛争が1日でも早く、1人でも死者を増やさずに、おわるのはいつなのか---。全世界が早く平和になって、笑顔になりたい。(Yさん)

◆ 私は今回篠崎さんの話を聞いた時、正直他人事でした。そんな時代、日本にもあっただなあという感じしかはじめはありませんでしたが、どんどん話をきいていくに連れて、すごく身近に感じたというか、ゾッとしました。
 日々焼夷弾が落ちてくるかもしれない という不安と戦いながらオドオドして毎日を過ごしていくなんて有り得ません。私達が今何も考えずにこうして書いていられる事をすごく幸せに感じました。
 私は自分の命よりも何より一番家族が大切です。そんな家族も一しゅんにして灰になり、また目の前で苦しみながら死でいくと思うと、胸が苦しくなりました。私はそんなに強くないし、絶対に自殺してしまうと思いますww でも真剣にそうだと思います。今私はしたい事をして、食べたいときに食べて。本当に豊かな生活をしています。(Yさん)

◆ 私は改めて戦争の恐ろしさを感じた。
 心に残っていることは、この近くも岐阜空襲の被害を受けていて、ここは軍事基地がある訳でもない、ただのはんかがいで商売をやりたい人が集まっているだけの栄えた町にしょういだんが落とされて、無差別に多くの人の命がうばわれたこと。幼い子どもから老人まで、一瞬にして多くの人が亡くなったそうだ。
 また、私たちと同じ中学2年生までもが、軍事きょうれんという戦争で戦うための訓練をしていたそうだ。この訓練はとても厳しく、試験に受からないと進級・卒業ができなかった。そして、戦争が激しくなると、中学生までが戦争に行かされたと聞き、この平和である今にすごく感謝したいと思った。
 終戦から67年間、日本は戦争をしていない。人々の生き方が変わり、平和な日本をつくっていこうという考え方に人々はなった。(『新しい憲法のはなし』の)憲法の九条には、正しいことほど強いことはないと書いてあると篠崎さんは話していて、私はそれがすごいと心に残った。(Sさん)

◆ 今回、せんそうのことで、色々と聞かせていただいて、やっぱり戦争はだめなこと。こわいことやと思いました。
 岐阜市でも、大変なくうしゅうがありました。
 当時、中2だった男子の平均身長は148ぐらい。今じゃ、148では低い方だから、これが平均だったといわれびっくりしました。
 当時の戦時中は食べるものがなく、米がもらえるかもらえないかの中、人々はいもや豆のつる・くき、とうもろこしの芯、大根などの葉を食べていました。とても、貧しかった事が、この話を聞くだけでわかります。
 また、学校では、男子は戦争でしっかり戦うために「人を殺す」訓練を日々やっていたそうです。また、戦争で人手が足りないと、中学生でも、男子は戦場につれてかれました。
 その頃の女子はというと、機械の部品をつくったり、火を消す仕事をしたりと、男の人がやる事でもやっていて、自分のすきな事をするという夢は持てなかった。
 そう思うと、今の私たちみたいに、こうやって、友だちとしゃべって、好きな事をして、文句をいったりして、本当に大切な事なんだなあと思わされました。
 これからの未来、絶対に戦争が起きてほしくないと、あらためて強く思いました。(Mさん)

◆ 私は篠崎さんの話を聞いて、1894年から1945年の間の、約50年間で、日本は戦争を4回もして、日本の死者は310万人もあったことを知ってびっくりしました。
 また、岐阜空襲でをした目的が、軍事的なものではなくて、ただ平和に暮らしている人を殺すという目的だったことを知りました。この事を知って、僕は「何でアメリカ軍はそんなヒドイことをしたのだろう?」「なぜ」日本は狙われたのだろう?」「何で戦争をしているのだろう」と思いました。
 わざわざ日本は戦争をして、とうもろこしのしんを食べるくらい日本の人々が苦しい思いをするぐらいなら、日本は戦争をしなくてもいいと思いました。
話を聞いて、こんなざんごくな戦争が何で起こったのか、強く知りたいと思ったので、これからの平和学習で、そういうことを調べていきたいです。(Hさん)


2011年本荘中学校2年生の生徒さんの感想です。
 戦争中の岐阜の町と、そこで生きた人たちのお話を、みなさん純粋な感性で受けとめていただきました。思いやったり、自分と比較してみたり…。その一部を内容別にご紹介します。

◆岐阜空襲のDVDとお話、そして空襲の遺物を見て◆
・空襲後の岐阜市は、一面が焼け野原になっていました。たった一夜であんなにもひろい地域が焼けてしまう。この空襲は7月9日の真夜中に起きたということを聞き、戦争中が夜だからといって安心して睡眠できるような状態ではなく、夜もピリピリしていなければならないことにも驚きました。

・ばくだんの中は油だということで、そのせいで、ビンなど焼けた熱で変形した物を見ました。
ぐちゃぐちゃになってて、ビンとは分からなかったです。空からばくだんは山ほど落ちてくるし、まわりは火の海だったし、あと逃げる場所がないとか、死体がだれなのかもわかんないとか、子供も老人も戦争に関係ない人たちまで亡くなってしまうので、最低だと思った。

・ビデオでは、主人公が家族を探しているところが心に残りました。妹の死体らしきものがあっても、ほかの人が持っていってしまう。死んだあと、ばくだんとかで焼けただれた顔では自分の家族を見つけることができなくて、とても悲しいことだなあーと思いました。

・そんなに遠くない昔に、いま自分の住んでいる場所でたくさんの人が殺されていったことを考えれば、戦争は自分と無関係の事ではないと思いました。今、自分のところにばくだんが降ってきたりしたら、どうしたらいいか分からなくなると思います。

◆『戦争のときの子どもと中学生』の話を聞いて
・戦争は、中学生だった子たちの未来や、楽しささえうばったんだと知りました。女子は“もんぺ”という恰好をしなければいけなくて、スカートもはかせてもらえないし、男子は14歳という若さで軍に入ったと聞き、なんで14歳で命をなくさなければいけないんだと思いました。

・戦争時の中学2年生は、平均身長が148㎝、体重が39キロで、とても低いし軽いと思った。理由は貧しくい栄養が足りてなかったから。制服も、兵隊みたいな服で、スカートもNGだったなんて、今じゃ考えられないです。
灰色の青春といってましたが、そのとおりだなと思っちゃいました。

・印象に残っているのは、学校では運動会などの行事をやらずに兵隊になるための訓練をやっていたということです。私たちはあたりまえのように運動会をやったり、飛躍の会(合唱会)をやったりして中学生活を楽しんでいるけれど…。

・軍事教練では、竹ヤリで敵を倒す訓練などをするそうです。学徒動員といって、学生が工場で働かされたりもして、そのころ日本は必死だったのだと思いました。

・そのころの学校では軍事のことしかできず、楽しいことはないのに、篠崎さんは「立派な兵士として見てくれることがほこらしかった」と言っていて、とても素てきな人だと思いました。

・敵の人たちを殺すくんれんや、戦争で生きるくんれんをうけるのは子供にはざんこくじゃないかと思うし、その時は人が死ぬのはあたり前になるのは、おそろしいことだと思いました。

・国のために自分の命を捧げるだとか、兵隊になるための訓練とかを毎日学校でしていたと聞いて、そんな人が傷つくようなことで子供を洗脳するのは、いけないことだと思いました。それを信じて学校へ行っていた学生たちがかわいそうです。
戦争はガラスの瓶だけでなく、人の考え方も変えてしまうことが分かりました。

◆だから、僕は、私は、こうしたい!◆
・自分のおばあちゃんとおじいちゃんは経験しているので、どういうふうだったのか、聞いてみたい。

・私たちはとてもめぐまれていることが分かったので、感謝して生きていこうと思う。それと二度と戦争が起こらないように、平和教育で学びたいです。

・今、私たちは「勉強するのが嫌、やりたくない」などと思っているけど、勉強ができるのは現在がとても平和だからと思い、できる時にたくさんやらなければいけないと思いました。

・65年間も戦争をしていない日本だけれど…。これからも永遠に戦争をしないでほしい。私たちの力で戦争がなくなるように努力したい。







<平和資料室へようこそ!2012




2011年 島中学校一年生の皆さんの平和講座への 『お礼の手紙(感想文)』です。

 先回の平和講座を聞いてくれた島中学校の生徒さんたちが、当会の篠﨑・中島・林に宛てて『お礼の手紙』を書いてくれました。年末に1年8クラス、243人の方の手紙を先生が届けてくださいました。
 手紙は、拝啓からはじまり時候や安否の挨拶、文末には相手の健康を願う、心のこもったものです。指導の行き届いた構成だけでなく、主文はどれも中学1年生でこんなに深く考えて受け止めてもらえたのかと、驚くほどうれしい内容のものでした。
 その中からほんの一部をご紹介します。(全生徒さんを紹介したいところです)

*(手紙内の、主文より抜粋/以下も同じ)---戦争中の中学生のことが印象強く残っています。勉強がしたくても「お国のために」厳しい訓練を受けていたこと、好きなことをしたくともできないということを知りませんでした。将来の夢まで制限されてしまい、今では考えられないことだと思います。今は、なんでもがんばればなれる時代です。それなのに私は、将来の夢はなく、なんでもいいやとと思っていました。でも、将来何にでもなれることはすごく幸せなことなんだと思いました。今どれだけ幸せで、平和か、もう一度考え直したいです。(Iさん)

*昔の生活や小中学校の人々の生活など知らないことがたくさんあり、興味津々で聞くことができました。そして昔の服装を着る体験を見ていて、あんなに着やすいんだと思いました。私は岐阜についてもっと知ることができ、とてもうれしく思います。時が進むにつれて岐阜にあった事実を忘れてしまいますが、私はこの事があったことを、いろいろな人に伝えていきたいと思います。 (Oさん)

*先生方のお話をうかがって、戦争は何もかも奪っていくものだと分かりました。岐阜にも昔、空襲があったと知って驚きました。とても印象に残ったのは、私と同じ中学生くらいの人の暮らしです。いつもおなかがすいていて、楽しい学校もなく、14歳で兵士になるなんて想像がつきませんでした。私たちは夢を持てて、楽しく暮らせているからとても幸せだと感じました。この平和が60年続いているけれど、戦争をなくし80年、100年とつないでいくのは私たちの役目だと思います。(Kさん)

*父の影響で,戦争についての書物をよく読んでおりました。その時はただ、「凄い」「かっこいい」等としか思っておりませんでした。しかし今は、戦争について学習したり、先生方からお話を伺ったりして、それは間違っていたことが分かりました。学んだことを今後の学校生活に生かせるように頑張ります。 (Aさん)

*人々は戦争のせいで食糧不足になって配給を行っていたけれど、それでもひもじい思いをしていることが分かりました。また、戦争中の中学生は勉強をしたくても,戦争の訓練ばかりしなくてはいけないということを知り,今の中学生は,勉強をできて幸せなんだと実感しました。私はこの授業で「命の尊さ」、「食料の大切さ」、「今にある平和」という3つの事について学ばせていただきました。(Yさん)

*先日のお話を聞いて岐阜空襲は恐ろしく、私たちの住んでいる場所などの身近なところでも被害があったことにびっくりしました。私たちと同じくらいの中学生が、女子は工場で働かなければいけなかったり、男児は戦争の訓練をしなければいけなかったりと、関係のない子どもたちまで戦争の犠牲になってしまうなんてひどいと思いました。また、戦争のせいで食べ物もなく,戦争が終わってもひもじい思いを味わなければいけないほど苦しい生活だったと聞いて、私ならがまんできないと思いました。そんな中でも、何年もかけて復興をとげた人たちはすごいと思いました。このような話を聞いて戦争は関係のない人たちまで苦しめ、亡くなった人達もたくさんいる悲しい事であるけれど、一生覚えておかなければならないと思いました。(Sさん)

*私たちは、これから岐阜に日本にこういう時代があったということを心に留めて生きていかなければいけないと思いました。そして、それを次の世代の人に伝えていかなければならないと思いました。人を殺したくなくても殺さなければならないそんな時があったのだから、軽い気持ちで犯罪を犯すことは許されないことだと思いました。話を聞いて私は「今を必死に生きることの大切さ」と、「命の大切さ、尊さ」を学び、より深く考えることができました。(Mさん)

*なぜ人間は、戦争なんて事をしていまったのか疑問に思いました。なぜ戦争なんかをやるのか知りたくなりました。国と国の意見が合わなかったかもしれませんが、でも戦争を起こしてしまうことは多くの命をなくしてしまうことになり、時間ももちろん人の命が無駄になります。(Nさん)

*先生方のお話を伺って、僕は空襲について関心を高め、自分は今後どうしていくかなどを考えました。それは、戦争を起こさないため、みなさまのように、戦争の怖さを訴え、何も戦争は生まず,ただ苦しいだけというのを後世の人達にも理解していただいて、今後一切戦争を起こさず、平和な世界になるように、訴えていきたいと思います。(Oさん)

*「戦争は恐ろしい」「怖い」ということばでおわらせず、一生懸命私たちに伝えてくださる姿に感動しました。また、現在と昔の私たちの生活が違うこと,そして食料不足で亡くなってしまう子どもたち。私は今の生活がどれだけ豊かなのか、今を大事にすごそうと思うことができました。(Kさん)






<全国大会レポート>

全国から63団体、155名の参加で大盛会でした。


↑大会のひとコマ。名市大・阪井教授の歓迎挨拶。        ↑当会より、中島さんが司会をお手伝いしました

全国の研究者および有志が集まる『空襲・戦災を記録する会・全国連絡会議』は、全国各地の持ち回りで開催されます。
第42回を迎える今年は、愛知での開催。名古屋市立大学を会場に、8月25・26日の2日にわたって開催されました。
ふだん愛知とは交友が深いこともあり、岐阜の当会も実行委員会に入ってお手伝いしました。

今大会は、全国26都道府県から63団体、155名が参加。2日間で計30本の報告・発表を行う、これまでに無い豊富な内容でした。
前日からの米軍資料研究会にも53人が参加し、14本の報告と熱心な討論で盛り上がりました。
懇親会には91名が参加して交流を深め、戦跡見学のバスは満員でキャンセル待ちという人気ぶりでした。
また東京をはじめ平和資料館関係者や、大学生・大学院生など若手研究者、地元の中学生も発表に加わるなど、次世代の方々も熱心に参加いただきました。
岐阜記録する会からも、『小中学生への平和講座』について、中島&林の両名が実演付きで発表しました。
大トリとなる最期の報告でしたが、「DVDが欲しい」など全国から高い関心を寄せていただきました。

愛知大会の盛り上がりを受けて、翌年は北海道での初めての開催が決まりました。
今後の発展がますます楽しみです。



↑岐阜の報告(林智子さん) 戦時の中学一年生(平均身長)と、現小学6年生との背比べ。体格差がよく分かります。
  ご助力いただいたのは、瀬戸地下軍需工場跡を記録する会の寺脇さんです。







<NHK終戦記念特集>

『丸物の壁』物語がNHKで報道されました。

丸物百貨店は、戦前から岐阜市にあった唯一の百貨店で、まさに岐阜のシンボルでした。
当時はめずらしい鉄筋の建物だったために、空襲にもすすけた姿で焼け残り、
戦後の復興にはきれいに塗り直されて営業を再開しました。

2000年、(当時は近鉄百貨店)ついに取り壊しが決まった際、
空襲被害ですすけた壁の、一部を切り取りました。
最上階の従業員用の階段、踊り場部分の壁だけが、戦後ずっとそのままに残されていたからです。
いま平和資料室に展示されているその壁に、NHK岐阜支局の小川記者が注目し、
終戦記念向けの報道特集を作ってくれました。
『戦前、戦災、戦後の復興までを見まもった丸物の壁』の物語です。
報道は、8月13日(東海北陸全域)、14日(岐阜地方)と2夜に渡って放映され、
多くの反響をいただきました。
報道を見て、平和資料室の存在を知った方も多く、
資料室の展示内容の充実ぶりを、いまさらながらに喜んでいます。


 ←平和資料室の、一番奥にあるのが『丸物の壁』です。

 ←建物だけが残った『丸物百貨店』の写真パネル。 カメラも注目です。






<行ってきました!出張・平和教室 2012>


各務原市立川島中学に行ってきました。

7月4日、各務原市立川島中学よりお招きを受け、平和講座を行いました。
修学旅行で広島を訪問する事前学習で、中学3年生4クラスの生徒さんが参加しました。
当会の平和講座を各務ヶ原市で行うのは、初めてのこと。
各務原市には戦時中、広大な軍用飛行機工場があったため、
岐阜などに落とされた焼夷弾(火で焼きつくす爆弾)とちがい、
破壊・粉砕用の爆弾で空襲を受けています。
それら地元の戦争被害を、写真資料などを使ってお話ししました。
また、当会恒例の『戦争中の子どもと中学生』のお話にも、
生徒さんたちは目を輝かせて熱心に聞いてくれました。

▲戦時の女学生コスプレ
▲焼夷弾の説明


▲当時の中学生(平均身長)と背比べ。今の生徒さんはずっと大きいですね。


 生徒さんたちから、丁寧なお礼の手紙をいただきました。
 その一部を抜粋してご紹介します


◆写真で、亡くなった弟を背負って直立不動の姿勢を見て、起立とはこういう事と学ばされました。
 必死に悲しみを堪える、自分より小さい少年の写真は、戦争の怖さ、むごたらしさを教えてくれました。(A組男子)

◆私は、このお話を聞くまでは、私たちの住む岐阜県でこんなに大きな空襲があったことを知りませんでした。
 一度の空襲で818人もの死者が出たことを、県民の人たちもあまり知らないと思います。
 二度と戦争がないようにしていくのは私たちだと、改めて実感することができました。(A組女子)

◆私たちと同じ歳ぐらいの子の、戦争当時の様子には本当に心が痛みました。
 「戦争のために死んでこい」というのが正しいこととされ、夢を持つことができず、
 食事もろくに取れないなんて、今では考えられないし自分はたえられないことだと思いました。(B組男子)

◆私が一番驚いたことは、各務原市にも爆弾が落とされたということです。
 その様子は「爆弾の雨」が降っているようだったと聞いて、当時の人たちは恐怖でいっぱいだったろうと思いました。
 また私は、当時の女子が着ていた服を、実際に着させていただきました。
 色や形も今とちがうし、これを真夏に着て動きまわっていたら暑くてたえられないと思いました。(B組女子)

◆自分はあの講話を聞いて、改めて自分たちは幸せだと思いました。
 戦争の被害者の方々はつらい思いや悲しい思いをされたと思います。
 この講話で学んだことを、次の世代にもつないでいきたいです。(C組男子)

◆私たちと同じ歳の男の子は戦争にかり出され、
 女の子たちは学校に行けず、オシャレもできず、働き続けていたことを知りました。
 今の時代に生まれたのは幸せで、食べ物があることにも感謝して食べないといけないと思いました。(C組女子)


◆この平和学習でたくさんのことを学ぶことができました。
 昔の子どもや中学生は、食べ物が少なくて身長が低かったこと。
 中学生は、戦争に向けての訓練が優先で、音楽祭や体育祭もなくなったこと。
 毎日毎日を大切にして、前向きに生活したいと改めて感じることができて良かったです。(D組男子)


◆今こうして私たちが食べ物に困ることもなく、何も気にせず勉強できることは、
 昔の人にとっては当たり前のことではないのだと思ったし、感謝して生活し、
 戦争があった事実を忘れずに受け継いでいけるよう、修学旅行にのぞみたいと思いました。(D組女子)






<行ってきました!出張・平和教室2011>


岐阜でも恐ろしい『空襲』がありました

◆岩野田中学校2年生3クラス

広島に修学旅行に行かれる生徒さんたちが、事前学習として地元・岐阜で起こった戦禍について聞いていただきました
。広島・長崎の原爆は知っていたけれど、岐阜でこんな恐ろしい目にあっていたことは初めて聞く人がほとんどです。真剣に耳をかたむけている姿が印象的でした。


 ←実物の弾筒を持って、焼夷弾の構造を画像で説明します。

↓恒例の『戦争中の中学生(平均身長)と背比べ』。すごく小さいのでびっくり!
←「平和な時代はどれだけ続けられるでしょうか?」

 ←恒例の『戦争中の中学生(平均身長)と背比べ』。すごく小さいのでびっくり!




                     





岐阜空襲と直後の避難生活を描いた少年の記録が出版されました

  鏡 聖涙 「母ちゃんの戦場」 2011.9.1 日本文学館発行 定価:本体800円+税)

 筆者は1934年岐阜市生まれ、岐阜市育ちで岐阜在住。本名は 井上(各務) 精典さん。

岐阜空襲の際、爆撃中心点付近で被災、母親と弟が火傷するのを手当てしながら日野の親戚に避難、その後も転々としながら物不足の中、5人の留守家族
を母親とともに守った様子を読みやすい文章で綴っている。「どんな時でもあなたは、まっすぐに、僕たちを見ていた」と、戦火の中9人のお子さんを産み
子育てに奮闘し、懸命に生き44才で亡くなった母親への愛情と感謝の念がほとばしる、暖かさの伝わる思い出の記録となっている。

 岐阜高島屋自由書房、岐阜駅(アスティ)三省堂などで販売しています。







<夏休み平和教室:自由研究・お助け隊

          小学校高学年、中学生のみなさんと戦争と平和について学びました。

       
    ◆ 岐阜市柳ヶ瀬(1945年7月)   ◆津波の被害を受けた岩手県田老町(加藤宗男さん撮影)

  ことし、東日本大震災で東北・関東地方が大きな被害を受けました。私たちの住む岐阜市も、66年前に町の大半が破壊されました。それは戦争で攻撃されたからでした。この2つの写真はどちらもその破壊の激しさを伝えていますね。今年の夏は平和学習にチャレンジしてみませんか?岐阜市がどんな被害を受け、どのように立ち直ったのか。また戦争中の子どもたちの様子も調べてみましょうと呼びかけ、
8月12日(金)午後、ハートフルスクエアーGの岐阜市平和資料室と・研修室50を使い開催しました。
 
岐阜空襲ビデオ「芽ぶけミヤコよ」の一部と「焦土・岐阜」を見た後
 ①平和資料室見学と 岐阜空襲とその被害、②戦争中の子どもと学校生活③戦争にまきこまれた市民と、戦後の復興の三部構成で、実物や映像・パネルなどを使い4人のスタッフで説明しました。夏休みの一研究に岐阜空襲を取りあげることにした小・中学生や父母、一般参加の方 など28人が参加されました。この日岐阜市の最高気温は37,7度、全国第2位を記録しました。暑い中、ご苦労様でした。

<こんな感想が寄せられました>
*せんそうの空しゅうの時にどれだけひがいが大きいかが分かったから、戦争をぜったいに起こさないように したいです。(9才 男性)

*広島・長崎ばかりでなく、岐阜でも大きな被害を受けたのを知り、おどろきました。どうしてこんなことになって しまったたのか、どうしたら戦争をなくせるか、夏休みの課題として取り組んでみます。(14才 女性)

*内容豊富だったが、モンペを着せたりが慌ただしく、もう少しじっくり話をしても良いのではと思った。
 戦争の話は「ひどい目にあった」という、聞いてる方も滅入るような話が多いけれど、ここでは戦後に 「こうして頑張ったから、今がある」という、復興のプラス思考の話が聞けて良かった。(20才 男性)

*大変勉強になりました。岐阜市がこのような傷を受けた中で復興してきたという事実に、感銘を受けました。 
 資料をきちんと残していただいたことが、とても貴重でありがたいです。(40代 女性)

*戦災と震災を結びつけ、破壊と復興という現在の課題として取りあげられたのは大変参考になりました。 
 震災後、私たちの世代ももう少し頑張らないと…。(43才 女性)

*ガレキのひとつひとつに込められている背景に思いをはせるのは、当時の人々の心に寄り添うようでした。
子ども(小4)と同じ話を聞いて、同じものを見れたので、帰ってから少しずつ話をしてみようと思います。
 子どものクラスメイトにも、話してくれたら良いと思っています。
今回は小・中学生が少なかったかもしれませんが、来年も是非行っていただきたいと思います。(45才 男性)

*小・中学生にとっては、どういう印象の話だったのだろうか? 
 私にとってはオビに短し、タスキに長しの感じがしました。(56才 男性)

*1949年生まれで戦争は知りませんが、周りの大人から話を聞いていました。
 今日は焼け跡の写真を見せていただき、逃げまわった母たちの思いを想像していました。
 二度と戦争に巻き込まれないように、平和について学んでいきたいと思います。(61才 女性)

*具体的に当時のモノを使った説明は、具体的、実際的でよく分かる教室でした。
最後の長崎の少年の写真とお話は、深く心に残りました。(74才 女性)

*出席者が、もっと多くなって欲しいですね。やはり伝えていく事が大切です。そうでないと忘れられてしまう。 各学校でもっと取り上げるべきではないでしょうか?
 66年前を思い出しながら、戦争を再びやるようなことがあってはいけないと、強く思いました。(77才 女性)




  


    
     


(岐阜空襲と戦時の市民生活を伝える岐阜市平和資料室


主催:岐阜空襲を記録する会   後援:岐阜市・岐阜市教育委員会 








「子どもたちに伝える 平和のための資料展」 終了しました。一部は平和資料室でご覧になれます。
    岐阜空襲の記録~ 破壊からの再生~

 空襲の翌朝から2日間、非常炊き出しのおにぎりが配られた。

岐阜空襲はどのように行われたのか? その被害と、焼け跡の廃墟から岐阜市民が立ち上がる様子を写真や当時の新聞、イラストで紹介します。
今年は特に空襲の被災直後の様子を、マンガなでど再現してお伝えします。岐阜空襲を記録する会が企画・構成し、資料を提供した展示です。
 
と  き  2011年7月19日(火)~7月29日(金) 午前9時~午後9時
           7月26日(火)は休館日でお休み、29日は午後3時まで

ところ   ハートフルスクエアーG 2階(JR岐阜駅東隣接)

       <入場無料> 




平和資料室では、空襲時の岐阜の高射砲陣地、民間の防空を紹介する新しい展示、「岐阜空襲-市民と兵士はいかに備えたか」を始めました。こちらもご覧ください。





主 催  岐阜市  問合せ:市民参画部市民協働推進課 058-265-4141 内線6175)








岐阜小学校で 「空襲資料展」開催

 岐阜小学校では読み聞かせの取り組みとして、「平和の鐘の日」(岐阜空襲の)にむけて、全校児童に岐阜空襲の体験を聞く会を行っています。
それにあわせて、一層理解を深めさせようと岐阜空襲の写真、パネル、資料の展示を7月8日まで行いました。
 PTAの役員でもある大橋知可子さんは当時の記録をもとに、粘土で家庭用防空壕を作リました。岐阜空襲を記録する会はこの展示に資料を提供し協力しています。









9条を変えたらあかん!「第4回 あじさい平和のつどい」で岐阜空襲を取りあげました

”あじさい平和のつどい.2011”

と き  2011年6月25日(土) 午后1時30分~
ところ  華陽診療所 岐阜市祈年町1-24-3

◆<お話>  篠崎 喜樹(岐阜空襲を記録する会事務局長、岐阜・九条の会世話人)
   ”破壊からの復興~6年前の、戦災復興から考える”
    東日本大震災から、私たちはどんな再出発ができるのでしょうか?戦中・戦後の映像や記録を参考にお話しします。

◆<ハーモニカ演奏> 武山武司さん ”ハーモニカににのって歌おう”

会 費 300円 *コーヒーなど飲み物と茶菓子付き

主催 梅林・白山九条の会 華陽診療所・九条の会 華陽・九条の会(058-246-7273)

 岐阜新聞の記事







空襲・戦災を記録する会 第41回全国連絡会議 大牟田大会開催されました
日 程 2011年8月20日(土)13時~17時30分 大牟田市労働福祉会館      
       ◆ 記念講演:前田 哲男氏(軍事史研究家・評論家)「空襲の歴史から戦争と平和を考える」      
       ◆ 九州各地からの団体、個人の活動報告      
       ● 懇親交流会(18時30分~20時30分 オータムガーデンホテル)     

     8月21日(日)9時から11時45分 大牟田市労働福祉会館      
       ◆ 1,九州からの活動報告  2,九州以外の各団体からの活動報告
       ● 戦跡見学フイールドワーク(13時30分~17時30分)

参加費  ◎ 大会 2000円(1日のみ参加は1000円)
       ◎ 懇親交流会 6000円
       ◎ 戦跡見学フイールドワーク 2000円(弁当・お茶付き)

問い合わせ先 中島 光秋さん(836-0904 大牟田市大字吉野876-5 TEL/FAX0944-58-3018)

オプショナルツアー 8月22日(月)「世界遺産候補 三池炭鉱の近代化遺産を訪ねるツアー」参加費4000円

米軍資料研究会 8月19日(金)18時~21時  8月20日(土)9時~11時45分 大牟田市労働福祉会館 資料代1000円  
       申し込み先 工藤 洋三さん (745-0121 周南市須々万奥286-3 FAX 0834-88-2776 


0





◆本年(2010年)の『岐阜空襲を記録する会』平和講座

 8つの学校、1000人を超える子どもたちに
 平和のお話ができました。

1月14日  岩野田中学校    2年生3クラス  学校にて
2月17日  西濃学園  中学1年~高校2年  学校にて
2月24日  笠松中学校     2年生5クラス  学校にて
3月18日  藍川中学校     2年生3クラス  学校にて
6月13日  東海市民生協平和委員会 平和資料室~美江寺観音~美江寺公園
7月24日  みどり福祉会「健康と文化」公開講座  ケアハウスささゆり
10月5日  岐阜県立盲学校   小学3年生 平和資料室にて
11月11日 羽島市立正木小学校 6年生5クラス  平和資料室にて  (社会見学)
11月19日  本荘中学校     2年生5クラス  学校にて
11月26日  島中学校   1年生7クラス  学校にて

 2010年は、上記8つの学校と、2団体さんより依頼をいただいて行いました。
 平和講座は昨年より力を入れはじめたばかりでしたが、本年は受講人数が飛躍的に増えました。講座メニューを充実させたり、教材として使用する機器も最新型に進化させたため、多数の子どもたちに見てもらえるようになりました。学校への出張講座では、7クラスの新記録。平和資料室でも5クラスという多学級を、初めて受け入れて行うことができました。
 お話を聞いてもらった1000余人の子どもたちの、平和の芽が育っていくといいですね。

※平和資料室での平和講座は、『岐阜市平和資料室』ページでご覧ください。
※上記の学校への出張講座のうち、3月までの講座は写真を撮るなどの余裕がなく、このホームページ上での報告ができずじまいです。申し訳ありません。ですがこの秋より、講座スタッフの増強・育成を行い可能になりました。今後は学校での出張・平和講座も、できるだけ多く公開します。







「空襲・戦災を記録する会」全国大会に、3年ぶりに参加。発表報告も行いました

◆第40回東京大会に参加

 年に1度開催される、「空襲・戦災を記録する会」の全国連絡会議。今年は(2010.8.21~22)東京で行われました、8月開催になったため岐阜からも3年ぶりに参加することができました。

 記念すべき第40回大会とあって、全国各地の有志研究家・活動家が100名以上参加され、大盛況でした。会場は、神田の専修大学。1日目は、早乙女勝元さんの挨拶に続き、『戦災・空襲を記録する会の歴史と、今後の展望を考える』シンポジウムが行われました。各地の「記録する会」代表者からは活動の成果や、地元自治体との連携の苦労などが報告され、多くの方が『次世代への継承』を課題としてあげていました。

岐阜の平和講座を紹介、注目を集めました。

 2日目は、各地「記録する会」からの報告・発表が行われました。

 当会からは、学芸員の中島裕子さんが発表に立ちました。『子どもに分かりやすい平和講座』と題し、これまでの平和講座で子どもの反応が高かった題材を、パネルやパワーポイントで紹介。ちょうど次世代や子どもへの平和教育の普及が課題となっているなか、その方法の一つとして、イラストや写真を使った教材を見てもらいました。報告後は、「岐阜の資料室や、展示作品が見たい」など、お問い合わせも多くいただきました。

 大会は大学院生のボランティアも多く参加され、活気のある、今後に希望の持てるものでした。

 

<お知らせです>

★平和講座のパネルは、予約してご覧いただけます。 

 東京大会でご覧いただいたものをはじめ、当会の平和講座で使っているパネルや教材は、現在〈平和資料室〉には展示しておりません。ただし、事前にご連絡いただき、資料室にお越しくだされば見ていただくことができます。準備等がありますので、電話でご予約ください。







新発見!65年ぶり 岐阜空襲の戦禍を伝える写真9枚 岐阜市平和資料室で公開してます
  十六銀行本店から長良橋通り北を望む。左奥に丸物百貨店。元気に歩く人たち。

  長住町町通りを東へ。白山の火の見やぐらが見える。
何人かが集まり相談をする様子があちこちに。

これまで一度も公開されたことのかった岐阜空襲を伝えるフイルム(ブロニー版)が10枚見つかりました。このほど国の重要文化財美江寺十一面観音立像を戦火の中からかつぎだして守った、当時のご住職の活躍を記録された佐藤信次郞さん(下段の体験記をご覧ください)の遺族のお宅を訪問し見つけたものです。記録する会でスキャンしてみると長住町の十六銀行本店屋上から360度俯瞰したもので、これまでの柳ヶ瀬丸物百貨店から撮影されたものとは違う見たことのないアングルのものです。1945年秋撮影のものと推定され、焼け跡から復興の息吹を感じさせる貴重なものです。

7月13日から岐阜市平和資料室常設展示コーナーで公開しています。





岐阜市主催「子供たちへ伝える平和のための資料展」に 写真を提供しました

夏の恒例、岐阜市主催の「子供たちへ伝える平和のための資料展」に 展示写真を25枚提供しました。岐阜市はこれをパネルにし展示しました。
また、同時に岐阜空襲の体験を描いた うえのたかしさんの版画「火の記憶」の展示をしました。


期 間  2010年7月17日(土)~8月2日(月) 午前9時~午後9時 *7月27日(火)は休館日のためお休みです。
場 所  ハートフルスクエアーG 2階 キュービックギャラリー前壁面







2010年「平和の鐘」の日:7月9日(金)
協力しました
 「900の竹灯籠に 平和の祈りを込めて岐阜空襲慰霊祭 in美江寺観音」
 

2年目になる美江寺観音空襲慰霊祭、今年は企画が増え、終日催しが続きました。            
  

朝9時より仁王門にて、鐘つき900回 
 
ふだんは登れない仁王門登楼の鐘を、参加した皆さんに平和を願って夜までに900回撞いてていただきました。とりわけ加藤副住職は大奮闘で、翌日の足取りが---。

午後7時ごろより、点灯開始900体の竹灯籠し、慰霊祭、そしてとミニコンサート
竹灯籠900体は、空襲で亡くなられた方の人数です。
雨の日になりましたが、幸い夕刻頃あがり、本道、阿弥陀堂、仁王門、石灯籠など境内各所に、1本がお一人と思い点灯されました。厳粛な雰囲気の中読経や、インドの弦楽器サロードや和太鼓などの演奏もおこなわれました。

 午後1時すぎから平和をねがう、昔流の七夕まつり
午後1時すぎから物が不足していた戦前は、植物の葉っぱを裂いて七夕にも使いました。盲学校の生徒さんも熱心に参加されました。
昔ふうの七夕に、平和の願い、雨あがれの願いなどがを書かれていました。

午後5時ごろから戦時の食べ物、すいとんの炊き出し
戦争でお米や食べ物がなかった時代に、食べていたのがすいとんです。市民生協の方たちの協力で境内で当時のものを再現し、調味料などを使った現代風のものと食べ比べをしながら、当時を偲びました。、
        

7月9日(金:慰霊祭当日)~11日(日)の終日 新発見写真展「市民の見た、岐阜空襲と戦後の町」&空襲ビデオ「芽ぶけミヤコよ」、多治見空襲ビデオなど上映(阿弥陀堂にて)

   

                   
主催:美江寺観音 加藤弘春 :058-262-6793 協力:岐阜空襲を記録する会 






平和〉と〈長良の街〉を学び、〈重文の観音さま拝観〉で感激!
           東長良中学3年生が、美江寺観音で平和学習
  

 09年11月5日、東長良中学校3年3組と4組の生徒さんが、美江寺観音を訪れました。
 「自己創生」のテーマのもと、「戦争と平和」「豊かな岐阜づくり」を学ぶ体験学習で、空襲の被災中心地から復興した、美江寺での開催となりました。美江寺副住職の加藤弘春さんと、当・〈岐阜空襲を記録する会〉が協力し、各クラス午前と午後の2時間づつ、お話と案内をしました。


1.『岐阜空襲』のビデオ鑑賞
 午前のクラスは、記録ビデオの『岐阜県下の空襲』。午後は絵本が題材の『芽吹けミヤコよ』を見ていただき、岐阜空襲のあらましをつかんでもらいました。

2.篠崎さんのお話
 ①ビデオの補足と、自身が小学5年に体験した「空襲」および戦前・戦後の学校のお話。
 ②記録する会の入手した空襲直前の米軍空撮地図から読みとる、長良の街づくりの特徴と、昭和20年頃のの人々の暮らし。
 ③日本の近現代史での、戦争と平和の時代区分から空襲を考える。 その他

 
①では長良に住む生徒たちに、郷土の街の成り立ちを説明しました。「当時の史料から、人々 の暮らしを読みとる」学習に、生徒たちの目もらんらんと。
 ③ではおおまかな時代区分で戦争と平和を考えました。生徒さんたちは問いかけにも活発に答え、とりわけ「1854年、これは何の年でしょう?」→「○○です!」
 この答えを即座に出した中学生は初めてだと、先生も感心するほどでした。

3.戦時中の少年少女のパネル紹介
 ①『岐阜空襲、市民と兵士の防空』(09年『市労連平和展』)
 ②『戦火の中学生日記』(07年岐阜市)
 ③『戦争をしていた国の少女たち』(09年あいち戦争展)

 
これまで平和展に出展したマンガパネルから、中学生に身近なものを抜粋して見てもらいました。 まずは①のパネルで、空襲対策には市民も努力しながら、被害が避けられなかったことを。②と③は、中学生世代の少年少女が、戦時中どんな日々を送っていたかを、マンガや写真で見てもらいました。14歳で兵士として出征した写真には驚きの声も。

4.和尚さまのお話と、重文のご本尊拝観

 加藤副住職さんが、美江寺と周辺の戦災のお話をされました。
 美江寺観音のご本尊、十一面観音像は、天平時代の作で国の重要文化財。空襲の猛火のなかを、先々代のご住職が命がけで救いだしたお話は感動的でした。
 今回は特別の計らいで、生徒たちに観音像を拝観させてくださいました(ふつうは年に一日だけの公開。) 荘厳な天平仏に、生徒さんはもちろん、引率の先生方も感激してみえました。和尚さまにはその後、境内もご案内いただきました。

 終了後は、「戦争中に、あんな教育を受けて疑問に思わなかったのですか?」の質問や、
「仏像に感動した!」「これからは私たちも平和の大切さを伝えていきたい」など、うれしい感想もいただきました。
 午後の4組の生徒さんは終了後、御礼にと、自慢の合唱を聴かせてくださいました。
 『花をさがす少女』のフレーズが印象的な、平和がモチーフの歌です。美しい声に、お寺の本堂は音響効果もよく、心が洗われるようなひとときでした。
※学校の平和見学は、ホームページ「岐阜平和通信〈」岐阜市平和資料室〉のお部屋でも紹介しています。

※なお、映像資料『岐阜県下の空襲』は、高校生向けの教材で内容がかなり混み入っているため、一般向けおよび小中学生向けに、分かりやすく作り直す予定です。(レポート/中島裕子)

後日、うれしいお便りや感想ををいただきました。その一部です。

◆---さて先日はお忙しい中、戦争のお話しをしていただきましてありがとうございました。私たちは今年、総合学習で岐阜空襲について学び、次の世代へ伝えたいと思います。先日のお話を聞いて、インターネットで調べることができなかったことを知ることができました。私は、中でも自分たちの将来の夢について、自由に話すことができなかった、ということをお聞きして、とても驚きました。今なら、自由だけど、その時代は男の子なら「兵士」だと決まっていて、それは当然のこととされていました。私は、本当に今回このようなことを聞くことができたうれしかったです。---3年4組 1班

◆---特に心に残ったのは、空襲中、当時の住職の方が、必死で観音様を背負い、守り抜いたというお話しです。私はそのお話から、お寺までも焼いてしまうという戦争の恐ろしさや、戦火の中、何が何でも守り抜こうとする、戦時中の人々の心の強さを知りました。
 また、実際に見せていただいた、観音様や灯籠は、ボロボロになっていますが、戦争の時代を生き抜いてきたたくましさや、守り抜いた人々の思いが詰まっている気がしました。
 私達は今回、パソコンや本で調べただけでは分からない貴重な体験をさせていただきました。私達のの総合的な学習のゴールは、「平和や豊かさを創り出す願いや方法を語り伝える」ということです。「今回の貴重な体験から、どのようにして願いを伝えていったらよいのか考え、今後の総合的な学習に活かしていきます。---3年4組 2班

◆---一番印象的だったお話しは、戦時中に学校で授業ができず農作業をしていたというお話です。学校は勉強するところなのに、それができないなんて今では考えられません。わたし達は今、当たり前のように学校へ行き、当たり前のように勉強をしています。わたしはそんな当たり前のことを幸せに感じたいと思いました。そして自分の両親にもっと感謝したいです。
 あと戦争は二度としてはいけない、戦争をする事により大木の人の命がなくなることなど悲しいことばかりだということが分かりました。そのことをより多くの人に伝えていきたいです。 ---3年4組 4班

◆---特に印象に残ったのは、私たちと同じ年代の子が、国のため兵隊として駆り出されたことです。戦争が終わって無事に生還した子もいれば亡くなった子もいたことを知りました。15歳という若さでこの世を去っていったことを思うと、とても悲しい気持ちになると同時に、戦争のむごさを感じました。
 私は、今の時代に生まれてきたことを幸せに思わないといけないことが分かりました。最近は自殺する人が多くいます。昔は、生きたくても自分の思うようにならなかった時代でした。命の大切さを一人一人が感じ精一杯生きることが、私たちがすべきことだと思いました。
---3年4組 5班

◆一日体験に行く前は被害の状況とか表面のことしか知りませんでした。でも実際に見学に行って、戦争を体験した人の気持ちを知ることができました。戦時中の生活は今はとても想像できないし、怖くて考えたくないけれど、そういう戦争は二度とやってはいけないと伝えるべきだと思いました。(3年4組 OMさん)

◆---戦争は恐ろしいもだと、より理解できすることができました。特に、学校の運動場が畑になっていたり、空襲による岐阜のまちをの様子を知ってとても驚きました。表や写真を実際に見せていただき、「これは他人事ではないな。」と思いました。今ある平和は私たちが守って行かなければならないと、わかりました。---3年3組 KRさん

◆---岐阜を空から見た映像では、戦争で燃えた家々から戦争の生々しさが伝わってきて、本当にこんなことがあったのか思うぐらいすごいものでした。話しでは、学校で人を殺す訓練や、いろんな土地を開墾して畑をつくっているなど、今では考えられないような事から、どうやったら戦争が起きないように出来るかを考えていけるようにしたいです。---3年3組 KUくん

◆---僕は空襲といったら東京大空襲しか知りませんでしたが、自分の住んでいる地域ににもそのような空襲があったことが分かったし、空襲の怖さというのも分かりました。これからは空襲の怖さなっどを次の世だいへと伝えていきたいと思いました。---3年3組 IAくん

◆戦時下の悲しい現実や、戦争のおそろしさを実感しました。また、人々が苦しい生活の中でどのような思いで生きておられたかがよく分かりました。私は、戦争は絶対にやってはいけないものだとあらためて思いました。これから私たちは、戦争を体験された方々の思いを受け継ぎ、この先一生、戦争がおこらないよう戦争のおそろしさを伝えていきます。---3年3組 HMさん

◆---加藤様に十一面観音を見せていただきありがとうございます。めったにない体験をさせていただき、十一面観音を見て、中は空洞になっているとか、布を漆ではっている、ということが分かりました。貴重な体験をさせていただきありがとうございます。いい思い出になりました。---3年3組YYくん






     西濃学園中学校:「平和について」コラボレイト授業に参加


 揖斐郡揖斐川町で寝食を共にして不登校生の自立支援をしている西濃学園では、今年度月1回ののペースで「戦争について」学ぶコラボレイト授業が行われています。岐阜空襲を記録する会では、その2回目の10月7日に招かれ2人が参加、ビデをを使っての岐阜空襲と、パネルを使っての当時の防空問題について説明しました。焼夷弾や溶けかけたビンなどにも関心をもち、熱心に聞いてくれました。

 西濃学園では、10月25日(日)藤橋地区文化祭で、この取り組みの一環として戦争をテーマにした創作劇「ナイン」を上演します。”
戦争を知らない世代が、戦争を知らない世代にいかにして戦争を伝えていくのか?”をキャッチに、生徒さんや先生たちたちはがんばっています。午前11時から、体育館で幕が開きます。






27回目を迎えた 市労連平和展 2009 に参加しました

と き 7月25日(土)26日(日) 9:30~17:00
ところ 岐阜市民会館 2階展示ギャラリー (岐阜市美江寺町 058-262-8111)
入場 無料

<展示>
1,岐阜空襲~1945.7.9 岐阜市野惨状~
  ・岐阜空襲写真パネル
  ・M47焼夷弾現物資料
  ・E46集束 焼夷弾模型
  ・空襲による市内かれき  
  ・官民による防空体制  その他  岐阜空襲を記録する会が協力します

2,大垣空襲~模擬爆弾の投下~
  ・大垣空襲の資料

3,最大・最悪の空襲~原爆~

4,沖縄戦における「空襲」
  ・沖縄戦写真パネル
  ・住民の見た沖縄戦「証言」  その他

<講演>
  ・岐阜空襲とは--?~体験・生死のはざま~
      講師:若原 敏夫氏(岐阜市在住)  13:00~14:00(25日・26日)

<映画>
  ・アニメ「うしろの正面だあれ」 10:00~11:30  14:15~15:45(25日・26日)
 
そのほか「折り鶴コーナー」 「読書コーナー」も設けられます。


岐阜空襲で、オリンピックの金メダリストが参戦していた!
 市労連主催の平和展で、今年は「岐阜空襲」が目玉とのことでご依頼があり、出展協力します。
 岐阜空襲を記録する会の今回の調査て、あの岐阜空襲の時、オリンピックの金メダリストが、高射砲部隊に配属され、岐阜鏡島に設けられた高射砲陣地で応戦していたことが分かりました。
 第11回ベルリンオリンピックの1500m自由形で金メダルを取った寺田登さんです(写真中央)。寺田さんは当時、結婚により姓が伊藤と変わっていましたが、軍曹(班長)として、下記の下(しも)さんらを指揮し、鏡島の高射砲陣地で配置についていたとのことです。
 初めて知られた事実で、市労連「平和展2009」 7月25・26日(土・日)で紹介しました。


岐阜空襲、市民と兵士のたたかい ~危機管理はできたのか? その結末は~

 市労連平和展のために、新たにつくるパネル展示です。テーマは『防空』=空襲への危機管理、です。このなかで、市民が行った〈灯火管制〉や〈バケツリレー〉などの『民防空』はよく知られてますが、軍が行った『軍防空』についてはほとんど知られていません。
 今回、元陸軍高射砲兵の下信行さんの記録を生かし、兵士たちのたたかいぶりも紹介します。
 下さんの所属された松村隊は、当時としてはかなりの成果を上げた部隊で、戦後に米軍が松村隊長宅を訪れ、事情聴取をしたほどです。にもかかわらず、岐阜の街は焼け野原になったこと、また〈高射砲〉とは今でいうなら話題の〈PAC-3〉=迎撃ミサイルに相当することなどから、現代への教訓は多いと感じます。
 

















美江寺観音(岐阜市)で 「岐阜空襲被災慰霊祭」が行われました。
 

 
岐阜市空襲から64年目の09年7月9日(木)、美江寺観音では初めての「岐阜空襲被災慰霊祭」が行われました。
 当時岐阜県庁や市役所、公会堂の立ち並ぶ官庁街にあった美江寺観音、本堂は全焼、本尊の国重文の十一面観音は先々代住職さんが背負い、阿修羅のように走り近くの公園に移し、水かけて消火したと記録されています。享保年間に寄進され境内に立つ石灯籠などには、焼夷弾の炎に焼けた跡が生々しく残っています。

 副住職の加藤弘春さんの「被災体験を風化することなく引き継いでいきたい」という想いから、64年目にあたるこの夜この計画が実行されました。読経の流れる中、参詣者の手で石灯籠と岐阜空襲で亡くなられた霊に当たる900の竹灯籠に火が灯されるると、境内は厳粛、荘厳な雰囲気に包まれました。灯に弔いの祈りを捧げる参列者もいました。
 また、岐阜空襲の記録映像「岐阜県下の空襲」「芽ぶけミヤコよ」を大型スクリーンに流し、当時の様子を再現しました。

 昼間には、岐阜空襲を物語る写真展を観たり、自分の体験を語っていかれた方もいました。新聞にも大きく取り上げられ、読んだ人からの問い合わせも相次ぎました。来年以降も数少ない戦災犠牲者への追悼と平和への祈りの場として続けてほしいものです。岐阜空襲を記録する会も応援しました。






ビデオ「『芽ぶけミヤコよ』より」を観ての感想文をいただきました

 
戦争はやっぱり何のために行うかわかりません。家族、友達が焼け死んで自分が生き残ったとしても、一生心の傷をおわなくちゃいけないし、なにより身近な人の死がこわいです。火によってはだがめくれたり、真っ黒になったり、はだがたれさがったり、とても人間とはおもえないようなものになってしまいます。小学校のときならった広島の原爆は、岐阜空襲よりとてつもなくひどいけど、戦争は同じです。こんなに簡単に人の命をうばいあいっこしていて、改めて、戦争のむごさを知りました。
 今、私が思っている戦争より、事実はもっとむごいものです。今の日本は戦争はしないけど、やっぱりこのままのくしてほしいし、世界で行っている戦争もなくしてほしいです。(07年7月:岐北中学2年 五味香織さん)


 このビデオを見ると、すごく激しく、こわく、今では想像できません。
 空襲では、家族がバラバラになり、自分一人しか生き残らない。すごく悲しいです。何も関係のない市民が殺され、戦争の怖さが分かりました。
 アメリカは戦争のためにB29をつくって、たくさんの命を奪い、たった2時間の間にたくさんの命が失われた。
 私は、岐阜を血の色に染めたくありません。戦争は絶対してはいけない。自分は何もできないが、心に「戦争はやってはいけない」と心にきざもうと思います。何もやっていない人々を殺すことは2度と行わないようにしてほしいし、みんなの心にも私と同じように「戦争は2度としてはいけない」という心があれば、2度と戦争はおこらないとおもいます。                                         (岐北中学1年  高井あんずさん)


 たった1日で、岐阜の町が消えてしまうなんて、とても信じられません。アメリカの空しゅうで、とてもたくさんの人が亡くなって、家を失い、とても私が住んでいる岐阜の話とは思えないし、思いたくもありませんでした。
 戦争をしているのは国であり、市民は何も悪くないのに、ぎせいになって、とてもおかしいと思いました。市民が警報を聞き、みんなで協力し合って消火したり逃げたりするのが、危機でも助け合っているのが、すごいと思いました。必死で逃げながら、燃える電車や家屋を見て、とてもこわかったと思います。
 これからは、こんな想いをだれもしないように、戦争は絶対にしないでほしいと思いました。(岐北中学1年 箕浦由依さん)

  




こんなお便りをいただきましたので、ご紹介します。(2001,12,28)

 こんにちは。私は岐北中学校2年のものです。この冬休みに岐阜空襲のことを
調べる事が宿題となり<岐阜空襲を記録する会>のホームページを見させて頂きました。      
私は負傷者の数・・・などという記録に残るものではなく体験者の方々の気持ちを調
べてみたいと思っていたので、このホームページを見つけたときすごく嬉しかったで
す。戦争というものは けっして忘れてはいけないものだと思いますが忘れたい一面もある
と思います。
 私の
祖父も 運良く戦争から帰ってきましたがその時の様子などとても
ききにくいです。祖母に対
しても 同じです。だから川上 久枝さんや村田 秀雄さんの
体験記を見たときは「これはい
いチャンスだ。岐阜空襲について知ることが出来ると思い
ました。本当に役に立ちま
した。
 私は中学生で岐阜空襲を語り継いでいく会(???)などのメンバーではありませんが
この資料などに載っていたことはしっかり語り継いでいきたいと思います。



岐阜空襲を記録する会は、1974年5月発足しました。呼びかけ人には岐阜市長、 県評議長、岐阜大学学長、県会議員など45名、山本堯岐大教授を会長に、篠崎喜樹 を事務局長に選出、以来今日までの四半世紀、活動を続けて来ました。

その間の主な活動は次のようです。

{出 版} 写真集「岐阜・各務原・大垣空襲」 7000部(1975年)
      体験記集「火の海からの証言」 1000部(1976年)
      「岐阜空襲誌-岐阜・各務原・大垣-熱き日の記録」 2000部(1978年)
      絵本「子どもたちにつたえる岐阜空襲 芽ぶけミヤコよ」 8000部(1985年)東京法令
      「岐阜の戦争遺跡を訪ねて」3000部(1993年)
      「岐阜も戦場だった-岐阜・各務原・大垣の空襲-」3000部(2005年)  

{ビデオ} 「岐阜県下の空襲」(32分)
      「岐阜市空襲-「芽ぶけミヤコよ」より(27分)
      「焦土:岐阜」(4分)

{戦争展} 「戦災30周年岐阜空襲展」開催 入場者4万5000人 丸物百貨店(1975年) など

{その他} 戦争体験を聞く会、聞き取り調査、資料の収集
       スライド、ネル作成、貸し出し、講師派遣
       全国連絡会議、東海交流集会などに出席
       「岐阜市非核都市宣言をめざす推進センター」を結成、事務局長をつとめる(1983年)
       「岐阜市平和館をつくる会」を結成、以来事務局をつとめる(1993年)
            「岐阜市平和資料室」をオープン (2002年)
       「岐阜市平和資料室・友の会」結成(2004年)
             特別展、講演会、平和施設見学ツアー、見学者案内などをを行う


{全国大会の開催}
       「空襲・戦災を記録する会第28回全国連絡協議会」を岐阜市平和館をつくる会と共催、31団体134
       名が参加(1998年)

     

全国大会にあわせて開かれた「子どもたちに伝える平和のための資料展」岐阜市民センター
  
         

  
焼夷弾模型                   




HOME


        

                   
フォーマル